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ごめんなさい 許してください ありがとう 愛してます
imacoco37の日記 [全584件]
前代未聞の大地震が起きて、大津波が発生した。押し流されていく家、車、船・・・ テレビの映像を見ていると、誰かが作った映画そのもののようだった。
何もかもうまくいかないときは、試されるときであると同時に、癒しのときでもあります。私たちはとかく、大事なのはテストに合格すること、すなわち問題を克服することだと考えます。しかし、そのようなことでは、ものごとは真の意味では解決されないのです。うまく整理され、また混乱が起きる。それもどうにかおさまったかと思うと、また混乱する。それだけのことです。癒しは、それらが起こるままにしてやる心の空間をもつことから生まれます。悲しみの空間、ほっとする空間、惨めさの空間、歓びの空間です。 たとえ嬉しいことが起こるだろうと期待していても、実際に何が起こるかは誰にも分りません。惨めになるだろうと思うときも、同じです。最も大切なのは、何が起こるか知らないまま、ただ心の空間を持つことです。 何もかもがうまくいかず、お先真っ暗で崖っぷちに立たされたとき、私たちは試されます。その崖っぷちに、何もせず立ち続けることができるかどうかが試されます。精神の旅とは、天国の道でも、あらゆる願いがかなう場所への到達でもありません。それどころか、そういったものの見方が、私たちを惨めな場所にとどめつづけます。 体が震えるほどの激情と共にいる。傷ついた心、ひきつる胃、絶望、復讐を誓う心と共にいる…それが覚醒にいたる道です。見通しのなさと共にいて、パニックに陥ることもなく、その混乱の真っ只中でリラックスするコツを知る…これが精神の道です。(「すべてがうまくいかないとき~チベット密教からのアドバイス」ペマ・チュードウン著)
「人間」の本当の幸福は、相手の幸せのために自分がいかされていることが、感じられるときに味わえるものです。このことは本当に本当です。自分の幸せばかり追求することによって得られる幸せなど、本当の幸福ではけっして、けっしてないのですから。 私はいつも、人のためになにかをすることが、じつは、自分のほうが豊かに生かされているのだと実感するのです。そのことによって大きな幸せを感じることができるということを体験しました。自分がやりたいことだけを優先させてやっているという生き方の中には、幸福を見いだすことはできないということを、教えられる半生だったような気さえします。
「私たちは子どもをしつけするとか、いろんなことをするときにも、いまよりも、一歩前進ということを、たえず子どもに期待するわけです。けれども、その期待は子どもにたいして、「こうなってくれなくてはいやだ」とか、あるいは、「早くそうなってくれなくてはだめだ」とかいうのとはちがうのです。子どもに一定の成長や発達をうながしながら、けれどもその速さや限界は、子どものあゆみのままでいいというふうに、子どものありのままの状態を、親が本当に満足して、受け入れてあげられるかどうかが、たいせつなことなのです。 もうひとつたいせつなことは、子どもの望むことを望んだとおりに、どれくらいしてあげられるかということです。子どもが望んだら、その通りにしてあげればいいのです。それは子どもをあまやかすことだし、その結果、過保護にしてしまう、子どもを堕落させてしまうと心配している人がいます。こどもの言うことを聞いてあげすぎたら、子どもは依頼心が強くなって、自立しないのではないかという誤解というのは、非常に根深いものがあります。そんなことはぜったいないのです。おんぶとかだっこというから、そのたびにしてあげたら、子どもが歩けない子になったなんてことは、けっしてありませんね。おんぶというとき、おんぶしてもらえる、だっこといったとき、だっこしてもらえた子どものほうが安心して、自分を信じて自立していくのです。 では、そういう愛情がたりないと、なぜ自立しないだろうか、こういうことを考えてみてください。子どもは自分で望んだことを、十分してもらうことなしに、自発的に強い自立の意欲をわかせないのです。言われたことを不承不承、最低限度にやろうという感情にしかならないのですね。この関係はやってみるとよくわかりますよ。」(傍線今村)
![]() 朝の光の中でゆれるコスモスの花 「相手が私のことをどう思っているかということは、私が相手をどう思っているかということと、ほぼおなじことなのです。これは非常にわかりやすく重要なことです。ですから、こちらが相手を好意的に思えれば、相手だってかならず、そういうふうに思うようになるのです。」 「人の善意を感じにくくなったということは、自分が善意をなくしてしまったことですから、どんどん孤独になって、いきていることが苦しくなりますね。本来、善意のない人なんかいないのだ、そう思って生きるのが、本当は幸せなのだと思います。人を信じることができる自分というのは、自分でも自分のことを信じて好きになれるということです。」 「親子関係もまったくおなじなのです。ですから『親が僕のことを不足に思っている』と感じる子どもは、子ども自身も親のことを不足に思っているのです。親が子どものことを『ありのままでいいよ』と思っていれば、子どものほうでも、『僕にとっては、そのままのお父さん、お母さんで十分だよ』と思っているわけです。親が子どもにたいして、『まだあそこがだめだ、ここがだめだ、あるいは、ここがこうなればいいな、あそこがああなればいいな』と思っているうちは、子どもの方だって同じように、親に対して不足だらけに思っているわけです。」(佐々木正美著「子どもへのまなざし」より)
ブログを書くことと葉書きを書くことの違いは何だろう。葉書は一人の人のために書くけれど、ブログは不特定の人に公開する。読んでいただく人の数の差は歴然としているものの、葉書はどこか違った魅力がある。 6月13日から書き始めた入院中の恩師に対する葉書が100枚を超えてしまった。返事は来ないのだが、書くことが楽しい。それは恩師に読んでもらい大切にされ喜ばれているという気がする。 やはり僕は顔の見える付き合いがしたい。読んでくれている人が日々どんなことを思いながら暮らしているのか分かり合えるようなお付き合いがしたい。今、空のブログを前にして何もできない自分がいる。
人類の破滅のシナリオがあるといっても、あくまでも3次元の考え方。希望はあらゆるところにあるように感じるので、きっと善い世の中になるという希望は持っている。一番大切なことはみんながクリキンディになること。 森が燃えていました 森の生き物達はわれ先に逃げていきました でもクリキンディというハチドリだけは行ったり来たり くちばしで水のしずくを一滴づつは込んでは火の上に落としていきます 動物達はそれを見て そんなことして何になるんだと笑います クリキンディはこう答えました 「私は私にできることをしているだけ」 |一覧| |