人を待つ間暇だったので、ヘミりました(笑)。
まさかこんなに早く変性意識に入れるとは思わなかったのでちょっと戸惑いましたが。
ガイドが現実世界にいる私の小さな友人として現れてきて(笑)、姿は見えませんが声もしくは感覚的に「胎蔵(界)曼荼羅に行くんやろ?」みたいなことを言います。
私が何のことだろうと一瞬思っていると、自然に、それは我々がフォーカス49と呼んでいる領域にあると思われる集合意識内を指していることが直感的に感覚的に感じられてきました。
そこで私は、「あーあそこは曼荼羅の世界なんだな。」と思った次第です。
曼荼羅をイメージしなさい的な雰囲気になってきたので、最初は太陽を映した時に見える曼荼羅を、次にCGで以前に見た曼荼羅をなんとなくイメージしているうちに、フォーカスレベルが瞬時に集合意識レベルに固定されていきました。
最初、まさかとは思ったのですが(速すぎるために)。
ここからは、本当に本当に夢物語として聞いてください(笑)。
私は、我々がブッダと考えている存在を私に認識できる形でとらえている(視覚的に見ているように感じている)のですが、最初に出てきたのは、お釈迦さんのほうです。
で、次に出てきたのは、我々が弥勒菩薩と呼んでいる存在です。
ブッダによれば、弥勒菩薩と釈迦(如来)は一体らしいです。
私は仏教はよく知らないんですが、確か菩薩と如来には違いがあったはずだなと思い、その辺について融合したブッダに聞いてみることにしました(「融合」という言葉を使ったのは、釈迦と弥勒との「融合」という意味合いで使っています。)。
ブッダによれば、菩薩とは下界を意味し、如来とは天界を意味するのだと言います。
本来は両者は一体不可分なのですが、あえて「そういう状態」をとっているのだと言います。
(なぜ「そういう状態)をとっているのかはあえて言語化しません。「進化」と表現してもさらなる誤解を生む可能性がありますし、他の言葉で表現しても五十歩百歩だからです。)
しかも、密教の世界で言われる、胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅とは、本来一体不可分らしく、密教ではどう考えているのか私には知りませんけれども、私が感覚的に得たところでは、ブッダ達が金剛界曼荼羅にいるとすれば、我々は胎蔵曼荼羅の世界で生きている、なんとなくですがそんな印象がありました。
つまり、ここで言いたいのは、胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅は別々のものであるかのように我々はもしかしたらとらえているかもしれませんが、本来は一体不可分なもので、そのことが、ブッダと我々との関係にも当てはまるのだ、こんなことがどうやら言いたいらしいのです。
誤解を恐れずに言うと、菩薩とは今の我々のことだと言います。
それに対して、如来とは、天界で我々とは別に存在している高次元生命体です。
本来我々は一体不可分なのですが、「我々から見れば」そういう風に分離して「見えている:だけなのだとか。
ですから、ブッダによれば、本来はブッダも釈迦菩薩如来と表現するのが適切らしいのです。
私は、そうやって我々自身の本来の姿とでも言いましょうか、そんな多次元的存在状態を通常の感覚を超えた感覚でとらえていました。
ある状態が見えてきました。
それは、どうやらこの先我々が進んでいく方向性とでも言いますか、エネルギー状態とでも言いますか。
集合意識としてのブッダの視点から見ますと、1000年後の我々の様子も、明日の我々の様子も同じ視点で見ることができるみたいです。
我々は、遅々として進まない我々の社会の混乱ぶりの印象をブッダに投げかけてみました。
すると、進化とは、遅々として進まないものだが、「気がついた時には」いつの間にか以前出来なかったことができている、以前を超えたレベルに到達している。
そんな、表現するには困難な淡い印象が意識の中心からやってきました。
時空間にどっぷりつかった我々の持つ常識でははかりしれないのですが、時空の超えたところで(すなわち私が「永遠の今」と呼んでいる状態で)、今ここにおいても存在している我自身の姿です。
そのとき、我々にはもはやいかなる葛藤もなくなっているように感じられました。
争いなどは皆無で、いかなる望みもまた常に我々と共にある、そんな超現実的世界です。
それが、1000年後には実現されていると感じます。
今から1000年前の我々には、今の現代社会での暮らしぶりが想像さえできなかったであろうように、今の我々にとっても、今から1000年後の生活というものも、たとえこんな感じだと言われたとしても、想像できないものです(笑)。
人間の形態はとっています。
我々の服装とはかなり異なっているようですが(全体的に白っぽい印象がありました)、ちゃんと男女の区別もあるようです。
ですが、子孫を残すための行為はしていないと感じました。
それどころか、食べ物を食べている印象がなかったです。
もちろん、それでも元気に生きています(笑)。
今の我々から見れば、格段に調和の進んだ人類に成長しています。
「我々の理解出来る感覚からすれば」、「個人レベルでそうならば、ましてや集団レベルではもっと調和が進んでいるだろう。」との推測も経ちます。
なぜこんな奇妙な言い方をするのかと言えば、個人と集団との区別さえ存在しているかどうか、もはやあやしいからです。
ですが、直観的に私は、「我々はあらゆる視点から見て、多次元的に、『永遠の今』において、補い合っている」のだと感じました。
1000年後において、確かに我々は格段に進化しているようです。
ですが、あくまでも感覚的に言いますと、「調和しすぎている」のです。
次の瞬間、私の中にある印象が入ってきました。
それは、調和した部分とのバランスをとるといったらいいのでしょうか、あるいは、さらなる進化のためと言ったらいいのでしょうか(誤解を招く恐れがある点を承知で言っています。他の表現が思いつきません)、菩薩となった進化した我々は、今ここの我々が生きている現実世界にあえて生まれてきて、体験を積んでいます。
ごく少数というレベルではなく、多数、大勢、そういった存在がいます。
それが今ここの現実世界なのです。
弥勒菩薩が56億七千万年後に下乗すると言ったのは、集合意識内のブッダによれば、今ここだと言います。
つまり我々は、今ここの現実世界においてすでに弥勒の世に生きているわけです。
集合意識としてのブッダはさかんに、「(進化が進めば)我々は、自分で自分を助けるようになる。」という言い方をします。
菩薩と如来とは一体であり、我々は菩薩であり如来として「今ここ」で体験しているわけです。
問題はそのことに気付けるかどうかにあります。
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