特別攻撃隊 ~遺書~
このページでは陸軍海軍特別攻撃隊の方々の「遺書」をご紹介させていただいております。
涙を流す方、こころに熱きものが湧き上がる方、ただただ今の世の平和のありがたさを感じる方
・・・様々な方がおられることでしょう
純粋にひとりの軍人がどういう思いを抱いて、あの戦争を戦い散って行ったのか
少し考えてみることもいいのではないでしょうか
いつまでも美しい沖縄の海
お母様、驚き遊ばされた事で御座いましょう。長い長い年月、手しおにかけてお育てくださいまして
今日に到りましたが、何のご恩もお返しせず残念に存じます。お年を召されたお母様や、やさしい兄、
姉妹を思いますれば、この決意も鈍りますが、なんのなんの畏れおほくもこの度の聖戦にて数知れぬ
赤子を御奪われなされた陛下の御心に比しますれば、このくらいのこと、物の数では御座いますまい。
この身は異国の海に果てようとも、泣かずにほめて下さい。
お母様玉男を思い出しました時は大空を御覧遊ばしませ。
そこにはきっと大空を飛べる飛行機の蔭に玉男の姿が見えるでしょう。
最後にお願いとしてお母様身体に無理なき様、長寿遊ばせ。
兄、姉妹よ老いたる一人の母を玉男の分まで親孝行する様に・・・・・・
(玉男は死んだのではありません。姿は皆様の御前におらずとも、
必ず皆様の許におり、楽しき我が家をなき父、靖国の兄と共に見守っております)
村田玉男 二飛曹 19歳
*題は玉男最後の手紙となっている、それまで何回か母とやり取りをしているのだろう
母が心配する手紙を出していたことが、泣かないでくださいという言葉からわかる。
早苗ちゃん 風邪をひかないか、元気で、毎日、日参に又学校に行って居りますか。
寒いから気をつけなければいけないよ。
早苗ちゃんが病気になると兄さん、うんと心配しちゃうからね病気になんか成るんじゃないよ。
雪が降ったことがあるかい。兄さんの居る処は時々降るよ。此処には高い高い山が有るんだよ。
ホラあすこに見えるタイトウミサキの山を、二十くらい積んだ山がね。
こんな高い山、早苗ちゃん見たこと有るかい。なに、有る、どこで、なあんだ、ユメでかい。
・・・・そしてねこの山はずっと前から、雪の着物を着て真っ白だよ。だからずいぶん寒いよ。
だけど兄さんなんか平気だよ。どうして、それはね、どんどん駆け足やったり、体操やったりするからだよ。
だから早苗ちゃんもどんどん運動するんだよ。そうするとあたたかくなるし、病気なんかにもならなくなるよ。
だけど、早苗ちゃんは女だから、あばれたりしちゃだめだよ。
喜久ちゃんをたたいたり、おとうさんやおかあさんの言ふことはよく聞くね。
それからもうひとつ幹ちゃんをよく見てやるんだよ。ずいぶん大きく成っただろうね。
かはいいだろう。早苗ちゃん勉強するんだよ。もうじき三年生になるんだものね。
この間、愛子ちゃんから、かはいい手紙が来たよ。早苗ちゃんも喜久ちゃんと書いて、くださいね。
兄さん、待っているよ。
兄さんはね毎日元気で赤いトンボのような飛行機にのって飛んで居るよ。
小さな舟や白いホを上げたホカケブネやいろんな形をした島のういた青い青い海の上や村の上
町の上をブンブンとね。 では早苗ちゃん手紙を待って居るよ。
田中哲郎 上飛曹 20歳
*まだ幼い妹に難しい言葉ではなく、なるべくわかりやすい言葉で説明しようとするところに
なんともいえない優しさを感じる遺書だ。 4月7日に死亡。
妙子、全く意地悪ばかりして申訳ない兄だったね、許してくれ。愈々明日は晴の肉弾行だ。
意地悪してむくれられたのは、今から思へばみんな懐かしい思い出だ。
お前も楽しかった思い出として笑ってくれ。
兄さんが晴の体当たりをしたと聞いて、何もしんみりするんぢゃないよ。兄さんは笑って征くんだ。
おおむね人間とはだねエッヘン!大きな或るものによって動かされているのだ。
小さな私達の考えも及ばない大きな力を持つ或るものだ。
それは他でもないお前の朝夕礼拝する御仏様なのだ。
死ぬということはつらいと云うが「何でもない。御仏様の為されることだ」と思えば、何も問題でもなくなるのだ。
欲しいと思うものが自分のものにならなかったり、別れたくないもの、例えば兄さんに別れたくなくったって、
明日は兄さんはお前なんかまるで忘れでもしたかのように平気であっという間に散ってゆくのだ。
そして丁度お前のような境遇の人は、今の日本は勿論世界中のどこにでも一杯なのだ。
又兄さんは特攻隊に入って暫く訓練したが、兄さんの周囲では、特攻隊と関係のない長命すべきように
思える人がぽつりぽつりと椿の花のように死んで行った。大体わかるだろう。
この世は「思ふがままにゆかないのが本当の姿なのだ」といふことが。
簡単に云えば、一寸まずいが、無常が常道の人世ともいえよう。
兎に角何も心配することなんか此の世にはないのだ。
明るく朗らかに仕事に励み勉強し、立派な人間になってくれ。
それがとりも直さず御国への最も本当のご奉公なのだ。兄さんはそれのみを祈りつつ征く。
難しそうなことを色々書いたが、兄さんも色々これまで考えた挙句、つひ最近、以上書いたような心境になったのだ。
お前もなかなか本当の意味は分り難いと思ふが、折に触れてこんなことを考えていたらいつか分ることだ。
朝夕お礼をすることを忘れないように。しみじみ有難く思ふ時が必ず来る。
お父さん初めお母さん、
相当年もとられたことだから、よくお手伝いをしてあげてくれ。
姉さん、昭を頼む。元気に朗らかにやるんだよ!
仏様のことを時々考えろと云ったって、仏様とはしんみりしたものとは全く関係のないものだよ。
以下取り急ぎ断片的に書く。
一、運動は必ずやるべきだ、精神爽快となる。
一、守神を頼んではあったが、手に入らなくとも何の心残りも無し 雨降れば天気悪しだ ワッハッハハ
一、よく読書すべし
幾ら書いても際限なし ではさようなら お元気で
重信隆丸 少尉 22歳
*本当は伝えたいことがやまほどあるだろうに、自分で遮るように際限なしと言い、
この手紙には皇国思想の欠片もない。 人生を達観したような爽快さだ。
前略
盆だね 皆すぐ墓参の準備していて下さい 私の分も忘れなく 草々
成田金彦 大尉 23歳
*短い言葉の中に、死を覚悟した感が読み取れる。
たびたびのお便り嬉しく拝見しました。この前の便箋七枚の手紙を見ては涙がとめどなく頬を伝わりました。
何回も何回もくりかへして読みました。金送りましたがこんなに喜んで頂けるとは思いませんでした。
神様などそなへなくとも宜しいですから、すぐ用立ててください。少し金持ちらしくやって下さい。
財布が底抜けにならぬよう一ヶ月に一回は必ず補給します。
前にも云ったとおり、もう誰の点検も要せず、すぐ自分で封切って見るのですから、財布がからに
なりさうでしたら、すぐ知らせて下さい。
俸給三十五円、加俸三十円、二十二日に貰います。食費、被服代はいらぬのですぞ。
小遣いだけで六十五円ですぞ。古い者は女郎買ひになど行きますが、我輩は絶対行かぬつもりです。
酒は飲むが煙草やビールは好かんですよ。
私は貯金はこちらでたくさんやっていますから、送った金はじゃんじゃん使って下さい。
底抜け財布にならぬようにですね。 甘い物などは十分配給になりますが、出来た時は、即ちあるときは
作ったついでに郷土を思い出す餅やぼたもち、ちまきだんごなど、折にふれ無理せぬ程度に隊宛
お送り下さい。 又下宿でもよろしいですが、十日に一辺の外出ではちょっと長いです。
隊なら夕食後は果汁のんだり、菓子食べたりする時間があります。この間戦友からするめを貰いました。
送ってもらったのだそうです。小包などは自分で受取りに行きます。みかん着いたようで何よりです。
出来たらもっと送りましょう。玉ちゃんにも小遣い出来るだけ送りますからお嫁に行く日の貯金に(以下不明)
今度、金が自由になったらゆっくりと面会にこられないですか。
やがては泊まりもありますし、二十四時間のやすみもありますからゆっくり話も出来ますし、
共に寝ることも出来るわけです。汽車に酔わなければよいのだがなぁ、トランク要るなら送ってもよいです。
ではお体大切に、ベッドの中で なつかしの母上様 かあちゃんよ・・・
広田幸宣 一飛曹 20歳
*この手紙は「なつかしの母さんへ」と題したものだ。家族への配慮と最後に
やっぱりもう一度母さんとひと時を過ごしたいという素直な気持ちが出ている。
特攻隊員は桜のように美しく咲き、あっという間に散っていった
ー妻への手紙ー まりゑ殿
かねて覚悟し念願していた「海征かば」の名誉の出発の日が来た。
日本男子として皇国の運命を背負って立つは当然のことではあるが、然しこれで「俺も日本男子」だぞと、
自覚の念を強うして非常にうれしい。短い間ではあったが、心からのお世話に相成った。
俺にとっては日本一の妻ではあった。
小生は何処にいようとも、君の身辺を守っている。正しい道を正しく直く生き抜いてくれ。
子供も、唯堂々と育て上げてくれ、所謂偉くすることもいらぬ。金持ちにする必要もない。
日本の運命を負って地下百尺の捨石となる男子を育て上げよ。小生も立派に死んでくる。
充分身体に気をつけて栄え行く日本の姿を小生の姿と思ひつつ強く正しく直く生き抜いてくれ。
佐藤章 少尉 26歳
*回天特攻で戦死した佐藤少尉、妻への愛情が溢れる遺書だ。
ただ、子供も捨石となれというのは妻は二重の苦しみにさいなまれるのではないか?
素子 素子は私の顔を能く見て笑いましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったことも
ありました。 素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳代叔母様に
私のことをよくお聞きなさい。 私の写真帳もお前のために家に残してあります。
素子という名前は私がつけたのです。 素直な、心の優しい、思いやりの深い人になるようにと思って、
お父様が考えたのです。 私はお前が大きくなって、立派なお嫁さんになって、幸せになったのを
見届けたいのですが、若しお前が私を見知らぬまま死んでしまっても、決して悲しんではなりません。
お前が大きくなって、父に会いたいときは九段にいらっしゃい。 そして心に深く念ずれば、
必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮かびますよ。
父はお前が幸福者と思います。 生まれながらにして父に生き写しだし、他の人々も素子ちゃんをみると
真久さんにあっている様な気がするとよく申されていた。
またお前の伯父様、叔母様は、お前を唯一の希望にしてお前を可愛がって下さるし、お母さんも亦、
御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。
必ず私に万一のことがあっても親無し児などと思ってはなりません。 父は常に素子の身辺を護っております。
優しくて人に可愛がられる人になって下さい。
お前が大きくなって私のことを考え始めたときに、この便りを読んで貰いなさい。
追伸
素子が生まれた時おもちゃにしていた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。
だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。
素子が知らずにいると困りますから教えて上げます。
植村真久 海軍少尉 25歳
*戦後、素子さんは亡き父の戦友の前で舞いを披露、自分は立派に育ちましたと
言いたかったのではないか。
冷え十二月の風の吹き飛ぶ日 荒川の河原の露と消し命。
母とともに殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、一足先に父に殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く
喜んで、母とともに消え去った命がいとほしい。
父も近くお前たちの後を追って行けることだろう。嫌がらずに今度は父の暖かい懐で、
だっこしてねんねしようね。 それまで泣かずに待っていてください。
千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。ではしばらく左様なら。
父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。
では、一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それまで待ってて頂だい。
藤井一 少尉候補生 28歳
*特攻隊は妻子持ちは原則として外された、しかし藤井は部下ばかり行かせるわけにはいかない、
自分も行くと強く主張、妻は自分と子が夫の足枷にならないようにと入水自殺をする。
そういった背景を浮かべお読みいただきたい。
只今元気旺盛、出発時刻を待って居ります。愈々此の世とお別れです。
お母さん、必ず立派に体当たり致します。
昭和二十年五月二十五日八時。これが私が空母に突入するときです。
今日も飛行場まで遠い所の人々が、私達特攻隊の為に慰問に来てくださいました。
丁度お母さんの様な人でした。別れの時は、見えなくなるまで見送りました。
二十四日七時半、八代上空で偏向し故郷の上空を通ったのです。
では、お母さん、私は笑って元気で征きます。永い間お世話になりました。
妙子姉さん、緑姉さん、武よ。元気で暮らしてください。お母さん、お体大切に。
私は最後にお母さんが何時も言われる御念仏を唱えながら空母に突入します。南無阿弥陀仏。
山下孝之 伍長 年齢不詳
*お母さんお母さん・・・体当たりの直前には南無阿弥陀仏ではなく「お母さん」と
叫んで亡くなっていったのではないだろうか。
なつかしい静ちゃん! お別れのときがきました。
兄ちゃんはいよいよ出撃です。この手紙が届く頃は、沖縄の海に散っています。
思ひがけない父、母の死で、幼い静ちゃんを一人残していくのは、とても悲しいのですが、許してください。
兄ちゃんの形見として静ちゃんの名であづけていた郵便通帳とハンコ、
これは静ちゃんが女学校に上がるときにつかってください。
時計と軍刀も送ります。 これも木下のをじさんに頼んで、売ってお金にかえなさい。
兄ちゃんの形見などより、これからの静ちゃんの人生のほうが大事なのです。
もうプロペラがまわっています。さあ、出撃です。ではお兄ちゃんは征きます。
泣くなよ静ちゃん。がんばれ!
大石清 万世基地より出撃? 年齢不詳
*大石の戦死記録は無い、遺書が存在し記録がないということは生還したのかもしれない。
しかし、無粋な詮索はやめて、妹を思う兄の気持ちを感じたい。
其後皆々様お元気の事と存じます。
この間はお忙しい所、わざわざお出で下され、心から有難く思って居ります。
傷の方はもう大丈夫ですから御心配なく。健児もいよいよ最後の御奉公の時が参りました。
いままでの一方ならぬ御養育、深く深く感謝致して居ります。
意気地が無かった健児でしたが、どうぞ褒めてやって下さい。
仇敵殲滅の為、健児は渾身の勇を奮ってぶつかって行きます。今の危機を救ふ者は私達です。
この誇りをもって必ずやります。すでに戦友がやっています。
今の今でも私の戦友は、後に続くものを信じてぶつかっているのです。
黙っていられるでしょうか。これが黙って見ていられるでしょうか。
お父さん、お母さん、褒めてやって下さい。
弟よ、妹よ、お父さんお母さんを大事にしてあげてください。
お兄さんは死なない、遠い南西諸島の空よりきっときっと皆様を護っています。
この身体は死んでもきっときっと皆様を護っています。この身体は死んでもきっとお護り致します。
近所の方々にくれぐれも宜しくお伝え下さい。それから本庄の海老原様とはいつまでも御交際ありますように。
忙しいのでなかなかお手紙書けない(途中不明)います。西ヶ谷様にも宜しくではこれでお別れ致します。
いろいろありがとうございました。 さようなら さようなら。
富澤健児 少尉 23歳
*死んでいく自分のことより、家族や隣人への気遣いでいっぱいである。
紅蓮の炎をあげて燃える隼の機体から特攻隊員の魂魄を6人の天女が救い出し昇天させる姿を表したもの。
(高さ3メートル、幅4.4メートルの信楽焼陶板壁画)(宮崎市 仲矢勝好氏画)
段々と暮しよくなり皆様御元気で御暮らしのことと思います。
祖父様、お元気でお暮らしのことと思います。 帰郷中は色々と御世話になりました。
私は毎日元気にやっています。 我々もやがて一生懸命に敵と一騎打が出来る日が来ると思います。
家の名誉にかけて働きます。 どうか御大事に。
父上様、先日は有難う御座いました。 無事御帰りになられた事と思います。
私は元気一杯やっております。 父上の教訓を守って一生懸命にやって来ます。
幸朗の入学の事やその他弟妹のことはお願い致します。 そして無事幼年学校にやって下さい。
中学校時代の私の都合の悪い物がないとも限りませんが、後で辱かしくない様なものがありましたら
処理して下さい。 御別れしてから一寸も淋しくはありませんでした。
母上様、先般の休暇で皆様の事もよくわかり、又元気でいられる姿を見てすっかり安心しました。
弟妹達とも心ゆく限り遊べて何の悲しみ、悩みも、毛頭ありません。 母上の心も日本晴れとの事で
喜んでおります。 今から実際に一騎打ちが出来るのです。考えただけでも愉快です。
又玉中から来た者も8名おります。山口、牧島も決して心配には及びません。
思う存分世の中を駆け回って来ます。 祖父も日露戦争後の軍人、父上も軍人、それに私も軍人で実際に
役立つ家門の名誉と思って下さい。 どうか御病気になりませぬ様御祈り致します。
幸朗君、今、目前或いは最中か、一大難関を突破せよ、そして、まず幼年学校に突撃されよ、一番大切なのは
体だ、体なくては何の用にも立たぬ。
一、父上母上に兄さんに代わって孝行すること。
二、兄弟仲良くすること、決して洋光、紀光を泣かせるな。
三、身体を無理せぬ様勉強する事。但し一番にならなければ何にもならぬ。
四、家の手伝いをすること。 (終)
雅子ちゃん、お元気で勉強して下さい。 母ちゃんの言われることをよくきいて一生懸命に。
洋光、紀光と仲良く遊んでやりなさい。 母ちゃんが心配せぬ様お手伝いするんですよ。
洋光サン、ユビヲ五ツカゾエルト一年生デスネ。
トウチャンヤ、カアチャンノイフコトヲキイテベンキョウシテイルデショウ。
ノリミツトナカヨクアソンデクダサイ。
キュウチョウニナリ、カアチャンヲヨロコバセテクダサイ。オゲンキデ、サヨナラ。
ノリミツサン、ニイサントスモウヲトッテ、ニイサンヲナゲタノリミツサンハ、ナカナイデオリマスカ。
ニイチャンタチト、ナカヨクシテクダサイネ。マタニイサンガカエッテ、スモウヲトリマショウ。
コンドハ、アメリカノヒコウキヲモッテキマス。カアチャンヲコマラセナイヨウニ。
先般司令官少将朝融王殿下が臨席になり、隊内から数名の練習生選ばれ御前にて参謀より試問をうける
光栄に浴しました。 母上様どうか喜んで下さい。 この新たなる感激を受け、又一層頑張るつもりです。
では皆様御元気で、私の事は一切心配されませぬ様くれぐれもお願い致します。
二伸 如何なる難事も最後まで沈着に、いつまでも体を無駄にせず思う存分
落着いてやります故御安心下さい。 又軍刀は脇差で結構です。
注)幸郎(弟) 雅子(妹) 洋光(弟) 紀光(弟)
西山典朗 二飛曹 20歳
*家族ひとりひとりに丁寧に言葉を選びながら書いた遺書。幼い弟にはカタカナで優しく語り掛ける懇切さ、
母親がよほど心配だったのだろう、兄弟たちに後を任せ、西山飛行兵は3月18日に九州の海に消えた。
私死すとも先祖代々の墓のほか、決して他の墓(私だけの)を造らざるようお願い申上げます。
なお葬るべきもの一つとして無き故に、私の毛髪をここに入れて置きます。
これを本井家の墓に収めて下さい。必ず私の魂は御先祖様の下にかえります。
そして永久に皇国の隆盛を祈ります。 敬具
ー 昭和二十年一月十日の夜、妹昌子さんに書き残した手紙 ー
今自分が征くにあたり、唯一つ気がかりになるのは家のことです。お父様は若い頃から随分苦労されました。
私の軍人志望は小学校時代からの私の望みでありましたが、私が中学校に入って、よりその決心を
強くさせたものが一つありました。 それは、その当時すでに父は老いて来ておられました。
私はこれ以上父を働かせて大学にまで行く気にはどうしてもなれなかった。
また家としてもその余裕がないのをよく知っていました。軍人は一人前になることの早いものでした。
そして父もまた、早く私が一人前になるのを望んでおられました。以上はすべて平和時代の夢でした。
昭和十六年遂に大東亜戦争になりました。 一国の興亡をかけての戦い、我が祖国の戦い、私はその時に
もう家なんかどうなってもよいと思いました。 長男としてあまりにも無責任だったかも知れません。
私の父母は本当に立派な父母でした。
私に「自分の進みたい方へやりたいままやれ、家の事は考えないで存分にやりなさい。」
いつも私を励ましてくれました。 私はそれ故、安心してここへ来ました。
人情は浮薄なものです。 人に頼るな。 これから本井家はますます困苦となるでしょう。
しかし、軍国の家は雄々しくそれに堪えて下さい。本井家をお前がついでも、弟文昭がついでも
兄としてどちらでもよい。 ただ一言、後を頼む。 小さな文昭を立派に育ててくれ。
最後に長男として、兄として家に何等為すことなく、お前に何も出来なかったのを残念と思う。
おわびする。
いつか「少女の友」で見たのに、南洋島の人は雨降りの日を喜ぶそうだ。
それはその後には、必ず晴天の日が来るから。それは何日後、何年後に来るか知れない。
しかし必ず来る。苦しさはこれから来る。よく堪えて頑張れ。 昭和二十年一月十日
本井文哉 少尉 19歳
*長男として妹弟になにもしてあげられなかったことを詫び、父母を頼むと飛び立った。
ラストは苦難の後には、晴れ間が覗くと自分たちの特攻は後の世の礎だと説得。
ラストに特攻隊生みの親として知られ、最初の指揮官でもあった大西滝治朗海軍中将の遺書を
ご紹介しよう。 大西中将は終戦時には海軍軍令部次長の要職に就いていた。
8月15日の夜、若手と夜更けまで談笑していたが、16日未明、日本刀で腹を一文字に掻き切って
自決した。 副官が気づいて駆けつけると「治るようにはしてくれるな」との言葉だけを残し、
他に一切語らず16日18時に絶命した。
特攻隊の英霊に曰す、善く戦いたり、深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。
然れども、其の信念は遂に達成し得ざるに到れり。吾れ死を以て旧部下の英霊と其の遺族に
謝せんとす。 次に一般青壮年に告ぐ、吾が死にして、軽挙は利敵行為なるを思い、
聖旨に添い奉り、自重忍苦する戒めとならば幸なり。
隠忍するとも日本人たるの衿持(きんじ)を失う勿れ。諸子は国の宝なり。
平時に処し猶よく特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平のため最善を尽くせよ
大西滝治朗海軍中将
*「平時に処し猶よく特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平のため最善を尽くせよ」
公の精神の究極の形、特攻。形は変えても、現在、ハッとさせられることではないか、
足元を見つめなおすためのよき言葉である。
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参考文献
靖国神社編「散華の心と鎮魂の誠」
神坂次郎「今日われ生きてあり」
真継不二夫「海軍特別攻撃隊の遺書」
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