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アッツ島玉砕

  久しぶりに歴史戦記をひとつ、3話に分けてご紹介しようと思う。
  
  大本営による「玉砕公認第1号」「アッツ島守備隊玉砕」について。

  1942年6月、ミッドウェイ作戦の哨戒線、米ソの連絡遮断、敵の航空基地の利用阻止などを目的として、
  陸海軍協同によるアリューシャン列島のアッツ島とキスカ島の占領が敢行された。
  しかし、ミッドウェイ作戦は大敗北、
  アッツ島はキスカ島より日本側に位置しているが防御が薄いため最初の攻撃目標となった。

  1943年5月12日、米軍は戦艦3、空母1、重巡3、軽巡3、駆逐艦12という艦隊支援のもとに、
  第7師団1万1千人がアッツ島に上陸開始、米軍による「ランドグラフ作戦」と呼ばれるアッツ島攻略作戦が開始された。
  アッツ島にて大規模米軍を堂々と迎え撃つ日本軍は山崎保代陸軍大佐以下わずか2400名、
  5月16日には、米軍は応援を要請し、キンケイド少将は「日本軍は少数なのに援軍要請とな何事か!」
  と激怒したほどアッツ島部隊はよく戦ったのだ。

  一度は増援を決定した大本営だが、制海権が無い状況では見捨てるしかないと決定・・・
  この間、大本営内では喧々諤々の議論が繰り返された。

  一方、アッツ島守備隊は徐々に追い詰められ最後は全員が死を決意、鬼気迫る皇軍の戦いを見せつけた。

  ちなみにキスカ島はアッツ島の次の攻撃目標となったが、1943年7月28日
  樋口大佐率いる5千名の将兵は濃霧とアメリカ軍のスキをついて撤収に成功。
  米軍はこの撤退に気付かず以後も空爆を続け、同年8月15日に3万5千名もの大群を率いてキスカ島に上陸。
  この濃霧は「漫画ジパング」に出てきたシーンである。

   大本営の対応
  5月13日 大本営は4千名の増援を決定
  5月19日 海軍に支援する艦艇がなかったため増援部隊の投入不可能となる。兵員の撤収に切りかえる。
  5月23日 制空権、制海権をアメリカに奪われているため
        兵員の収容作戦も不可能 玉砕を下命する
 
       
      次話はアッツ島守備隊最後の電文、そして玉砕へ・・・



  米軍の大攻勢の前で苦戦するアッツ島守備隊、兵士は徐々に減っていき
  運命の5月29日には数百人、最終的な玉砕は300人前後で行われたようだ。
  圧され圧されて、物資も武器類もほとんど底を尽き、
  最後のときを悟った守備隊は火の玉となって、米軍に最後の反抗を見せる。

   山崎保代陸軍大佐 最後の電文

  5月29日14:35

  「敵陸海空の猛攻を受け、第一線両大隊は殆ど壊滅。辛うじて本一日を支ふるに至れり。
  夜戦病院に収容中の傷病者はその場に於て、軽傷者は自ら処理せしめ、
  重傷者は軍医をして処理せしむ。」

  「非戦闘員たる軍属は各自兵器をとり、陸海軍ととも一隊を編成、攻撃隊の後方を前進せしむ。
  ともに生きて捕虜の辱めを受けざる様覚悟せしめたり。他に策無きにあらざるも、
  武人の最後を汚さんことを恐る。英魂とともに突撃せん。」

  *この時点で残兵300名ほどであったといわれる。
   5月23日の大本営の玉砕命令を慣行、最後を知っている私はセンチメンタルな気分になってしまう。
  「生きて捕虜の辱め」という東条英機が出した戦陣訓の言葉が目に入る。


  5月29日19:35

  「機密書類全部焼却、これにて無線機破壊処分す。」

  *最後の無線を破壊し物的証拠を隠滅し敵軍に有利なものを残さず、
   そして自分たちも昇華していく・・・

  この後、重傷者は自決、軽傷者は自爆、最後の徹底抗戦を見せ         

             玉 砕

  昭和18年5月30日、大本営はアリューシャン列島アッツ島守備隊の全滅を発表した。

  「アッツ島守備隊は、5月12日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵に対し
  血戦継続中のところ、5月19日夜、敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し、
  皇軍の真髄を発揮せんと決意し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。
  爾後通信全く途絶、全員玉砕せるものと認む。」

  「傷病者にして攻撃に参加し得ざる者は、これに先立ち悉く自決せり。
  我が守備部隊は二千数百名にして、部隊長は陸軍大佐山崎保代なり。
  敵は特殊優秀装備の約二万にして、5月28日まで与えたる損害六千をくだらず。」

  この後から、大本営は「玉砕」という言葉を使い始める。
  
  もう戦局は覆すことは出来ないところまで来ており、玉砕兵士=神兵という
  図式が堂々と言われるようになり、残念ながら様々な悲劇が起こることとなる。

  米国の戦史は「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった」と伝え、
  「バンザイ・アタック」の名とともに今も讃えられている。
  戦後の遺骨収集で、バンザイ突撃の最先頭のものが、山崎大佐のものであった事が確認されている。
  山崎保代大佐は、指揮官として部下の前面に出て、散っていったのだ。


日本軍           戦死者 2,638名、生還者 27名。

米軍 上陸11,000名中 戦死者 600名、戦傷者 1,200名。

  米軍に捕らわれた日本軍29名の捕虜の内1名(見習士官)は、護送される途中船上から投身自殺した。

  「なぜ負けたと分かっても日本軍は降伏しないのか?」

  このときに戦地に赴いた米国上院議員の新聞記事には、いつ帰れるんだ、早く国に帰りたいと口々に言い、
  笑っている米軍兵士が国家のために死を恐れない日本軍に勝てるのか、厳しい戦いになりそうだと語っている。
  最後の一兵まで戦う日本軍に対して米軍は、この戦争の険しいことを身をもって体験したのであった。
  そしてこの戦いは、太平洋の各地でますます激しくなっていくのである

  最終話は、アッツ島玉砕、そのときの大日本帝国と天皇陛下・・・



  アッツ島にて山崎保代大佐率いる信州松本の部隊は
  最後の無線を大本営に送り米軍の大群の前に玉砕して果てた。

  大本営はこの全滅を栄誉ある戦いとして本土で発表、玉砕は美化されていく。
  
  大本営陸軍参謀総長:杉山元は天皇陛下にアッツ島での玉砕を奏上した。
  *毎日、陸軍海軍は陛下に戦況を正確に伝えなければならない。
   陛下は戦況に対し、事細かに質問され、かなり鋭い突っ込みを見せている。

  この日なかなか自分から記録内容を話さない杉山元帥に対し、奏上の件を記録するために
  瀬島参謀は杉山元帥に車内で「本日の陛下との奏上での会話を教えてください」と尋ねた、
  杉山元帥は黙ったまま、車窓の外を眺めており、話そうとしなかった。

  しかし、記録は記録、これは役所仕事として行わねばならない瀬島参謀は
  もう一度、少し声を大きく、「話してくれねば困ります」と聞きなおした。

  杉山元帥は少し間をおき、瀬島参謀に命令を下した。

  杉山「アッツ島に電報を打て」
  瀬島「残念ながら、もう通じません」(玉砕前に電信機器は自分たちの手で破壊した)
  杉山「確かにそうだ、しかし、陛下は自分に対して[アッツ島部隊は最後までよく戦った、
     そういう電報を打て!]とおっしゃった。だから打て!」

  今は亡き昭和天皇、兵士を駒と見ず、死んでしまった兵士にも
  もう届かないと知っていながら電報を打たせたのだ。
  
  瀬島参謀は、母親は死んだ子供に、もう聞こえないとわかっていながら名前を叫ぶでしょ、
  そういう大きな御心を陛下は見せてくれたのです、と語っている。

  大本営はアッツ島部隊に命令どおり、激励の電報を打つ・・・応答返信は無かった。

                 ~全三話 完~ 

  
  (これは、日記10.26~10.30より転載)


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