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『犬の鼻先におなら』

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2007年08月20日
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奇書にして良書。死刑囚と哲学者の往復書簡集。“善”く“生きる”とは。

 この本自体が成立した事自体が奇跡に近いと思う。先ごろ若くして亡くなった哲学者池田晶子女史と、やっぱり刑が執行されて亡くなっているであろう死刑囚陸田真志氏との往復書簡集。
 
 まず特記すべきは、この本は決して話題作りのキワモノ本ではないという事。
 内容はまっとうな、いや極めて価値の高い“哲学”書となっています。両者の話もちゃんと噛み合っています。p53「ああ、ようやく、私と対等に語り合える相手が現れた。かなり不遜に聞こえるのを承知で言うのですが、率直に、そういう思いだったのです。」これ、死刑囚の方の言葉ではなく、哲学者池田晶子女史の言葉なのです。

 しかも真の意味で“哲学”書となっています(凡百の本は大抵、「哲学の知識本」か「哲学史の本」。哲学書ちゃう)。
 元々この死刑囚陸田氏が“哲学”的資質を持つ人物だったといっても、獄に入って初めて“思索”しモノを書いたというだけあって、難解な哲学用語は一切用いられていません。そしてそれが逆に本書にプラスに作用しています。
 
 死刑囚。これ、“思索”的生活という点から見てもかなり特異な存在です。何しろ行動の自由は制限されています。自然、本を読み自省に励む生活となります。
 一方、死が迫っている。限られた時間しか無い事がこれくらい明白な人もいない。
 常人には及びも付かない“密度”の高い“思索”が必然的に成立する事になります。
 両人ともに当に「後が無い」事を自覚して文通しています。

 「善く生きる」。この事を巡って、これ以上はないという言葉の真剣なやり取りが両者の間に取り交わされます。


 ここで事件の概要。
 陸田真志氏は95年当時勤務していたSMクラブの経営者と店長を、同僚二人と共謀して手斧、ハンマー等により殺害、遺体を海中にコンクリート詰めにして遺棄しました。その為、氏は東京地方裁判所にて強盗殺人、死体遺棄当により98年に死刑判決を受けます(それ以前より米国等において職業的犯罪者として生活していたとの事)。


 以下、興味を惹かれた箇所の抜粋(私が恣意的に抜書きしているので、キチンと理解するにはこの本の頭から読まないと駄目だという事は言うまでもありません。本書の“予告編”程度にお考えください)。

 
 p32陸田「人間がその自己の真の目的に気付く潜在能力を有している。その事こそが万人に平等にある『人が人としてある』天賦の権利、『人権』であると思えるのです。その為のきっかけと時間を、罪を犯した者に与えてくれる死刑制度は、むしろ、非常に人道的であると思えるし、無理にその人間自身の罪悪を考えさせないようにする少年法や人権派の方が、むしろ、非常に人の道を外したものであり、その人間への『仁義』を見失っていると思うのです。」死刑囚の陸田氏自身の弁である事に注目

 p55池田「死刑になるかもしれない人が、死刑は人道的だ、なぜなら気付きの機会を与えてくれるからだと言い、また、少年法は非人道的だ、なぜなら気づきの機会を奪うからだと言う。この言葉の正しい重さの前には、死刑廃止論者の人道主義も、少年法廃止論者の反人道主義も、それこそ屁みたいな観念論と化します。」これは池田女史の言葉。

 死刑判決について。
 p176陸田「かく言う私も、自分の求刑が死刑とははっきり言えなかった頃、やはり何とか助かる方法はないかと考えた事もありました。しかし、考えれば考えるほど死刑判決は動かしがたく思え、又、それが自分のやった事からすれば、法的には当然とも思えました。それでも、その頃周りにいた人間(他の留置者)は、『きっと死刑にはならない。なってはダメだ』と私をはげます訳ですが、そうやって私が『そうだな』とはげまされる事は、本質では私の為にはならなかったと思うのです。そう(死刑に)ならない為には、事実と異なる事を言うしかなかったのですから。そして、それがもう自分では動かしがたいと思っても、今度は自分の家族が、はげまし始めるのです。彼も私の為を思っていたのでしょうが、やはり私の為にはなりませんでした。」

 p121陸田「いつも『人権を』と叫んでいる方達が私には何も言ってきてはくれないのを見ると、彼らの言うところの人権とは、人類に普遍的にあるもんではなく、彼らの主観で決められるようなもの(略)」これは陸田氏の皮肉。しかし、死刑囚に皮肉を言われている“人権派”って何なんでしょうね。┓(´_`)┏

 死刑制度について。
 p182陸田「(略)私は、全ての殺人はそれが国家によるものであれ、法律によるものであれ、理性的なものではない、倫理に反した行為だと言えると思うのです。(略)これだけではいわゆる死刑廃止論者の方の意見と同じですが、私がここで思うのは、ではその倫理に反した『死刑制度』という存在が、最も倫理的であらねばならないはずの『法』に在るのは何故か。それを在らしめている根本の原因は一体何かと考えれば、それはある国家や法を作成した人々でもなく、その『死刑制度』を必要と、『自ら然るべく』してきた死刑囚本人であると思えます。」(略。「死刑制度」は「報復」という心情からくるものであろうとし、私たち人類は{倫理的な}「道の途中」にあるのだろうとの文、続く)「では、『全てを許す』事で人類が歩を進められるのかと言えば、その答えは現在の少年法の下での少年犯罪や、多くの懲役囚の現状、そして『誰にも迷惑を掛けないから』と自己の快楽、自由、権利を叫ぶ多くの人間を見れば明らかでしょう。つまり、人はまだ『自律的な倫理性』を得ていないという事なのでしょう。その人類全てが『自律的に倫理的』であり得る社会、そこにおいて死刑制度は(法律や道徳と共に)有名無実なものとして存在すれど存在しえないものとなるのではないか。自然に消えていくのではないか。」(略)
 p184陸田「その意味において、その死刑制度を自ら在らしめている死刑囚達が死刑廃止を叫ぶのは、おのずと不自然な姿であろうと私には思えるのです。自分たちがそれを必要としておいて、失くせと言っているのと同じなのですから。同じように死刑廃止を叫ぶ一般の死刑廃止論者の方々も死刑制度というこの事自体を悪者扱いしないで(略)、その制度が生まれた原因、今もそれが存在している原因を、アムネスティなど他人によらず、自分で考えてみられてはと思うのです。それは決して、個々の死刑囚の生い立ちなんかといった、その犯行時、又は前の本人の感情や自制でどうにでもなるものでも、ある国ある時代の司法関係者の意向でもなく、どこまでいっても罪を犯した死刑囚全てにその原因と責任があろうかと思うのです。」(略)「ここで冤罪による死刑が起こりうるのも、やはり他の無実でない死刑囚や殺人者の為であると思えます」
 上記に続く以下の文は良い文だと思う。
 p184陸田「{人類全てが自律的倫理を得る}その時まで全ての人は、その矛盾を抱え、悩み、死刑囚はその全ての人の倫理にとって矛盾的な死を皆の為に受け入れ、戦争が起これば、人はその矛盾を抱えつつ、戦い殺し殺されていくのだと思うのです。」

 善とは何処に“在る”か。
 p66陸田「『悪を悪として認められるのは、それを対極としてとらえる為に絶対的に必要な善を、今自分が持っているからに他ならないではないか。今まで真に悪と認められなかったからこそ、やった行為を今、真に悪いと、つまり、やってはいけないと分かったではないか』そう私は思えてから、自分が自分の中で目をそらしていた善を発見できたように思えたのです。」
 池田女史も。
 p139池田「『なぜ人を殺してはいけないのか』と問う我々は、その限り、人を殺してはいけないと、問う以前から知っている。知っているからこそ、その理由を問うのである。しかし、理由はないのだった。ということは、問うこと自体が、その理由なのである。『なぜ人を殺してはいけないのか』と問うそのことが、人を殺してはいけないまさにその理由なのである。」

 陸田氏は当初死刑を受け入れ、控訴する気はなかったのですが池田女史は控訴するよう勧めます。
 p84池田「{陸田、池田両氏の到達した「善く生きる」という真理を}あなたのとって、もっともわからない人、わかりそうにない人とは、誰ですか。言うまでもない、被害者の御遺族でしょう。あるいは自分の家族でしょう。本当に善く生きる気があるのであれば、誤解され、罵倒されながら、あなたがわかったことを、彼らにわからせる努力をするべきではないですか。『死ぬ』という、いかなる努力も要しない最も安楽な方法によって、そもそもわからない人が、どうしてわかるはずがありますか。」

 
 池田女史のお叱り。
 p109池田「ところが、{文通の}回を重ねるにつれ、少しずつレベルが落ちてくる。よく言えば『迷い』、悪く言えば『雑念』が、見え隠れするようになってきたのです。ほぼ間違いなく死刑になるだろう人に、今さら雑念でもあるまい。いったい、どうしたのだろう。」
 p110「人にどう読まれるかが、気になり出したのです。」死刑囚ですら、自意識の束縛から自由になりはしないんですね。
 
 この死刑囚の文通を読み進めていくうちに、実は、私はこの「死刑囚の反省」について違和感を感じ始めました。
 無論、その辺の罪人なんぞより余程、その語の真の意味において「反省」しているのですが、曰く言い難い「他人事」感が感じられるのです。読者によっては立腹するかも知れない。
 どうも池田女史も同じ事を感じた、もとい、考えたらしい。
 p190池田「哲学的な資質を持つ死刑囚が、哲学的な模範解答を書いている、そんな感じがするのです。」

その二に続く。





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最終更新日  2007年08月20日 07時15分22秒
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