|
|
|
|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
│<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く |
きのう、豊中の大池小学校で毎日新聞主催「インクル―シブ教育を考える」というシンポジュームに行った。 私の知っている人が来てたり、パネラーに、私の後輩が出ていたり、豊中で障害者のディを2箇所運営している障害がある子の親たちの一人が出ていた。教師はやはり教師であり、親は親です。 話を聞いていても何かピンとこない。何かが違う。どんな親でも子どもがかわいい。でも、かわいがり方が元気な子と比べれば、障害(児)者の親は、私しかこの子のことはわからないと思い込み、何でも子どもに押し付ける。親のエゴが良くわかる。極端な話ですが、エゴの結果が親子心中だったり、家に閉じ込めるように、家から一歩も出さないまま自分が介護できなくなると施設にいれる。当事者の権利は? 入りたくもない施設で一生を終える人もいる。当事者の生き死を無視し、この子が可哀想、不憫だと言い殺される。 私なんかは、「可哀想にしたのは誰?」と言いたい。私たちは、住み難い建物や環境、おまけに差別が壁になって付きまとう。私のように身体敵に障害を持っていたら物理的に日常の動きを誰かに手を貸してくれないと生きていけない。親は常に介護を受け持っている。そのことで当事者を囲い込み、当事者を内に内に追いやるのが現状. みなさんが全てそうだとは言わない。ただ、障害が重いほど動けないから、親はこの子には私が必要として親の権力が支配する。「何もしてあげない」「ほっとくよ」「食べさせないよ」このような言葉は、障害(児)者にとって自分を否定し自分がなくなってしまうことになる。 そして、親から見捨てられないようにする。また、逆に障害(児)者の周りの人たちが、優しく接してくれる。それが障害(児)者のためだと思っている。例えば、教師が障害児の座る机から落ちたノートを拾うことが、うれしいと言う。その子は机にじっと座ることができない障害があるのだ。 義務教育の役割は、机に座れることではない。友だちをどれだけ多くつくれるか、日常生活がどれだけこなすことができるか、どれだけ自然に接して刺激を感じれるかだと私は思う。
│<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |