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2006年03月24日
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ルーブル危機からユコス事件まで


  1. 石油生産の不振、原油価格の下落がロシアの苦境を招いた
  2. 国際通貨基金の緊急融資は不成功に終わった
  3. ロシアの市場経済への移行は沢山の貧困層を生んだ
  4. デフォルトが契機となりロシアが立ち直り始めた
  5. ユコス事件によりロシア流の正義が追求された

石油の重要性
ルーブル危機を論じる前にロシアの経済構造について復習してみたいと思います。ロシアの外貨取得の最重要手段は石油などの地下資源の輸出です。少なくともロシアにおける石油生産の35%程度は輸出に回されています。ところがそれまで順調に伸びてきたロシアの原油生産は80年代前半にピークをつけた後、伸び悩む様相を呈しました。一方、原油価格は1979年の第二次オイルショックの時にピークをつけ、80年代に入ってからは下落基調でした。この二つのことからロシアの外貨収入は年々減少するという状況であったと推察されます。ソ連邦を構成する周辺各国の結束が緩んだことも、ペレストロイカによる改革の必要性が「待ったなし」になったのも、元をただせばこの原油生産の頭打ち、ならびに石油市況の低迷によるところが大きかったわけです。

90年代前半の生産激減
さて、伸び悩みながらも比較的安定的に推移していたロシアの原油生産が90年代の前半に突然、つるべ落としに激減するという事態が起きました。その理由としてソ連崩壊、そしてそれに続く「ショック療法」による経済の混乱が油田の操業にも悪影響を及ぼしたとも考えられますし、長年、無理な生産を続けてきたことで、技術的にもはや従来の方法では汲み上げられなくなったからとも言えるでしょう。さらに折りしも当時アゼルバイジャン地方の政情が不安定になり、油田のメインテナンスに必要な機器の供給が滞ったりしたことも状況を一層悪くしました。いずれにせよ1988年のピークから1995年にかけてロシアの原油生産は実に40%近くも落ち込みました。一方、石油価格は1998年には15ドル近辺まで下落(1997年の平均価格に比べて40%以上の下落率)しましたからこの時期ロシア経済は大変な圧迫を受けていたことは想像に難くありません。1998年の6月にはロシアの政府債(GKO)の暴落で利回りは60%に、7月には150%にと跳ね上がりました。市場は明らかにデフォルトを織り込み始めたわけです。

IMFに救援を頼む
折角、ヨチヨチ歩きし始めたロシアの市場経済、さらに民主主義を救う為にはこの急場を何とか乗り越えないといけない、、、国際通貨基金(IMF)がロシアに対して支援を発表した背景にはそういう義務感があったと思われます。1998年7月20日、IMFは国際融資団の総額226億ドルの緊急融資パッケージのうちのIMF分として、112億ドルの融資を発表します。このうち初回送金分の48億ドルがすぐに用立てられたのですが、この資金はルーブル相場維持の為に投入され、あっという間に費消してしまいます。なぜなら資本逃避を試みるロシアの金持ち達が「政府がルーブル相場を支えている間に逃げ出せ!」とばかりどんどんルーブルをドルに換金し、スイスの銀行などに送金してしまったからです。結局、ロシア政府は利払い停止とルーブルの切り下げを発表せざるを得ませんでした。1999年1月までにはルーブル相場は98年夏の水準から75%も下落しました。

市場経済移行の代償
これまで見てきたようにロシアの計画経済から市場経済への移行の第一ラウンドは経済の混乱、過半数のロシア国民の困窮化など、悪いことばかりだったと言えます。1989年の段階では貧困層はロシア国民の2%に過ぎませんでしたが、1998年にはこれが約24%にまで急増しました。ロシアの「虎の子」である資源産業はごく少数のオリガルヒ(豪商)の手に渡ってしまいましたし、彼らは急いでその富を国外逃避させてしまいました。のちにユコス事件でオリガルヒに対してプーチン政権が厳しい追及を始めた背景にはこのような社会的不公平に対するロシア国民の憤りがあったことは見逃せないと思います。なお、デフォルト後のロシア経済はようやく立ち直る様子を見せ始めました。その理由の第一はロシア政府が利払いの負担から開放されたことによります。また、二番目の要因としてルーブルが切り下がり、その結果輸入品の値段が跳ね上がったことからロシア国内のメーカーの競争力が向上したことが指摘できます。

ユコス事件
エリツィン大統領の再選の際にオリガルヒが暗躍したこと、また、IMFからの緊急融資に際してもオリガルヒ達が実際にはロシア政府の意思決定にいろいろ注文をつけたことなど、オリガルヒの政治的発言力の高まりを感じさせるエピソードは過去にも散見されました。それがいよいよ加速するのは2003年にユコスのミハイル・ハダルコフスキーが政治的野心を顕わにしはじめた時期です。プーチン大統領はオリガルヒの影響力を抑える為にユコスに対して脱税の容疑で追求を始めます。2003年10月25日にミハイル・ハダルコフスキーは西シベリアの空港で拘束され、2004年にはモスクワ調停裁判所がユコスに990億ルーブルの追徴金を課します。ユコスはその支払いの為に生産子会社、ユガンスクネフチガスを売却する決断をします。ユガンスクネフチガスは結局、ロシア政府系の石油会社、ロスネフチに吸収されました。なお、欧米の投資家の間ではユコス事件を見てロシアの私有財産権、株主権などに疑問を挟む声が強かったですが、ロシア国内ではユコスに対する追及は一般に好意的に受け止められました。





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最終更新日  2006年03月29日 23時56分57秒


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