(2005.10.29「シュギシャ」からの承前)
日曜日の新聞一面トップは、ワシントンで開催されていた「日米安全保障協議委員会」、いわゆる2プラス2の中間報告(共同声明)からの一報だった。およそ一年前に今日あることは予想できたがマスメディアは地味にしか伝えず専門家はカンジンを消去してメディアの口も耳も目もおおうことにもっぱらであった。カンジンとは何か。沖縄や厚木など在日米軍基地の縮小にはウラがある、ということである。極東、北東アジア地域に展開してきた陸海空米軍の役割の拡大とわが国自衛隊との共同・連携行動の大幅な強化案が実現する。これはニッポンをカスピ海沿岸アゼルバイジャンからはじまり、中東をめぐりパキスタン、インドそしてインドネシアにつながる、いうところの「不安定の弧」(別名・
世界の火薬庫←こっちのほうが管理臭くない)への戦術的前線基地にする、ということにほかならない。冷戦下の仮想敵国へにらみをきかす案山子のごとき不沈空母的役割から、米国の世界戦略の要石へと「出世」したというわけである。しかしながら「案山子」であることには変わりがなく、中身の藁束を若干入れ替えただけである。…つまり、その、日本は、いってみれば
「勲章をぶら下げた案山子」になったわけである。勲章はさしずめこのたびめでたくまとまった自民党憲法草案ということになろうか。外務省がどの夜に隠密行動したか、忍者だからキッシンジャー大忍者が来日したり元切り上げ密約のために訪中するたびに伝書使いが特別機を乗り回して骨子作りを側面援護してきたのだろう。ご褒美は、じつはまもなく共同謀議者である(爆)民主党の三白眼前原代表にも届けられるはずだが、そのまえに厚木、岩国や沖縄などの自治体首長をどうするか。本日月曜日の小泉人事にすこしそこらあたりへの布石も見えるであろうか。ライスに合わせてコイケ防衛庁長官とか(◎-◎;)
さてその自民党憲法草案の、のそっとつづきである。メディアは改憲問題といえばすぐに九条について云々し、前文に注意を向けることがない。こんどの草案でももっぱら九条の議論ばかりだった。しかし國の法律の基本的な方向づけは、その前文にこそもっとも象徴的にあらわれる。前文が、ざっとみてきたような貧相ぶりであるについては、姑息な官僚政治家のたくらみが透けて見える。最高法規である憲法を故意に融通無碍にして(骨抜きにして)おき、一般個別の法律でもって(国民の反対に遭いそうな)やっかいな部分は決めてしまえ、という魂胆である。こうした発想はじつは小泉政治の核心にあるものだ。遠山桜のもろ肌脱ぎに、鬼面人を驚かす、なるほどこれは民主政治というモノではなく衆愚政治の特性である。ついでながら指摘しておけば、「いま政治が面白い」…ナルホドしかし、それはテレビの垂れ流しワイドショー番組のオモシロサであり、わははははと大笑いしながら、愚劣な官僚と政治屋の跳梁跋扈をゆるし、みんなそろって地獄行きの特急列車に乗るようなモノではないのか。まあそれもいい。
秋暮れて焼き捨てられる鳥に牛
さて、自民党憲法草案の前文、後半である。
>日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に願い、他国とともにその実現のため、協力し合う。国際社会において、価値観の多様性を認めつつ、圧制や人権侵害を根絶させるため、不断の努力を行う。
まるで箇条書きだ。ぞんざいな、ほとんど美辞麗句を連ねただけの文言がならぶ。書き手のがわにおよそ何の哲学もないからことばがことごとく浮いてしまう。実感のこもらない文章の見本だ。「正義と秩序を基調とする国際平和」っていったいどのようなものなのか。カンジンのその定義が無い。主体が無いから「正義」も「秩序」も途方に暮れてゐる。それぞれのことばが雑然と意味も無く並べられて、いったい自分たちは何者であるか、とわからぬままに立ちすくんでいる、そんな風情である。およそ「正義」といったっていろいろある。人生イロイロと国会で答弁した首相の、あの藁の詰まった脳味噌が信じる「正義」、一方的に言いがかりをつけて主権国家を圧倒的武力で攻撃し無辜の民を傷つけ殺しまくる、そういう「正義」ならわたしはご免こうむりたい。しかしこの憲法草案の「主体」がうかがう正義はどうしたってそういうたぐいの正義にならざるを得ない。この前文を含む草案がそのまま日本国憲法になったとしたら、そのときどきの施政者がいろいろある「正義」のなかから自分に都合のいい正義を選ぶということになる。なるほど、このようにどうにでも解釈が可能な前文はたいそう便利であろう。いやじつはそうしたたくらみがあるから、敢えてこのような曖昧な前文をつくったのではないのか。
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われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる
現行憲法の最後から二番目の段落は、このように云う。国家の関係は、個人の関係にそっくり再現させて考えることができる。おのれ、おのれとオノレ大事な人は、ジコチューと軽蔑される。他人を思いやり、もって和を尊ぶ心はこの國の古き良き伝統である。小泉純一郎という政治家の横紙破りには、こうした精神は皆無だが、まあそれは魑魅魍魎の政界ならばかもしれぬ。が、イラクへ侵攻という米国ブッシュ政権の行為を支持して自衛隊を現地に常駐させた政府の行いは、「他国も自国とおなじように尊重せよ」と謳うこのくだりだけにてらしても、現行憲法の精神におおきく背くモノであったろう。
ここで、自民党草案の前出部分をふたたび読み返せば、なにが抜け落ちているかが明確になる。「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に願い、他国とともにその実現のため」という箇所は、カンジンの「他国」がどのような国を指すか、その国家は日本の國とどのような関係であるかがなにも定義されていない。つまり「自国のことのみに専念して他国を無視」する国家であるならば、そこで云う「正義」も「秩序」も「国際平和」も、偽物であろうが、そうしたことの定義がないために、せっかくの「正義」「秩序」「国際平和」ということばは行き場を無くして宙にさまようわけだ。法律と経済のカラクリは学んでも心と精神の深みを若い時代に身につけてこなかったエリート達のジコチューがこの草案にはうかがえる。近代の歴史は、どの國でも、こうした者どもらが國をあやめてきたことを教えているのだが。
つづく(2005.11.03「ブンカふん」日記へ)