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カテゴリ:東京(その他)の石仏
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川口シリーズの途中ですが、今回はまたちょっと寄り道して目黒不動尊の 南にある安養院の石仏を紹介します。 安養院 品川区西五反田4-12-1 目黒不動尊のすぐ南、東西に伸びる目黒不動商店街の通り沿いに安養院の 入り口がある。長い参道の先にモダンな本堂の姿が見える。 参道の両側の植え込みの中には地蔵菩薩像、聖観音菩薩像、如意輪観音像など 実に様々な石像が立っているが、多くは個人の供養塔だった。 左側の中程、木の陰に阿弥陀如来立像 延宝3(1675)舟形光背 が立っていた。 光背には為無縁諸精霊と刻まれている。 蓮台の正面に年号があり、その下の台の正面に念佛講中と刻まれていた。 その周りに6名の名前が見られるが、大工のほか大宮屋、江戸屋などとあり、 門前町として栄えていたこの町の大店の旦那衆が寄進したものだろうか。 さらに進むと階段の前、両脇に3m近い大きな一対の狛犬?中国清代のもので、 宝獅子というものらしい。 左 子獅子を従えている。このあたりは日本の狛犬と変わらないがすごい迫力だ。 右 宝珠を持つ。よく見ると左右で阿吽の形というわけではないので、これは やはり中国のものだろうか。それでも異形の狛犬と言ったほうがしっくりくる。 階段の先にさらに参道が続くが、こちらも両側に様々な石仏が並んでいる。 右側の中程、光背に講中と刻まれた如意輪観音坐像 元文2(1737)があった。 参道の左側、塀の前に大きめな石仏が並んでいた。塀の後は墓地になっている。 地蔵菩薩立像 舟形光背 光背に文字は見あたらない。足の下の部分に赤い文字で 安産地蔵と刻まれていた。 続いて二体の地蔵菩薩坐像。左は腰立地蔵、右は開眼地蔵と刻まれている。 こちらも年代などはわからない。 その先の角のところ、たくさんの石仏のなかには二体の観音様が立っていた。 参道の右側の塀の前、こちらもたくさんの石仏が立っているが、右の石塔は 子育て地蔵尊 昭和9(1932)個人が奉納したもののようだ。 左の石塔は正面上部に三面六臂の馬頭観音坐像が彫られ、その下に「無縁法界」 右側面中央には「奉順禮西國秩父坂東供養塔」脇にに寛政元年(1789)の銘を刻む。 また階段を登った先に山門が立っている。その手前左に二基の石塔が見える。 左側に 廻國供養塔 元禄17(1704)正面「奉納日本廻國妙典六十六部成就所」 右側面に願文20文字、左側面に年号が刻まれていた。 山門を入り右、竹垣の前に庚申塔 青面金剛立像 剣・ショケラ持六臂。年代不明。 三眼の青面金剛は合掌するショケラを吊るし邪鬼を踏む。全体に細かくはっきり した彫りだが、光背の一部が欠け、三猿も下の石に埋もれているようだ。 その先には観音堂が立っている。このあたりはやや雑然とした印象を受ける。 このエリアにも阿弥陀如来像、聖観音像、地蔵菩薩像、不動明王像など 多種多様な石仏が立ち並んでいた。 赤いちゃんちゃんこを着た猿の像や羅漢像なども見られた。 観音堂のすぐ脇に大きな念仏供養塔 延宝3(1675)が立っていた。正面に大きく 「南無阿弥陀佛」と刻まれている。左側面 偈文とともに「庚申講中」という 文字があり、庚申講中によって建立されたものだという。 その先に墓地がある。墓地は左右に分かれているが、右側の入り口付近に 三界萬霊塔 万治2(1659)板碑型で上部に地蔵菩薩立像を彫り、その脇には 「三界萬霊六親眷属」と刻まれる。下部には二体の僧形の坐像が彫られる。 二体の間に見える文字は僧名だろう。右脇には年号が刻まれていた。 右側の墓地の最奥部に竹垣で一般の墓地と隔てて、大型の石仏が集められた エリアがあった。歴代住職の墓石も見られるが、一番奥はまた違った感じの 石仏ゾーンになっている。 中央に五輪塔があり、その周りを四体の丸彫の観音様、二体の舟形光背の 観音様が中央の五輪塔を守るような形で立っていた。なかに貞享2(1685)、 延宝6(1678)などの銘が見られる。 五輪塔 延宝7(1679)芸州藩主浅野綱晟の室 八代姫を祀ったものだという。 下部の方形の部分の正面に稱専院殿心誉誓空大姉尊儀と刻まれていた。 やはり周りの観音様はお姫様をお守りする侍女たちの墓石なのだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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