|
カテゴリ:東京 板橋区の石仏
ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら
成増・赤塚を終わり、新大宮バイパスの東の地域、今日は大門の石仏です。 浅間神社 板橋区大門5 三園方面から新大宮バイパス東側の側道を川越街道方面に向かって登ってくると 左側に浅間神社がある。ここは昔はすぐ北の諏訪神社の境内だったらしい。富士塚 十羅刹女神堂、須賀神社があり、十羅刹女神堂の前には一対の石像が並んでいた。 左 珊底羅大将像 文化7(1810)十二神将だが神々の特徴などはよくわからないので 資料に従って紹介する。丸彫りで手の先が欠けカビも目立つが状態は悪くない。 像の裏に回ると年号の脇に伊勢太々講中と刻まれていた。江戸時代中期以降に 盛んになったお伊勢参りの講が奉納したものだろう。 右 因陀羅大将像 文化7(1810)こちらも手の先が欠けカビも目立つが様子はいい。 像の裏 武州豊嶋郡下赤塚村 願主拾七人と刻まれている。残りの10神将はどこ? 大門観音堂 板橋区大門2 さらにバイパスの側道を南へ歩き、すぐ左に折れると観音堂の墓地があった。 境内に入って右手、ブロック塀の前に石仏が並んでいる。 右 庚申塔 正徳5(1715)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。江戸時代初期のものだが 唐破風笠を持ち二鶏・邪鬼・三猿が揃っていて本格的な像塔。台の正面には大門村 講衆十二人と刻まれていた。 右側面には蓮の花が彫られ、その中に「奉造立庚申供養塔為現當二世安樂也」 左側面にもやはり蓮の花が彫られ、造立年月日が刻まれていた。 庚申塔の奥には小型の地蔵像と個人の墓石が立ち、さらに続いて地蔵菩薩立像 宝暦7(1757)光背左脇に年号。足下に下赤塚 大門村と刻まれている。 その隣 塔の上部に聖観音菩薩坐像 天明3(1783)小さいが彫りは細かく美しい。 像の下の部分 中央に□蓮了沙彌。両脇に年号を刻む。 続いて二体の地蔵菩薩立像。銘は無く詳細は不明だが、仲良く並ぶ姿が楽しい。 その奥に聖観音菩薩立像 寛文4(1664)寛文期の石仏はなぜこう美しいのだろう。 素朴だが凛とした力強さがある。光背右 本誉禅囬大徳 大門村。光背左に年号。 光背下部両脇に施主敬白と刻まれていた。 一番奥、一基だけ東向きに立つ 庚申塔 正徳3(1713)正面上部に日月を彫り 「奉造立庚申供養現當二世為安樂」両脇に造立年月日。右下に赤塚村大門。 左下には同行 拾貳人と刻まれている。 その下部には素朴な三猿。江戸初期にはこういった青面金剛も邪鬼もいない 三猿のみの庚申塔をよく見かける。 入口から見て正面、墓地の中に二基の地蔵像が立っていた。右は新しい。 左 地蔵菩薩立像 寛文10(1670)古いものだが錫杖、宝珠は健在だ。光背右に 「奉建立石地蔵尊像一躰千日念佛廻塔」左「恭敬供養□□納受一切衆生皆共成佛」 下部には造立年月日が刻まれていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.11.01 19:30:06
コメント(0) | コメントを書く
[東京 板橋区の石仏] カテゴリの最新記事
|