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カテゴリ:東京 板橋区の石仏
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板橋区徳丸の北東地域の続きを見てみましょう。 観音寺跡墓地入口 板橋区徳丸6-52 松月院通りの徳丸7丁目交差点から西に歩き、最初の曲がり角を左に折れると 左手に墓地があった。門扉をくぐると右側の小堂の中に六地蔵が並んでいる。 六地蔵菩薩立像 享保4(1719)左から3番目のお地蔵さまだけ少し小さい。 右の三体を見てみると像の大きさ、その佇まい、持物、衣服の模様などから、 左の三体のうちの二体も含め、同時に建立されたものと思われる。 三基の台を下の二基の台の上に置くという変わった構成。当初からこうなのかは わからない。下の四基の台のうち右から三基の台の正面にはそれぞれ5つの名前、 一番左の台に8名の名前や戒名が刻まれていた。六地蔵の下の6つの台の正面には すべてに享保四とあり地蔵名が刻まれ、側面には念佛講中などの文字も見られる。 右から3番目は庚申講十一人内と刻まれ、庚申講中も関わったことがわかる。 六地蔵の小堂の脇に仁王像 享保12(1727)が立っていた。この奥が墓地になる。 もう一基の仁王像とともに墓地の番人のような役割なのだろう。 左側にも仁王像 享保12(1272)三段になった台の上に載っている。 像の前に立つ力石?「奉納観世音」脇に徳丸村、四拾貫□。 真ん中の台に刻まれた銘は二基の仁王像とも同一で位置は左右対称になっていた。 左の仁王像で見てみよう。四つの面にそれぞれ銘がある。正面は「奉造立二王」 左側面には観音寺 現住長宥と刻まれている。 右側面 武州豊嶋郡徳丸村 講中三十三人 志七十人。裏面には年号が刻まれていた。 観音寺跡墓地西路傍 板橋区徳丸6-51 番地を見るとわかるように上の墓地のすぐ隣になる。松月院通りの一本南の 一方通行の通り。住宅の前に庚申塔が立っていた。 庚申塔 文久2(1862)正面に大きく「庚申塔」いたってシンプルだ。 塔の右側面に年号。台の右側面に3名の名前。左側面に9名の名前が刻まれている。 台の正面「左」「向」「右」とあり、それぞれ下に地名が刻まれているようだが これがとても薄くて読みにくい。いろいろな角度から見てみたが、右 ねりま、 江戸道。向 赤塚、吹上道はやっと読むことができた。「左」の下はわからない。 資料では にしたい、□□□道だが、拓本でも採らない限りこれは無理だろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.11.08 19:08:23
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