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一言居士の過去録2 [全59件]
先般社会保険庁より妻宛ての年金特別便が届いた。 自分の分については既に昨年、共済組合からと社会保険庁の両者から届いており、何の問題も無かったからその旨報告をしたところだ。 妻のどうすればよいのかとの問い掛けにも、何の問題意識も無く、そのまま返送すれば良いと応えたが、念のために見てみたら、加入期間と納付期間に10ケ月の差がある。しかも、相変わらず未納期間の表示がされてないため、うっかりすると見落としてしまう。 年金特別便の第1便で、散々マスコミでも取り上げられた問題なので、わかりやすい内容に改められていると思っていたが、半年たった今も、明確な未納期間の表示は何処にも無く、書類になれないお年寄りには不親切極まりない。特別便で問題を炙り出そうとしていると思いきや、問題を糊塗しようとする姿は変わりないようだ。 妻はその10ケ月の差を指して聞いて来たのであるが、まさか身近に起ろうとは思っていないので、軽はずみな返事をしてしまったことになる。 確か昨年からもらい始めた厚生年金部分の裁定請求に際して、国民年金の期間確認があり、それにも異常が無かったから、まさか10ケ月の未納期間が存在するとは思ってもみないことである。 昭和61年の抜本改正までは、給料から天引きされていたはずであり、それ以後は3号被保険者として納付はしていないが、自分が役所を辞めてからは、毎年一括納付をしてきた。手続きの遅れの関係で1ケ月の差と言うならありえない話でないが、妻にすればそんなことさえありえないことだ。 特別便には記録が正しくなければ、社会保険事務所まで来てくれと記載されている。 それには、納付を証明するものが必要だろうと思えども、20年も前の領収書など残っているわけが無い。 水掛け論になって、伊勢へ何度も出かけるのは億劫なので、何か別のもので証明する手立てを捜した。 幸い結婚以来、妻が書き綴って来た家計簿が残っているとのことで、押入れの奥深くにしまわれていた、20年前の家計簿を何とか見つけることが出来た。 家計簿の給料明細欄に、毎月の年金天引き額が記載されている。国民年金を給与から天引きしてきたのは、年金の徴収窓口である役場ならではのことだろう。 当時の額にして、2000円から400円程度。毎年のように高騰して、今では13000円程度であろうか。 自分の退職した平成12年からの分は、口座振替の預金通帳が残っていた。 大騒動してそれらの記録を精査して見ても、未納期間は何処にも見つからない。 ズサンな事務の社会保険庁にますます腹が立つ。 相手に反論の余地を残さないように準備万端整え、妻のお供をして伊勢社会保険事務所に乗り込んだ。 社会保険庁前の道路は下水道工事で通行止め。細い路地を大回りして着いた事務所には、人の列が続き1時間待ちとのことで番号札を渡される。 そしていよいよ相談の順番が来たので、証拠書類は車に置いたまま、未納期間はいつのものかを尋ねてみた。 担当官は調べてみますと言って一旦引っ込み、電算記録を持って嬉しそうに現れていわく。 未納期間はありませんでしたとのこと。未納期間がなくて良かったですねとは言わないまでも、そのようなニュアンスの言葉にあいた口がふさがらない。 よくよく聞けば、昨年5月に妻が60歳になっている。そして年金特別便の調査期日が本年3月、その間の10ケ月が加入期間として算定されているために、このような表記になったとのこと。 担当職員はなんら悪びれることも無く、これらの苦情がたくさんあるとのことだ。 システムの構築ミスではないかとの指摘には、そうではないのですが、結果的にこうなってしまうのだから、しょうがない程度の問題意識しかない。 担当職員に罪があるとは思わないが、またしても社会保険庁のやる気の無さに幻滅を味わう。 あれだけ叩かれこき下ろされても、社会保険庁は自浄機能が働かないらしい。 年金特別便に大金を投じて、こんな簡単な問題を解消するシステムさえ作れない。 こんなことで1日を無駄に過ごした人が、全国に何人もいるのだろうと思うとやりきれない。
その先生が五年生の担任になった時、一人、服装が不潔でだらしなく、どうしても好きになれない少年がいた。中間記録に先生は少年の悪いところばかりを記入するようになっていた。 ある時、少年の一年生からの記録が目に止まった。「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。勉強もよくでき、将来が楽しみ。」とある。問違いだ。他の子の記録に違いない。先生はそう思った。 二年生になると、「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する。」と書かれていた。 三年生では「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りする」。後半の記録には[母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる。]とあり、4年生になると「父は生きる意欲を失い、アルコール依存となり、子どもに暴力をふるう。」、先生の胸に激しい痛みが走った。 ダメと決めつけていた子が突然、深い悲しみを生き抜いている生身の人間として自分の前に立ち現れてきたのだ。先生にとって目を開かれた瞬間であった。 放課後、先生は少年に声をかけた。「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない? 分からないところは教えてあげるから。」、少年は初めて笑顔を見せた。 それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。 授業で少年が初めて手をあげた時、先生に大きな喜びがわき起こった。少年は自信を待ち始めていた。 クリスマスの午後だった。少年が小さな包みを先生の胸に押しつけてきた。あとで開けてみると、香水の瓶だった。亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。先生はその一滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねた。雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は、気がつくと飛んできて、先生の胸に顔を埋めて叫んだ。「ああ、お母さんの匂い! きょうはすてきなクリスマスだ。」 六年生では先生は少年の担任ではなくなった。 卒業の時、先生に少年から一枚のカードが届いた。「先生は僕のお母さんのようです。そして、いままで出会った中で一番すばらしい先生でした。」 それから六年。またカードが届いた。「明日は高校の卒業式です。僕は五年生で先生に担当してもらって、とても幸せでした。おかけで奨学金をもらって医学部に進学することができます。」 十年を経て、またカードがきた。そこには先生と出会えたことへの感謝と、父親に叩かれた体験があるから患者の痛みが分かる医者になれると記され、こう締めくくられていた。 「僕はよく五年生の時の先生を思い出します。あのままだめになってしまう僕を救ってくださった先生を、神様のように感じます。大人になり、医者になった僕にとって最高の先生は、五年生の時に担任してくださった先生です。」 そして一年。届いたカードは結婚式の招待状だった。「母の席に座ってください。」と一行、書き添えられていた。 本誌連載にご登場の鈴木秀子先生に数わった話である。 たった一年間の担任の先生との縁。その縁に少年は無限の光を見出し、それを拠り所として、それからの人生を生きた。ここにその少年の素晴らしさがある。 人は誰でも無数の縁の中に生きている。無数の縁に育まれ、人はその人生を開花させていく。大事なのは、与えられた縁をどう生かすかである。 ある日誰か知らないが、以上のエッセイを公民館の私の机に置いて行った。 「縁を生かす。」という題がつけられていて、最初読んだ時から大きな感動があった。 それから一年ほどした今日読み返しても新たな感動につつまれる。 実話なのか、誰かの作り話か、この際何の問題も無い。みんなに知ってもらいたくて紹介する。 一人の先生との出会いが、少年の一生を変えさせた物語である。 先生がその少年に何を見出したのか、なにに期待したのか知らないが、立派な先生と素晴らしい少年の物語である。 誰にでも、こんな出会いや無数の縁があるのだろうが、そんな縁を気付きもせずに、不遇ばかりをかこつ人の多いことか。 今年の夏もようやく峠を迎えようとしている。自戒を込めて。
蒸し暑さが続く8月1日、120人ほどの浜島町内の市民が参集し、初の志摩市民集会が開催された。 これは先般成立した「志摩市まちづくり条例」にもとづき、旧町単位で行う市民集会であり、先だって5月の行政懇談会と対になるものである。 今回は前もって、地域課題の共有、優先順位、計画的整備など多様な問題を整理した、まちづくり記録帳が用意され、きめ細かく地域課題を取り上げて、その対処を示されており判かり易かった。 その記録帳の内容は、5月の懇談会で提言されたことへの解決方針が明確に示されており、課題への理解を共有することは大切なことだ。 志摩市のまちづくり条例の基本理念は、「人にやさしいまちづくり」「住んでよし、訪れてよしの志摩市」の実現であり、そのための基本的ルールが定められ、くしくも集会当日がその施行日であった。 その前文で、それぞれが協働して市民の一人一人が輝く、自立したまちづくりを実践したいと結んでいるように、好むと好まざるにかかわらず自己決定・自己責任の時代と言うことになろう。 市民と議会と行政機関が協働して、まちづくりを実現することを基本原則としており、そこでは人権尊重と情報共有、参画・協働がバックボーンとなる。 そして条例には、これらの3者それぞれの権利と責務が規定されている。 まず市民については、まちづくりの情報を知ることと、それに参画する権利を有し、責任を持ってまちづくりに参画する責務を課している。まちづくりへの参画は権利でも有り、努力目標とはいえ義務でもあることが、市民主体の面白いところである。まさに自己決定・自己責任、 議会の権限と責務は、法の定める権限と開かれた議会運営などの責務に加え、政策水準の向上を図るよう求めている。 一方行政機関についてはその権能を省き、機関、市長、職員の法で定める責務の他に、市民への説明責任や、応答責任が明記された。 大きな項目である情報の共有と、個人情報の保護についても改めて規定し、参画と協働の項目では、公募委員の募集、タウンミーティングの開催、アンケート調査など、多様な市民参画制度を整備するとしている。 また住民投票制度の設置などで、市民の参画を促すほか、地域課題解決のため市民と対等な立場で協働してまちづくりを推進するとされている。 そして第7章、市民が互いに助け合って、問題解決に当る自治活動を規定したこの章が、この条例のもっとも重要なところになるのであろう。 行政はこれら自治会活動等を支援することにしているが、公共的課題の解決や、公共的サービスの提供までも期待しているところに、いささかの後ろ向き姿勢が見受けられる。 新しい公共の担い手を支援する必要性とともに、れっきとした行政指導を課すべきでなかろうか。何かにつけて丸投げの批判が巷に増幅している。 また、市民は自主的に自治会等の活動に参画し、地域課題の解決を図るように求めているが、現実に地域が抱える問題のひとつに、自治会離れ現象が顕在化しつつある中で、行政が自治会活動への市民の参画をどう促しているのか見えてこない。 自治会の悩みは行政の悩みと、悩みを共有することから始めてもらいたい。 しかしこれらを補完する意味で、市民集会システムが作られ、今回が始めての集会となったわけである。何はともかくスタート台に立ったわけだし、集まって話をすることが物事のスタートである。 結果を求めずに息長く継続していけば、いつか花咲く時もあろうし、問題を共有することが次ぎえのステップとなる。注意深く見守りたい。 地域課題は、市民集会システムに将来が託されたが、志摩市の大道を行くのは政治である。 志摩市の進路だけは自ら示さないと、市民集会が御用聞き集会になりかねない。
平安時代から続き、日本の三大祭の一つといわれる京都・祇園祭を始めて見学した。 14日の日から始まり、宵宵祭り、宵祭り、山鉾巡行と4日に渡って行われる。 100万人の見学があると言うことだが、そのクライマックスの宵山の日、大渋滞を覚悟しつつ愛車のトヨタカローラバンを駆って舞い込んだ。 開通間もない新名神は快適なドライブで、予想した京都東インターチェンジの渋滞にも遭わずに、同じ宵山見物の観光バスに連なって昼前にホテルに着いた。 曇り空で蒸し暑さが若干和らぐなか、四条通のホテルに車を停めて宵山の事前見学に出かける。 梅雨明け直後の歩行者天国は、浴衣がけも多く祭り気分は最高潮を迎えた。 堀川通りから河原町通りをつなぐ四条通りは、四角な巡行コースの一辺を占め数台の山鉾に会える。 まずホテルの前には小ぶりではあるが、傘鉾が建ち通りは見物客で埋め尽くされる。 大通りの月鉾、函谷鉾、長刀鉾と人気の鉾周辺は大にぎわい、それぞれの辻の山鉾も通りが狭いだけに、袖や肩が触れ合うほどの賑わいが現出する。 毎年先頭を行く長刀鉾の人気はダントツである。3億円といわれる豪華なつくりや、唐天竺渡来の前掛衣装の豪華さは重要文化財並とか。 その長刀の矛先は、八坂神社と御所を畏れて進むために、その都度切っ先を回すらしい。 一般客にも公開してくれており、二階から通路を通して乗るようになっているが、女子は禁制の由。 1000円の粽を買って後学のために体験するが、特別な感慨を抱くようなものでもない。 一旦ホテルで休んで、夏の夜風で幾分暑さも和らいだ中、再び宵山見物に出かける。 新町通りと室町通に集中して鉾が多い。この通りには屏風絵を披露してくれる旧家も多く、自慢の品々を覗き込みながら人ごみに押されるように散歩する。 ちょうちんに灯が灯る頃になると、益々人の出が増え始め通りの人並みを掻き分けながら進む。 路地の山鉾の近くでは、かわいい声を響かせて子どもたちが「ろうそく一本献じられましょう。常は出ません、こよい限り」とろうそくやちまきを売っている。 その様が京都の風情をいやがうえにも高めてくれる。 それぞれの山鉾では、宵山の終わりを惜しむように「コンコンチキチキ」と祇園囃子の音が奏でられる。何種類かのリズムがあるようであるが、自分には皆同じように聞こえる。 山鉾巡行の出発時間は、午前9時、見学人気一番の、四条河原町の四辻の通過時間予定は9時40分頃とのことで、7時ごろにはホテルを出る。途中で朝食をとって8時には現場入ったが、既に前の席はカメラマンに占拠され、何列目かの後ろに並ばざるを得ない。 待つほどに、長刀鉾を先頭に華やかに豪華絢爛な山鉾が繰り出され、待ちかねた辻回しが行われる。 当初、90度を一気に廻すのだと予想していたのが、案に相違して30度づつ3回に分けて廻す。 12トンもある山鉾だからとは言え、車輪に下に竹を敷いて水をまいてする作業に、余りにも時間が掛かりすぎてしまい、見ている方がうんざりしてしまう程だ。 当事者の真剣さや力の入れようが、その瞬間だけより伝わらないのが残念だった。 178センチの後ろに並んだ人には気の毒だが、前の人が邪魔になるのはわが身も同じ。 1番前の人が立ち上がっているためどうしようもない。少しだけ屈めば良いのだが、そんな気はなさそうな按配だ。後ろの方で「見えない、見えない。」と言っている伯母ちゃんの声が届いているはずだが、一向に頓着する気配は無い。 自分としても後ろの人のために、変わりにカメラのシャッターを押してあげることより出来ない。 若者不足でアルバイトも無く、外人だけで曳く鉾山も有ったらしい。 1200年続く由緒ある祭りも人不足には勝てないのか。日本三大祭にしてこの現状。 門外漢には一度で堪能する祭であった。
昨日、来年5月から実施される裁判員制度についての説明会があった。 制度実施1ケ年を切り、最近マスコミでも盛んに報道されてはいるが、余り自分のこととは考えられずに過ごしてきたのを反省し始めて参加した。 人に訴えられたり、人を訴えるようなことをしたくないというのが、大多数の日本人の本音であり、一生裁判所の門などくぐりたくないと思ってきたが、そうも行かなくなりそうな雲行きだ。 罪は罰で償うのが法治国家の基本であり、目には目を、歯には歯をと言う考え方が、量刑の尺度だというスタンスで、常々厳罰主義こそが犯罪抑止の最大効果と自認をしているが、果たしてそれが正しいとも言い切れない自分も又別におり、今回の裁判員制度の下で改めて問い直しても見たい思いもある。 裁判員制度とは、国民の誰もが義務として刑事裁判に参加し、裁判官とともに有罪・無罪や、有罪の場合はその量刑をも決めることとなる。 ちなみに裁判に市民が参加することは、世界の主要国では常識となっているようだ。 昔の西部劇などを見ると、よく陪審員が裁判を執行して縛り首などにしていたことを思い出す。 最近の事例でも、陪審員が買収に応じて無罪判決になったとか、黒人の被告を裁くとき、陪審員の肌の色で量刑が大きく左右されるとも言われている。 日本の裁判員制度は、市民だけで決める陪審員制度とはいくらか異なるが、まあこれに似たような裁判が来年から始まることとなる。 最近の事件で驚くのは、子ども、婦女子、無関係人を被害者とした凶悪、陰惨と呼べる事件の如何に多いことか。それに比較して、報道される裁判の実情を垣間見る時に、むちゃくちゃな弁護活動の実態に憤りを感じる人も多い。 そこで、職業裁判官のみで行うための不透明さを、市民が参加することによって、市民の常識を司法に取り入れることにあるということらしいが、今ひとつ分からないことだらけで、次のような幾つかの疑問をもって説明会に望んだ。 1、対象となる事件は。 2、裁判は何処で行われるのか。 3、県下の裁判の数はどの程度か。 4、裁判員に選ばれる確立は。 5、費用弁償はあるのか。 6、どれぐらいの日数が予定されるのか。 これらに対して、ビデオで大方の答えを用意されていたし、その後の説明で明解にしてくれた。 その答えは。 1、 刑事裁判のうち、殺人罪、傷害致死罪など、死刑又は無期の懲役・禁錮に当たる重大な罪に関する事件がその対象となる。 2、 第1審の行われる裁判所のみと言うことで、我々の場合は津地方裁判所となる。 3、 三重県の場合、過去3年間の例では、年間約50件~75件程度らしい。 4、上記から算定されるのは、約3000分の1の確立で、これは全国の3番目に高いそうだ。 しかしこれから忌避者、不適格者などを排除していけば1000分の1ともなりえる。 これから成人する世代にとっては、1度は裁判員になる可能性は高そうだ。 5、 一日当り10,000円が上限では、現役世代や高収入者は気の毒な限りだ。 6、 確か説明では3日~7日程度のようであったが、裁判員の職責を全うするには、それで済みそうも無いように思えた。 自分の疑問以外にも今回の説明会で明らかになった事は、考えていた以上強制力を伴うものであり、裁判自身が国民の常識と乖離したところにあると思っていたものにとって、この法律そのものが我々の常識外のように思わざるを得ない。 すなわち裁判員の義務や身の危険に対する認識や、法律で個人を束縛して省みない発想など、法律の専門馬鹿的発想の下に成り立っているようでならない。
例年より1週間ほど早くなった入梅の中、準備から片づけまで、まったくの幸運としか言いようの無い天候に恵まれ、第48回伊勢えび祭りが執行できた。 過去最高の参加者のじゃこっぺ踊りパーレードは、熱気で人酔いしそうな雰囲気だった。 特に今年は、中日新聞が募集した“後世に残したい三重の祭り”第1位に選ばれたこともあってか、内外の注目を集め、事前の申し込み段階で1000人近い応募があった。 出発地点から、会場となる浜の入り口まで延々と続く長だの列を、舞台影から垣間見て感動を覚えた。 また、出発地点が坂の頂上付近にあるため、先頭を進みながら坂下より見上げたときの、国道を大河の流れのように踊りが進んでくる風景はまさに圧巻。ここまで発展させてきた先人の労苦、伊勢えび祭りの面目を保ちえて、いささか感傷的になる一瞬であった。 また、若い人を町でたくさん見かけられたことが、伊勢えび祭りの発展性に何か暗示が有るような気がしたのは自分だけであろうか。これからは若い人の関心が、祭りの成否を分けるのではなかろうか。 遡ること昨年の秋ごろ、旧伊勢えび祭保存会から引継ぎを受けて、新陣容で発足をしてから戸惑いながらもここまで来たのは、浜口会長と松山・中村両副実行委員長の熱意と努力の賜物であろう。7年ぶりに3人が揃ったとのことであるが、以来順風満帆でここまで来たわけでない。 祭り馬鹿と言うことでは共通していても、3人が3人とも職人気質の個性豊かな祭り馬鹿である。 祭りの中心を占める3人が、常に口角泡を飛ばしながら祭りを仕切っていくのだから、問題の発生には事欠かないが、ここが又新保存会の保存会たる所以でもある。 最後までもめにもめ続けたのが、会場中央に設置するお立ち台の扱いである。 会場踊りに変化を付けたい。観客を如何にして踊りに参加させていくかと言うことで、設置することにしたお立ち台。踊りの輪の中か、外に置くべきか。はたまた1つ、2つ、3つにするか。方向はなど、こだわればこだわるほど、我々には良くわからない。 最終的に落ち着いて前日に設置したのが、中央に高さ2メートル、4坪のもの1ケ所であった。 そしてリハーサル、余りにも高すぎて会場照明や、音響にも影響すること事が前日にわかった。 すったもんだの挙句、当日の準備の最中、急遽鳩首会談が開かれてその設営をやりかえることにした。 結果的には、やり変えたことで良かったと思うが、その都度都度段取りするのが松山氏であり、事務方の一切を取り仕切る中村氏の苦労は並大抵でない。 特に短期間の間に、今回の事務を一手にこなしてきた中村氏の活躍は涙ぐましいものであった。 秋以降の実行委員会の開催から始まり、この2~3ケ月は毎日のように事務所に入りびたりで一切の事務を一人で対応した。 市・県、警察などの許認可の申請など膨大な書類の作成を、自分のパソコンを持ち込んで、連日夜遅くまでもくもくと続けていた様は、知る人ぞ知るところであろう。かっての経験者と言えども、行政から離れた形の保存会では、許認可の事務量は半端でないし、祭りの進行から衣装や装備の手配まで、山とある事務をほとんど一人で切り回わした。 久しぶりに大勢の人と一緒になって仕事をしたが、若い実行委員の愛郷心にも心打たれるものがある。 一歩間違えれば、伊勢えび祭りは風前の灯しみの状態に陥ってしまいかねない。そうしないために、そうならないために、同じ思いを抱く人がたくさんいたし、まだまだ埋もれて居りそうなのが救われる。 一生懸命に寄付集めに歩いてくれた人、踊りやみこしの参加者集めに奔走してくれた人、準備や後片付けに汗を流してくれた人、祭りを見ることも無く裏方に徹してくれた人、数え上げれば限が無い人の応援がこの祭りを支えてくれた。 特に、志摩市の伊勢えび祭りベテラン職員の、ボランティアの協力無しには成り立ちがたかった。 1日のことであっても、彼らと共に閉塞感漂う町に、活気が蘇る原動力の一員になれたことに喜びを見出したい。 ただ発展することで、手放しで喜べるものでないことも多い。 資金の問題は毎回ついて回るであろうし、今回でも、駐車場の問題などなど、我々の手の負えないことも多々有る。これからの励みになれば良い。
先般市議会議員6名による合同市政報告会が開かれた。 あいにくの土砂降り。じゃこっぺ踊りの練習会とも重なり、どちらに出るべきか迷ったが、踊りの練習会は今から何度か機会もある。折角の市政報告会の入りが低調では、浜島町民の政治への関心度を疑われてはならないと思い報告会に参加した。 ところが会場に行って驚いた。広報車の効果もあったのか、浜島出身の議員もいる関係でか解らないが、嵐のような風雨の夕刻にもかかわらず、会場は大いに賑わっている。 参加議員の6名は、会派を同じくしているわけではないが、少数意見の持ち主らしく、個性の強い独自の意見の人の集まりのようだ。 団長の挨拶では、ここでの意見は議会の場を通じて行政に届けるようにはするが、それが全て政策に反映するとは思わないで欲しいとの。このような場が市井の御用聞きや、取り持ちの場であってはならない。最もな話、きちんと自分の中で整理した上で、是々非々で行動して欲しいと願うのは自分ひとりでない。 一通り20年度予算について、自主財源を月給27万円の家庭になぞらえて説明がされたが、聞く側にどこまで理解されたか疑問で有る。 月給27万円の収入の家庭が、毎月80万円近くの家計のやりくりとなってしまうため、折角の工夫された資料ではあるが、市の財政を家計になぞらえるには無理があったようだ。なぜなら、親からの援助が毎月40万あり、10万ほどの銀行借入でまかなうと言う家計は、余りにも現実離れしている。 説明が終わるのを待ちかねて、質疑応答というより参加者の意見が飛び出す。 何かに付けて、市の財政の窮状を聞かされる市民の立場から、まず議員の報酬と定員についての見解を問う質問から幕を開けた。 誰しもが思っていること、感じていることを歯に衣着せぬ口調で質問するには勇気がいるものである。 議員の方は、この種の集会にはつきものと心得てもいるだろうし、市井の風聞は直接身にも感じており、しかも、今回の参加者である6名の議員は、定数削減派、報酬懐疑派のようであるから、この種の質問にもたじろぐことはなく、質問に同調しつつ答えられた。 ただ、40万円と言う報酬額は、子育て世代にはきついと言う本音も交えての答弁であるので、その辺の感覚が一般の感覚とは異なるのだろう。 合併によって、ひときわ目立つ町の閉塞感については、誰しもが頭を悩ます。 合併しなかった場合と比較しようが無い問題だけに、踏み絵を踏まされる立場の人には気の毒だが、どこの町も一緒では済まされない住民の最大の関心事である。 また、厳しい財政状況下で行う志摩庁舎建設に対する、議員の考えを問う質問も有った。 それぞれが自分の見解を述べてくれたが、6名の議員がこぞって新庁舎建設の反対論者であったことに驚いた。ただ、その反対意見の内容はそれぞれ異なり、本庁方式を取ることの必要性や、予算を承認する上で結果的に建設賛成にいたることなどが説明された。 予算審議を通じて、県庁舎への代替案なども検討されたらしいが、なぜか多数の意見で新庁舎建設となったらしい。 問題を一つ片付けた挙句が、より以上の問題を抱えることにならなければ良いが。 浜島小学校建設のために新たに設置する水道敷設事業には、浜島町の教育施設充実のための基金が投入される理由も聞かれた。 この基金は、旧町時代に浜島小学校の建設のために、その施設の充実を願って積み立てられたものであり、あくまでも建設本体に充てる資金に使われるには、事情を知るものには許し難いものがある。補助金申請上の有利な活用の方法だと説明を受けても、児童教育の直接的な使途に期待を持っていたものには合点がいかなかったであろう。 次々飛び出す難問、奇問に、暴雨風雨も時間も忘れるほど、有意義なひと時であったような気がする。 |一覧| |