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一夢庵の怪しい話・第3~4シーズン

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2010.06.25 楽天プロフィール Add to Google XML

カフェの女給
[ 教育・職業 ]    

一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第834話 「カフェの女給」

 珈琲は、アラビア圏では起源が定かでは無いくらい、ずいぶんと昔から飲まれているようですが、長らく、現在のイスラムの国々で定番の飲料だったようです。

 逆に言えば、欧羅巴に伝わったというか欧羅巴でもそれほど苦労せずに飲めるようになったのは、大航海時代の到来で欧羅巴諸国の国力が次第に増大し、新航路を利用した東方貿易が本格化していった流れと無縁では無いようで、17世紀頃になります。

 その後、日本に18世紀後半に伝来しているあたりから考えて、長崎出島における、いわゆる長崎貿易の交易品の一つになっていたのではないか思われますが、当然、”薬”扱いとなったようです。

 明治になってからは、東京に日本橋に洗愁亭(1886)が、上野に可否茶館(1888)が開店したのが、日本における珈琲店の始まりというのが定説です。

 もっとも、カフェということになると、明治44(1911)年にオープンした”ライオン”と大正元年(1912)にオープンした”タイガー”が本格的なカフェの始まりと言う説があります。

 実際、珈琲がある程度庶民にまで知られるほど普及したのは大正に入ってからだったようで、珈琲には大正浪漫の香りなのかもしれません ・・・ 私見ですが(笑)。

 さて、それこそ、文明開化の音がするとか、カフェで珈琲を飲む事がハイカラの象徴だった時代もあったのに、それが妙な方向へ突っ走るようになっていくのが関東大震災(大正12(1923)年)以降というか、昭和に入って昭和恐慌(金融恐慌:昭和2(1927)年、世界恐慌:1929)が昭和5(1930)年に本格化したあたりからで、後にノーパン喫茶を産み出す土壌はその頃からあったということになります。

 早い話、風俗産業と結びついた新形態のカフェが爆発的に広がったのですが、一応、昭和5年に北新地で開業した”ベニア”が皮切りという説が支持されていて、”接吻カフェ”として大繁盛すると、類似というか模倣店が急激に増加したそうです。

 そうした場合、後発の店が先にお客を確保している店から客を奪うために行うことは、今も昔も大差が無かったようで、より過激なサービス、目立つ宣伝、低料金といった具合に、あれこれ工夫が凝らされたようです。

 かくして、大阪で”風俗カフェ”とでもいった営業形態は数年でカフェの主流となり、昭和6年頃には、店舗数で3000軒以上、女給というか女性従業員は1万2千人以上に達していたようで、ここにおいて劇的な変質が起こったと言えます。

 もちろん、東京でも”風俗カフェ”に潜在的なニーズはあったようで、それほど間を置かずに大人気となって急増し、昭和7年の資料で、軒数で8000軒以上、女給の数で1万8千人を超えていた事が推察できます。

 ただ、こうなってくると、大正の頃までのカフェの女給が現在のウエイトレスに近い存在だったとすれば、風俗カフェの女給は現在のホステスやキャバ嬢とも違い、なによりキャバ嬢には(一応)店から給料が出ていることを考えると、当時の女給が職業と言っていいのかどうかさえ謎になってきます。

 なぜなら、当時の風俗カフェの女給に店から給料は出ず、客からチップだけが収入源だったためですが、厳密には、逆に雑費や食費を女給から徴収した店も珍しくなかったそうですから、いわゆる”出会い系喫茶”などの方が実態に近いのかもしれません。

 もちろん、珈琲を提供する事よりも風俗の方が主なサービスになってくると、カフェの女給と街娼にそれほどの差が無くなっているわけですから、堅気のお嬢さんの職業とはととても言えなくなりまして、現在でも、夜の街で働く女性達を”夜の蝶”と呼ぶ事があるのも、この頃の名残だったりします。

 風俗カフェはそれまでのカフェと違って深夜営業にも対応する店が多く、麦酒や簡単な食事なども出してお酌もした店もあったようですから、従来のカフェとはほとんど別物になってしまっているのですが、それでもカフェと名乗った理由として考えられるのは、当時は公娼制度の時代だったということではないかと。

 つまり、公娼制度下の既存の風俗店が江戸時代の吉原に相当するとすれば、風俗カフェというのは岡場所や宿場の飯盛り女に近い存在ということで、限りなく黒に近いグレーゾーンの存在だったのではないかと。

 逆に言えば、既存の法律で規制されている風俗産業と同じようなことをして遊んでも、安価で手間が掛からなかったからこそ、風俗カフェが急伸できたのではないかということです。

 もちろん、カフェだと主張するために店の女性の服装が昔ながらの女給の格好にする事が多かったと考えられますが、その意味では、風俗コスプレの元祖も風俗カフェになるのかもしれません。

 ちなみに、一般的なカフェの女給の服装というと、茶屋の娘の前掛けの代わりに大きめのエプロンをしたという説があるのですが、和服の上に大きな白いエプロンをして、そのエプロンの紐は大きく蝶結びにするのが御約束になっていたのですが、特徴とされた大きな蝶結びと深夜営業にも対応しているところから”夜の蝶”と言う呼称が広まったとされています ・・・ 誰が言いだしたのかは定かではありませんが。

 んが、昭和8年頃になると、昭和恐慌の混乱も次第に収まり始め、ぼちぼち軍靴の音も聞こえ始める御時世となり、昭和10年頃には急速に店内で風俗サービスを提供するカフェは減少していったようです ・・・ まあ、女給達が店の外で何をやっていたかは定かではありませんし、酒は引き続き提供する店が多かったようですが(笑)。

 此の辺り、昭和恐慌の経済混乱で物価が下落というか崩壊し、風俗産業も安価なものでないと生き残れなかった時代に風俗カフェが誕生し、経済の持ち直しによってまた業態が変わっていったという解釈でもいいのでしょうが、それ故に、国内でも時差があったという話があります。

 つまり、地方で都市の風俗カフェの噂を聞きつけた地方在住者が、既に都市部では店内で風俗サービスをしなくなっていたにも関わらず、東京や大阪などに行ったときに、噂に聞いた(或いは過去に経験した)サービスを強要して店側と揉める光景がしばらく生じていたということで、遊び慣れるというのは当時からなかなか難しいことだったようです。

 で、昭和初期の風俗カフェ以前の女給達がどれくらい稼いでいたのか?というと、チップが1回に50銭から1円というあたりが相場だったそうで、個人差は当然あったでしょうが、チップだけの月収で30~50円、年収で400~500円くらいになっていた人が多かったようですが、当然、水商売価格です。

 当時は現在よりも遙かに過酷な格差社会だったのですが、同じ頃の一世帯あたり平均年収が約800円、平均的なサラリーマンの年収が1400円前後、大企業の課長クラスで年収1万円程度で、昭和8年頃の大衆食堂の昼の定食で25銭、明治屋(菓子店)の喫茶部門の珈琲で10銭。

 なお、昭和初期の東京のスラム街の1日の食費は7銭が相場で、1世帯の平均月収が15円程度だったという話は3-783”残飯屋”の回などで既に書いたのですが、当時の紡績工場などで働く同世代の女工と比べても、それほどカフェの女給が悲惨な職業と思えないあたりが昭和初期という時代の怖いところからもしれません。

 まあ、その辺りは21世紀の日本の社会でも大差が無い事なのかもしれませんが。

初出:一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第834話:(2010/06/19)


Last updated  2010.07.09 06:10:29
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