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マは漫画のマ 第77回 「きまぐれオレンジ・ロード」 まつもと泉(まつもと・いずみ)
まつもと泉は極めて寡作な漫画家で、長編となると”きまぐれオレンジ・ロード”しか描いていないのですが、その原因が4歳の時の交通事故が原因の脳脊髄液減少症(低髄液圧症候群)であることが判明(2004/07)するまで地獄を見たのではないかと思われます。 未だに、脳脊髄液減少症の認知度は低く、体調不良を訴えても通常の検査だと原因不明と診断される事が多いだけに、中にはサボリの言い訳だと曲解して責め立てる人も珍しくないのですが、そうした光景は、例えば、ぎっくり腰を経験した事が無い人がぎっくり腰で動けなくなっている人に”何を大げさな ・・・”と上から目線で言い放つ光景ととても良く似ています。 私的には、”鬱”と診断されている人の中にかなりの割合で脳脊髄液減少症の人が誤診されているのではないか?と疑っているのですが、そうなると、鬱を前提として投薬や治療をしても改善しないで時間だけが経過する事が多いだけに、脳脊髄液減少症の存在を政府や医療関係団体はもっとPRすべきではなかろうか? それはさておき、”きまぐれオレンジ・ロード”に話を戻すと、この作品が週刊少年ジャンプに連載されていたのは、1984年15号から1987年42号までで、途中で長期休載した関係で全156話で本編は完結しています。 ただし、その後、157話「パニックin 銭湯!の巻」がスーパージャンプ(1996年10号)、158話「ほんでもって とーめー恭介!の巻」(週刊プレイボーイ1999年44号)が掲載されるという異例の扱いを受けた作品でもあり、いかにファンに愛された作品であるかはそのあたりでも分かるのではなかろうか? これまでの”マは漫画のマ”でも書いているように、”みゆき(あだち充:1980~1984)”に端を発する少年漫画における少女漫画の文法や技法を使ったラブコメ(いわゆる軟派路線)作品は、従来の少年漫画業界(いわゆる硬派路線)に地殻変動を起こしていったのですが、その頃から”週刊少年サンデー(小学館)”が軟派路線に舵を切ったとすれば、当時、硬派路線だった”週刊少年ジャンプ(集英社)”は判断不能の状況に追い込まれていたと言えます。 当時の週刊少年ジャンプの編集部において、ラブコメ軟派路線に理解を示していた編集者は約2名だったというのが定説ですから、漫画家の方からラブコメ作品が描きたいとは言い出しにくい雰囲気であったとは思われますし、たまたま、理解がある2名の編集者の内の一人が、まつもと泉の担当に付かなければ、果たしてオレンジ・ロードが世に出たかどうか?は微妙な話になるようです。 なにしろ、当時の週刊少年ジャンプで(ポップ調の絵柄にテンポの良い話の展開などなど)一番ラブコメに近いところにいた江口寿史をして”ストップ!!ひばりくん!(1981~1983)”は当時、他誌で勃興してきた新興勢力であるラブコメ路線へのアンチテーゼという言い方をしていたくらいですから ・・・。 それでいて、”きまぐれオレンジ・ロード”の絵柄などが当時の週刊少年ジャンプで誰に一番近かったか?といえば、ポップ調というかアニメ絵を週刊少年ジャンプで本格的に(意図して)導入していた江口寿史であり、仮に江口寿史が”ストップ!!ひばり君!”で迷走して潰れていなければ、これはまた別の意味でオレンジ・ロードが世に出れたかどうか微妙な話になるような気が(私は)します。 しかしながら、歴史は”まつもと泉”を選んだわけで、彼の表現方法は、アシスタントをしたことのある萩原一至や岡崎武士と本田将などに影響を与えて大なり小なり継承され、さらにそうした第2世代が世に送り出した作品によって、少年漫画は更なる地殻変動を起こしていくことになったのですが、そのあたりは又別の機会に。 オレンジ・ロードの幸運は、雑誌連載の終盤から放映が始まったTVアニメ(1987/04/06~1988/03/07:全48話)が原作の世界観をそれほど壊さずにアニメ化に成功したことがあったと思うのですが、逆に、TVアニメの成功は、オレンジ・ロードの世界を侵食というよりも破壊していくことになる、奇妙なOVAや映画作品を世に送り出すことにも繋がってしまいます。 その辺りは、 第1作目の劇場版アニメ”あの日にかえりたい(1988/10/01)”に関して、作者が自らのウェブサイトでも「原作から離れたパラレルワールドと考えてほしい」と評したあたりで察していただきたいのですが、魅力的な素材だけに、映画関係のスタッフが、あれこれつついてみたくなったのか、仕事だからと嫌々つついてグジャグジャにしてしまったのか? ”みゆき”にしてもオレンジ・ロードにしても、当時の漫画原作に対してどこか上から目線でモノを言っている当時の映画関係者は珍しく無いのですが、少なくとも当時の邦画作品の水準から考えると、既に邦画が漫画にいろいろな意味で置き去りにされていた時代だったのは確かな話です。 というか、オレンジ・ロードのオープニングでもある、100段階段の途中で空飛ぶUFOを主人公の春日恭介がキャッチして、ヒロインの鮎川まどかと初めて遭遇するシーンなどは、当時の読者の頭の中では、見事な総天然色カラーの映像に翻訳置換されていたと考えると、読者の感性が従来の映像関係者を越え始めた時代だったのかもしれません。 興味深いのは、平井和正が闘病中に、高橋留美子の”めぞん一刻”の音無響子の姿に菩薩を重ね、”きまぐれオレンジ・ロード”のTV再放送を見て”最高のラヴストーリーを書きたい”と思ったことでしょうか? かくして、超能力一家の長男と妹たち。主人公が出逢う不良少女とその妹分。といったオレンジ・ロードの中核設定に、24歳でこの世を去った夭折の詩人”立原道造”の詩編を世界観の象徴として、オリジナルのオレンジ・ロードである”ボヘミアンガラスストリート”が創出され(1994)ることとなったのですが、本作を読むと、いかにOVAや映画のシナリオが本筋というか芯の部分を捉えていないかが見えてくるのではありますまいか? ちなみに、この作品は1994年にアスキーからパソコン通信ネット10社から配信され、デジタルノベルの先駆けというか、平井和正を電子出版の先駆者として歴史に名を残させることになった記念碑的な作品にもなっています。 奇しくも、まつもと泉も漫画製作にPCを本格的に導入して一定の成果を残した先駆的な漫画家として知られていますから、オレンジ・ロードは時代がアナログからデジタルへと移り変わっていく時代の変革を告げる作品になっていたのかもしれません。 これを書いている時点で、やっと世の中が”電子出版”というものに現実味を感じ始めているわけですが、その胎動が始まった オレンジロードから四半世紀、ガラスストリートからでも15年以上が経過しているわけです(笑)。 なお、私的にはですが、オレンジロードの後日談というのは、ガラスストリートのエンディングの方がしっくり来ることから、勝手に頭の中で置換して楽しんでいます(大笑)。 漫画の内容に少し触れておくと、超能力一家である”春日家”の長男で中学生3年生の春日恭介は、父の隆と双子の妹(まなみ、くるみ)の4人家族なのですが、自分や妹の超能力が世間様にバレるたびに転校を繰り返していて、物語は7度目の転校で引っ越した街を恭介が散策するあたりから始まります。 100段階段と呼ぶことになるやたらと段数の多い階段を上っていた恭介は赤いUFOを目にし、咄嗟にジャンプしてキャッチするのですが、それがヒロインの鮎川まどか(初登場時、高陵学園中等部3年)との出会いとなり、しばらく後に、鮎川の妹分で高陵学園中等部1年の”檜山ひかる”が恭介にひと目惚れしてしまい、いささかややこしくも奇妙な三角関係が形成され、物語は進んでいきます。 恭介の超能力は多岐に渡る上にかなり高度なレベルで発揮されるのですが、今ひとつコントロールに難がありますし、物語の終盤で鮎川に”私を月まで連れてって”とおねだりされても叶えることはできなかったようです(笑)。 このあたり、時期的に「私を月まで連れてって!(竹宮恵子:1977~1987)」をまつもと泉が読んでいたから鮎川が唐突に月へ行きたがったのではないか?という疑惑は、マは漫画のマの第31回”「私を月まで連れてって!」”の回でも書いたのですが、別の視点では、やはり恋人に言えない秘密をてんこ盛りで抱えていた”キャッツアイ(北条司:1981~1984)”の来生瞳と内海俊夫の関係の裏焼きになっている気がしないでもありません(邪推)。 逆に、ヒロインの麦わら帽子が風にとばされて主人公がキャッチするネタは、後に、”ハヤテのごとく!(畑健二郎:2004~)”のギリシャ過去編でも採用されたわけで、今となってはオレンジ・ロードも古典の名作ということなのかもしれませんが、私的には、この漫画もまた”夏の日のあの時”に帰る事ができる漫画の一つだったりします(遠い目)。 (2010/07/25):マは漫画のマ 第77回 「きまぐれオレンジ・ロード」:書き下ろし。 │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |