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あきやん2818の日記 [全1247件]

May 24, 2012楽天プロフィール Add to Google XML

仏法トピックス-7
[ 佛教♪ ]  


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 では、仏法の学習プログラムの集約された『安般念経(アンパンネンキョウ)』あるいは、『出入息念経(シュツニッソクネンキョウ)』、パーリ原典「アーナーパーナサティ・スッタ」全訳 Anapanasati-Sutta(Majjhima Nikaya No118)について、井上ウィマラ氏による『呼吸による気づきの教え』から抜粋したいと思います。

「アーナーパーナサティ・スッタ」

 私は、このように聞きました。 あるとき幸いなる人は、サーヴァッティーの東の園にあるミガーラの母の精舎(ショウジャ)に、多くのよく知られた高弟(コウテイ)たちと共に過ごしていました。 サーリプッタ尊師、マハーモッガラーナ尊師、マハーカッサパ尊師、マハーカッチャーヤナ尊師、マハーコッティタ尊師、マハーカッピナ尊師、マハーチュンダ尊師、レーワタ尊師、アーナンダ尊師、その他のよく知られた高弟たちと一緒におられました。

 そのとき、長老の修行者たちが教え導いていました。 10人の修行者たちを教え導く長老の修行者もいれば、20人、30人、40人の修行者たちを教え導いている長老もいました。 新参の修行者たちは、長老の修行者に教え導かれ、以前にもまして崇高で優れたことがらを知るようになっていました。

 そのとき幸いなる人は、15日目のウポーサタの日、パワーラナ儀式の行われる満月の夜、修行者たちの集いに囲まれて野外に坐っていました。 静まり返った修行者たちの集いを見渡しながら、幸いなる人は修行者たちに語りかけました。 「修行者たちよ、私はこの修行に満足しています。 この修行に、心の底から満足しています。 ですから、まだ得ていないものが得られるように、まだ達していない境地に達するように、まだ悟っていないことを悟れるように、さらに努力しなさい。 私は、このサーヴァッティーで(みんなを励ますためにあと1ヶ月)雨季の4番目の月である白水蓮(ビャクスイレン)の月を過ごすことにしよう」

 地方にいる修行者たちは、「幸いなる人は、雨季の4番目の月である白水蓮の月をサーヴァッティーで過ごされるようだ」ということを聞いて、幸いなる人に会うために、サーヴァッティーに向けて旅立ちました。 それから長老の修行者たちは、さらに力を入れて新参の修行者たちを教え導きました。 10人の修行者たちを教え導く長老の修行者もいれば、20人、30人、40人の修行者たちを教え導いている長老もいました。 新参の修行者たちは長老に教え導かれ、以前にもまして崇高で優れたことを知るようになりました。

「理想的なサンガ」

 さてそのとき幸いなる人は、15日目のウポーサタの日、雨季の4番目の月である白水蓮の月の満月の夜、修行者たちの集いに囲まれて野外に坐っていました。 静まり返った修行者たちを見渡して、幸いなる人は彼らに話しかけました。 修行者たちよ、この集いには無駄口がありません。 無駄話をしません。 清らかで、真髄に達しています。 この修行者のサンガはそのようになっています。

 贈り物をするに値し、歓待に値し、供物(クモツ)を捧げるに値し、尊敬するに値し、世間の人々が功徳(クドク)を積む最上の福田となる衆(シュ:生命のあるすべて)があります。 この修行者の集いは、このサンガは、そのようなものです。 わずかな贈り物をしてもそれが大きな福利を生み、大きな贈り物をすればさらに大きくなるような衆があります。

 この修行者の集いは、このサンガは、そのようなものです。 世間では見難い衆があります。 この修行者たちの集いはこのサンガはそのようなものです。 会うために食料を携えて遠距離を行くだけの価値のある衆があります。 この修行者たちの集いは、このサンガはそのようなものです。

「悟りの段階」

 この修行者のサンガには、漏れ出る煩悩(ボンノウ)が枯れ尽き、よき人生を全(マット)うし、為(ナ)すべきことを為し終え、重荷を降ろし、自己実現を達成し、生存への束縛(十結:ジュッケツ)が断ち切られ、正しく理解し、解放された阿羅漢(アラカン)の境地に達した修行者たちがいます。

 この修行者たちのサンガには、下方に結びつける五つの束縛(五下分結:ゴゲブンケツ)が断ち切られ、両親を必要とせずに清らかで微細な世界に瞬時に再生し、そこで完全なる解放を実現する、その世界からもはや後戻りすることのない(不還:フゲン)境地に達した修行者たちがいます。

 この修行者たちの集いの中には、三つの束縛が断ち切られ、貪欲(トンヨク)と怒り(瞋:シン)と迷妄(メイモウ=痴:チ)とが弱まり、一度だけ帰ってくる人、この人間世界に一度だけ帰ってきて苦しみを終わらせる(一来:イチライ)境地に達した修行者たちがいます。

 この修行者たちの集いの中には、三つの束縛が断ち切られ、聖者の流れに入り、苦悩の生存状態に陥ることなく、必ず自ら悟りを開く方向が定まった(預流:ヨル)境地に達した修行者たちがいます。

[用語解説]

*十結:samyojana=五下分結(ゴゲブンケツ)+五上分結(ゴジョウブンケツ)

 結(ケツsamyojana)とは、パーリ語で「結びつけること」を意味する。 結は、私たちを現象の世界に縛りつける軛(クビキ)のことであり、涅槃に到達するためには、これらの煩悩を1つずつ滅ぼしていく必要がある。 *結・結使(ケツ・ケッシ)=迷いの世界に結びつけるもの。 煩悩(ボンノウ)の異名。

1.有身見(ウシンケン)=有身結(ウシンケツ sakkaya-ditthi)

 有身見(ウシンケンsakkaya-ditthi)の有身sakkayaとは、パーリ語で、実体として何かがあるということを意味する。 見ditthiは概念、見解のこと。 有心見とは、「私」という概念が実体のあるものだと顛倒(テントウ)し、身体や心が自分のものだと勘違いしてしまうことである。

2.疑(ギ)=愚痴結(グチケツ vicikiccha)

 疑(ギvicikiccha)とは、道理を理解せず、頑固に不信感を募らせるような心の状態のこと。 正確な情報や、論理、根拠もなく、無闇と人を疑ってかかるような性格を指して言う。 疑は、法(ホウdhamma)に対して疑惑を持つことだが、10の結(ケツsamyojana)の中では疑を「1.過去・現在・未来に対する疑」「2.因果法則に対する疑」「3.修行方法に対する疑」の3種類に分け定義している。 1.過去・現在・未来に対する疑-実体として存在しない時間を、実在するように考えたり、時間という概念に対していろいろと妄想(モウソウ)し、不安を抱くこと。 2.因果法則に関する疑-原因と結果という因果法則は、成立しないのではないかと疑いを持つこと。
3.修行方法に対する疑-自分が現在サンガや師から指導されている修行方法が、間違っているのではないかと疑いを持つこと。

3.戒禁取(カイゴンジュ)=戒取結(カイシュケツ silabbata-paramasa)

 戒禁取(カイゴンジュ:silabbata-paramasa)のsilaは、パーリ語で戒、戒めを意味する。 戒禁取とは、特定の戒や儀式、習慣に執着すること。 社会の習慣や文化、儀礼に対してとらわれの心を持ち、執着することを指す。 儀式や儀礼に執着する気持ちは、前近代の人間に特有のものと思われがちだが、実際には現代人も各個人特有の奇妙な習慣を持っているため、この煩悩にも十分注意する必要がある。

4.欲愛(ヨクアイ)=欲貪結(ヨクトンケツ kama-raga)

 所縁(対象)からの情報に快楽を感じ、執着すること。
 性欲、美食、音楽への欲などの、低次元的な欲。

5.激怒(ゲキド)=瞋恚結(シンニケツ/シンイケツ vyapada)

 気に入らないものへの強烈な嫌悪や怒りのこと。 少し機嫌が悪くなるというレベルではなく、暴力を振るう、怒鳴るなどの強烈な怒りを伴う。

6.色貪(シキトン rupa-raga)

 欲界心(ヨクカイシン=物質世界)の上のレベルの心の次元=色界(シキカイrupa-loka)に対する執着や欲望。 神通力のエピソードはこの世界。

7.無色貪(ムシキトンarupa-raga)

 無色界(ムシキカイ arupa-loka=物質にまったく依存することなく活動できる状態に達した心)に対する執着や欲望。

8.慢(マン)mana

 「私が存在する」という実感から、自分を基準にして他者と比べるはたらき。 驕(オゴ)り高ぶること。 六門によって認識した情報を顛倒し、自己が実在すると妄想することにより、他の生命に対し傲慢(ゴウマン)な気持ちを抱くこと。

9.掉挙(ジョウコ)uddhacca

 落ちつきが無く、焦る性格のこと。 心が落ちついていない、混乱状態。 あがっている状態。 認識能力が鈍く、物事をしっかりと認識できないこと。

10.無明(ムミョウ)avijja

 あらゆる煩悩の源となる煩悩。 煩悩の王者であり、大本。 自らの生が何につき動かされているかについて無自覚なこと。 自分の行為にまったくと言っていいほど気づきがないこと。 智慧の反対のもの。 無明(ムミョウavijja)を原因として、貪(トンlobha)、瞋(シンdosa)、痴・癡(チmoha)も生ずる。 無明が消滅すれば、全ての煩悩は絶たれることになる。

*******************************

 今から約2600年前の話で、歴史的には16大国が群雄割拠し、いつ大国に滅ぼされるかもわからない時代・・・

 人々はカースト制度にとらわれ、男女同権など夢の又夢のような時代に、性別を超えて、このような心の修習が行われていたことや、仏教徒たちの生死をかえりみない「悟り」に対する真摯な取り組みについて想像すると、個人的ではありますが、感動してしまいます。

 お釈迦様による導きのもと、誰かに言われたからでもなく、自主的に、自らの心を静かに深く見つめる真剣な修行者たちのあり方や態度は、まさに心の静寂へと着実に向かっているように思います。

 現在の私達のように恵まれた環境ではなかった、あるいは心を惑わす情報や媒体が少なかったからこそ、修行者達が、各人の内なる修行に命がけで向かう覚悟ができていたのかもしれません。

 しかし、もしそうではあったとしても、お釈迦様が提示された「悟り」あるいは「覚り」の境地は、心を不動な状態へ、一人一人の心を確かに導いていく純粋かつ静寂・真の自由の名にふさわしい心の状態を、現代の私たちにも教えてくれているような気がします。


Last updated May 24, 2012 09:19:03 AM
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May 19, 2012

仏法トピックス-6
[ 佛教♪ ]  



 「仏法トピックス」ということで、私自身が仏法を学ぶうえで重要だと感じるところを気ままにご紹介しています。 しかし、実のところ仏教という膨大な学問・修習・哲学・心理学・論理学、そして宗教体系についてどこから始めたらよいものか途方にくれています(笑)

 また、仏法をいかに現実面で活用したらよいのかということが、私自身のテーマであるため、特に仏法における心理学的な面や、キネシオロジーとどのように関連づけていくかということについても、まだしっかりと自分自身の中でまとまっていません。

 しかしながら、海外における仏教の心理学における研究や、日本でも素晴らしい学者・研究者・実践者も数多くみえるので、そのような大先輩の方々から学び、実践し、理解を深めていきたいと思います。

 さて今回から、『出入息念経(シュツニッソクネンキョウ)』の中で説かれている、「仏教における学習(修習:シュジュウ)プログラム」のような内容をご紹介したいと思います。 『出入息念経』の中では、三十七菩提分法(サンジュウシチボダイブンポウ)という法が説かれています。 この経では、仏教において何を具体的に学んだらよいかのエッセンスがまとめられています。

 今回はまず、その全体像をチャートにてご紹介したいと思います。



Last updated May 19, 2012 9:12:28 PM
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May 16, 2012

仏法トピックス-5

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 さて、『出入息念経(シュツニッソクネンキョウ)』の話が出たところで、「仏教において、具体的にどのような学習(修習:シュジュウ)プログラムがあるのか!?」という内容がわかると、仏教における自己開発が私たちの生き方、日常生活の面で、どのように役立つのかわかるかもしれません。

 『出入息念経』の中では、三十七菩提分法(サンジュウシチボダイブンポウ)という仏法における学習プログラムが説かれています。 しかし、その前により大きな真理の法である「仏教の要諦と心髄」について復習しておきたいと思います。 というのも仏法は、つねに大きな原理・法という根幹があり、その法に基づき、枝葉の法があるからです。 

 ですから、どのような仏法を学ぶにしても、大原理を常に意識しながら、細部の法について学んでいく必要があると思います。 

 それでは、以下、ポー・オー・パユットー氏による『テーラワーダ仏教の実践*サンガ』の中から「仏教の要諦」をまとめた内容と、「仏教の心髄」について抜粋しながら解説したいと思います。 

 仏教の僧侶は、仏教の要諦について様々な言葉で語られることがあります。 例を挙げてみますと・・・

(1)「諸悪莫作(ショアクマクサ) 衆善奉行(シュゼンブギョウ) 自浄其意(ジジョウゴイ) 是諸仏教(ゼショブッキョウ)」
「一切の悪をなさず(戒:カイ)、善を行い(定:ジョウ)、心を浄む(慧:エ)」は、四聖諦(苦・集・滅・道)における「道」にあたり、「これが諸仏の教えである」が結論であり、仏教の真の内容はここにあると理解される。 仏教のすべての実践部の面、実行の部門、生き方の面、あるいは、初歩の段階、仏教の要諦へと導く序説のようなものとしてして語られる。

(2)「比丘らよ。 我らは前世でも現世でも、苦の生起(ショウキ)と苦の滅尽(メツジン)をのみ定め教示する」

(3)「われが證得(=証得ショウトク:真理に到達すること、悟りを開くこと)したダンマ(法)は、難解である。 すなわち、一つは此縁性(シエンショウ)・縁起(エンギ)、二つは涅槃(ネハン)である」

(4)「一切法は執持(シュウジ)すべきではない」

(5)「仏教の要諦は苦(ク)、集(ジュウ)、滅(メツ)、道(ドウ)の四聖諦にある。」 なぜならブッダの教えのすべてが四聖諦にあるから。

 簡単にまとめますと、(1)は仏教における生き方・実践面を語る導入であり、(2)は四聖諦の原理を、苦(此縁性・縁起)と苦の滅尽(涅槃)という2つに集約して述べたもので、(3)も四聖諦の内容を2つのまとめたものです。
 (4)は自然界の法則としての縁起・因縁の法は、「無常・苦・無我」という性質があるため、執着しようとしてもできないため、法の性質を知りなさいという内容だと思います。

 そして、つまるところ(5)の四聖諦(シショウタイ)と呼ばれる4つの聖なる真理を学び、知り、実践し、体得することが仏教の要諦であり目的だということです。

********************************

 「仏教の心髄」については、ブッダが『心材喩大経:シンザイユダイキョウ(Mahasaropama-sutta)』という一つの経典の中でまとめられています。 その経の中で、最勝の生き方(Brahma-cariya)、梵行(ボンギョウ:仏道の修行)が、様々な構成要素を持つ樹木に喩えられます。

(1)利得恭敬:リトクキョウケイ(仏法の因果の法則や慎むことを学び得て)それだけで放逸になれば、芯材を求めながら、小枝、木の枝葉を得た者。

(2)戒:カイ(身体の行為を浄くする方法を得て)それだけで放逸になれば、芯材を求めながら、木片を得た者。

(3)定:ジョウ(心を浄くする精神統一の法を得て)それだけで放逸になれば、芯材を求めながら、樹皮を得た者。

(4)慧:エ(真理を知る智慧を得て)それだけで放逸になれば、芯材を求めながら、辺材を得た者。

(5)解脱:ゲダツ(何者にも束縛されない自由な境地である涅槃を得て)放逸にならなければ、不動心解脱、すなわち、芯材に到達する。

 以下、そのまま抜粋しますと・・・

 ここで仏教の心髄に到達しました。 解脱して自由になるということは、最後に述べた原理と一致することです。 自分に頼れるように自己開発し、自由になり、最後には心と慧において自由になることです。 私たちは他人に頼ります。 例えば、ブッダに頼るのです。 それは(自分が)自分に頼れるようになるためなのです。

 ブッダは私たちが自分に頼れるように助けてくれるのです。 目標は自分に頼り自由になることです。 そうして、仏教の原理は最高の心髄に到達します。
 すなわち、解脱して、自由になることです。 仏教の心髄はこの点に尽きるのです。 最初は行為の自由、それは社会から自由である行為を意味します。
 強制され迫害されることなく、なんでもできて、なんでも喋れることです。 しかし、同時に煩悩(欲念)のない心から生じた行為でなくてはなりません。 それでこそ、真に迫害のない自由です。 真の自由は、行為ではなく心と慧の状態なのです。 完全な自由とは、すなわち慧の自由です。  行為については、ブッダは別々に分かれた形での、各自がバラバラの自由を教えておられません。 行為については、利得恭敬の多くを含む外部のものに依存することを覚識されて、ブッダはお互いに依存し合い、物や労力などで助け合うことを望まれているのです。 しかし、それは小枝、木の枝葉と同じで、助け合う要素にすぎず、心髄ではありません。
 この外部の人と関わる行為については、他人に頼られ、同時に他人に頼るのです。 社会を相互に頼れる種類のものにするのです。 各自、他人が頼ることのできるものを持って、お互いが善友(ゼンウ)になれるようにするのです。 めいめいが助け合い、社会を幸せにするのです。 そして各自が心と慧の面で、真に自分に頼る自由を得るために、各自に三学で開発できる機会を持たせるのです。 このような社会が善き社会でしょう。 僧侶の律を、ブッダが定めたことに従うサンガでの生活で見ていただきたいのです。 このことがはっきりとわかるでしょう。

 ブッダは形式を定められました。 サンガの社会は、各人が心と慧の面で自由を持つように、自己開発に精進する模範となる社会です。 行為の面の生活とは、お互いに依存し助け合うことです。 それは、なすことなく援助を受けるのを待つだけの相手を助けることではありません。 お互いに助け合って、(社会を)前進させるのです。 心と慧の自由を得た人間だけが、このような社会の創造ができて、このような社会で善く生きていくことができるのです。

 「仏教の心髄」について、「生きるための法の原理」までお話ししました。 本当はまだ話したいことが二つ、「社会のための法の本質」と「世のための法の本質」がありますが、時間の関係があるので、これで終わらせていただきます。

********************************

 以上、かなり同じ内容を繰り返しブログで書いていますが、仏教の肝と呼んでもよいところなので、少しずつ言葉を替え、内容をつけ足しながらご紹介することにしています。

 次回は、『出入息念経』の中で説かれている「三十七菩提分法(サンジュウシチボダイブンポウ)についてご紹介したいと思います。



Last updated May 16, 2012 6:51:52 PM
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May 12, 2012

仏法トピックス-4
[ 佛教♪ ]  

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 数日前より、『パーリ仏典入門*片山一良著*大法輪閣』のなかで、ヴィパッサナー(観:カンの)瞑想と関係が深い『大念処経(ダイネンジョキョウ)』のところをまとめていました。

 ところが、同名で目次をつくっていたところ、保存するとき誤って保存してしまい、入力したファイルが消去されてしまいました・・・

 そこで昨日は、そのショックで「あうぅ・・・」となりましたが、「これはここのところをもっとしっかり身につける必要があるために起こった・・・」と自分に言い聞かせ、気を取り直して、再入力していました。

 このへんのマメさが、いい意味でのこだわりであれば、よいのですが・・・

 それはさておき、お釈迦様が覚(サト)りを開かれたときに用いられた瞑想である『ヴィパッサナー(観の)瞑想』は、どのように修習したらよいのかチャートにしまとめたので、みなさまも参考にして頂ければと思います。

 仏教では、人間という存在を五蘊(ゴウン:5つの集合体)としてとらえています。 五蘊とは「色(シキ)・受(ジュ)・想(ソウ)・行(ギョウ)・識(シキ)」と呼ばれるものです。

 「色(シキ)」とは、「色(イロ)と形あるもの」つまり、私たちの肉体も含めた物質的な構造をもつものです。 色には外側にある物質世界と私たちの身体という内側の構造も含まれます。

 「受(ジュ)」とは、身体外側の対象が身体における五官の各器官と接触する時に生まれる「感覚・感受作用」です。 その身体が感じた感覚の状態により、「楽(ラク)、苦(ク)、非苦非楽(ヒクヒラク:楽でも苦でもない感覚)」、また身体が楽を感受し、心が「喜ぶ」か、苦を感じ「憂い」を感じるか、喜びも憂いのどちらでもない「捨(シャ)」を感じるかという6つの状態に分類され、それを感じる作用です。

 「想(ソウ)」とは、身体が感覚を受け、外側の対象に関して、記憶し、概念化し、それに対する印象を想起・想念し判断する作用です。

 「行(ギョウ)」とは、記憶・概念化・想起された対象に対して、何らかの行動を起こそうとする意思作用です。

 「識(シキ)」とは、五官と心を通じて、対象を認識する心の主体です。 つまり、見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、身体で触れた情報が心に触れ、対象を知る作用です。

 仏教の論蔵ではこれら五蘊を、「色」(物質・肉体)的機能と、色が心に入り込み、溶けこむ作用として心所(シンジョ)としての「受・想・行」、それらが自覚される心の主体としての「識」という機能に分類し、自己あるいは存在の状態を機能的にとらえています。

 特に人間の場合、外側の対象と内側の五官が接触し、受が生じたあとに、想念作用に「好き・嫌い」という感情的な作用がくせ者であるということができます。

 多くの方が、この身体を基準にした動物・本能的な自己防衛作用として感覚を感じ、それによって生まれる想念自体を「あるがまま」と考えられている傾向があるように思います。

 仏教における「あるがまま」に知ることとは、好き・嫌いというリアクション(反応)が起こった時、その瞬間をとらえ、それによる感想としての想念を加えずに、「貪(トン:むさぼ)り」、「瞋(シン:怒り)」などが生じたと、批判なく観察したり、 また「無知」、無意識的に反応し続けている状態から、刹那刹那に自分が行っていることのすべてに対して、「今の心=念(サティ)=気づき」を入れ、無知・無明の状態を克服することが、その本来の目的でもあります。

 そのようにして、自己と呼ばれる五蘊の各要素などを観察し続け、それらの各要素が、自然界における「無常・苦(不安定)・無我」から一歩も抜け出していないことを自覚します。 そして、そのような気づきに導かれることで、現象や存在性への執着が断ち切られ、心がそれらを渇望する状態から離れたとき、はじめて心が真に自由な境地(涅槃)を体験することになるということです。 それがヴィパッサナー瞑想の実践であり、物事をあるがまま(如実)に観る方法です。  

 特に、私たちは物事、現象世界を「ありのまま(如実:ニョジツ)」に知るのではなく、感じるままに妄想の世界を彷徨(サマヨ)いがちです。

 そこでまず私たちは、「ではどのようにして現象世界をありのままに観察したらよいのか?」という方法を知る必要があります。

 そのことが書かれている経典が、『大念処経(ダイネンジョキョウ)』と『出入息念経(シュツニッソクキョウ=アーナーパーナサティ・スッタ)』です。




Last updated May 12, 2012 11:07:54 PM
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May 11, 2012

仏法トピックス-3
[ 佛教♪ ]  



 今日は、『図解ブッダの教え*西東社』をパラパラと興味のおもむくまま、基本的な言葉の意味や、読み方などがわかりにくいものに注意しながら読み直していました。

 その中で、ブッダが四聖諦(シショウタイ)の原理と、病気の治療に喩えて導く教えである「応病与薬(オウビョウヨヤク)」、説法を聞く人の性質や能力、抱える問題の度合いや種類に応じて、臨機応変に説法をする「対機説法(タイキセッポウ)」が、つながっていることに気がつき、学びが深くなったように感じました♪

 四聖諦の原理については、以前まとめた内容をご紹介しましたが、文献によって説き方が少しずつ違うので、これもまた色々な角度からこの集約された法の原理を知る上で勉強になると感じています。

 たとえば、上述の本のP140「苦しみの解決法を病気の治療法にたとえた4つの真理「四聖諦」という項目と、『日本人が知らないブッダの話*学研』による四聖諦の内容、以前ご紹介したPDCAサイクルとをあわせてご紹介したいと思います。 このようにすると、その応用法が明確になるかもしれないので。

********************************

「四諦とは?」P140

 ブッダが菩提樹(ボダイジュ)の下で覚ったのは、縁起のほかに苦(ク)・集(ジュウ)・滅(メツ)・道(ドウ)の四諦(シタイ・四聖諦)があるといわれています。 「諦」は「明らかにする=真理」という意味で、四諦は次の4つです。

1.苦聖諦(クショウタイ)・・・「生きるとは苦」なり
  応病与薬では、病気の状態を知る。=「病気の容態」
  PDCAサイクルでは、
  Plan(計画):従来の実績や将来の予測などをもとにして業務計画を作成する。
  
 苦諦(クタイ)は、この世は絶対苦(思い通りにならないこと)の世界で、すべての人は苦しみの人生を歩んでいるということです。

 お釈迦様の探求は「生きるとは何か?」という問いから始まりました。 お釈迦様は不条理に満ちた世界の中にあって、生きるとは何か、人生とは何なのか、ということを如実に観察されたのです。 探求の末に発見されたのは、「生きるとは苦(不安定、不満足)」という真理でした。 お釈迦様はきちんと、生(生まれること)は苦である、老は苦である、病は苦である、死は苦である、と「苦」を定義しています。 それに加えて、好きな人・愛着しているものと離れないといけないという苦(愛別離苦:アイベツリク)があります。 求めるものが得られないという苦(求不得苦:グフトック)は、誰でもいつも経験していることです。 それから、嫌いな人・嫌なものとつきあわなければならない苦(怨憎会苦:オンゾウエク)も人生につきまとう。 まとめてみれば、我々を構成している色受想行識という五蘊(ゴウン)そのものが苦なのです(五蘊盛苦:ゴウンジョウク/五陰盛苦:ゴオンジョウク)。 

2.苦集聖諦(クジュウショウタイ)・・・渇愛で生き続ける
  応病与薬では、病気の原因を知る。=「病気の病因」
  Do(実施・実行):計画に沿って業務を行う。

 集諦(ジッタイ)は、苦しみはさまざまな原因の集まりがあるということです。 苦の原因を渇愛(カツアイ)といいます。

 そこで、「生きるとは苦」であるならば、「なぜ我々は必死に生きているのか?」という疑問が生まれます。 「苦のみ」ならば、我々は生きていないはずです。 やはり「生きていきたい」という強烈な衝動、渇愛があるから、必死で生きているのです。 そこで、お釈迦様は二番目の真理(苦集聖諦)として渇愛を発見しました。 欲愛(ヨクアイ:五欲に対する執着)、有愛(ウアイ:生きることへの執着)、無有愛(ムウアイ:破壊への執着)という三つに分けています。

欲愛:性的悦楽、権力、快楽を激しく求める渇望。
有愛:いつまでも生き続けたい、死後に何らかの形で存在したいという望み。
無有愛:生存することに意味を見出せず、自ら命を絶とうとする欲求。
     生存からの逃避の欲望。

3.苦滅聖諦(クメツショウタイ)・・・涅槃に達することが生きる意義
  応病与薬では、病気が完治した本来の健康な姿を知る。=「快癒」
  Check(点検・評価):業務の実施が計画に沿っているかどうかを確認する。

 滅諦(メッタイ)は、渇愛を制すれば、欲望を感じなくなり苦もまた滅びるということです。

 渇愛という苦の真理を知ったところで、「では、我々はどうすべきか?」という次の問いが生まれます。 そこで、お釈迦様は三番目の真理「苦滅聖諦」という答えを出すのです。 生きていきたいという衝動が滅した境地(涅槃:ネハン)を目指すべきであると発見するのです。 そこではじめて、苦=無意義なものにすぎなかった我々の生に、解脱・涅槃という「生きる目的」が成り立つのです。 

4.苦滅道聖諦(クメツドウショウタイ)・・・八正道で涅槃に達する
  応病与薬では、病気を治すための治療法・薬を処方する。=治療法
  Act(処置・改善):実施が計画に沿っていない部分を調べて処置をする。

 道諦(ドウタイ)は、渇愛を取り除くためには8つの道(八正道:ハッショウドウ)があるということです。

 では、「いかにして涅槃に達するのか」という次に出てくる疑問への答えが、四番目の真理、八正道(苦滅道聖諦)です。 そして初転法輪(ショテンボウリン)の説法は、四聖諦の解説が一回転したところで、最初に説かれた「八正道=中道」に戻るのです。

 これらは、ブッダの最初の説法で八正道とともに説かれたため、四諦八正道ともいわれ、仏教の重要な教えの一つとされます。 四諦は、ふたつずつ原因と結果の組み合わせになっています。 結果を見つめ、原因を探り、この因果関係を知ることで涅槃の理想へ向かって修行するのです。

「病気の治癒のたとえ」

 ブッダの説法は応病与薬といわれましたが、ブッダ自身も医者にたとえられ医王(イオウ)とも呼ばれます。 四諦もまた、病気の治療にたとえられます。 病気の状態を知り(苦諦)、その原因を知り(集諦)、病気が完治した本来の健康な姿を知る(滅諦)。 最後に病気を治すための治療法・薬を処方(道諦)のです。

また、「対機説法(タイキセッポウ)」についての解説P122は・・・

「人を見て法を説く」

 ブッダは古代マガダ語、または多言語を使って民衆に説法したといわれています。 多くの民族が暮らすインドには、現在14の公認言語があります。 当時からさまざまな言葉を使う人々が一緒に説法を聞いても、みなブッダが自分と同じ言葉を使って、自分に向けて語っていると感じたと記されていて、ブッダの説法の巧みさを物語っています。 

 法を説いて人々の苦しみを癒した説法は、対機説法といわれます。 「機」は、人・機会・はずみという意味です。 ブッダはその機をとらえて、説法を聞く人の性質や能力、抱える問題の度合いや種類に応じて、臨機応変に説法をしました。

 何も語らずホウキではき清めるように命じただけで覚(サト)りへ導いたり、覚りを得るために役に立たない問いや、話すことでかえって悩ませる場合には沈黙を守ったり、仏教への帰依(キエ)を望む王には、社会的地位のある人は軽々しく信仰を変えてはいけないと諭したりしたこともありました。 ブッダは常に相手の立場や気持ちを考えて教え導いたのです。 その説法は、病気に応じて薬を与えることにたとえて「応病与薬」とも呼ばれます。

以上、『図解ブッダの教え・西東社』からの抜粋。

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 また現代では、四聖諦とPDCAサイクルとも関連があることを日記でご紹介したこともあります。 現代におけるリスクアセスメントに活用したり、日常的な問題解決の方法として、四聖諦はさまざまな分野で活用できるように思います。   




Last updated May 11, 2012 0:26:26 PM
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May 06, 2012

仏法トピックス-2
[ 佛教♪ ]  

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 今回も、『日本人が知らないブッダの話*アルボムッレ・スマナサーラ著*学研』からまとめた内容を抜粋したいと思います。

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「お釈迦様が過去世で励んだ十種の修行」

 伝統的な仏教では、誓願をした菩薩(ボサツ)が無限に近い時間、修行(=波羅蜜:ハラミツparamita)を積んで、人間界に最後の生を受け、そこで無上正覚(ムジョウショウガク)に達してブッダ(覚者)となる、としています。 お釈迦様の滅後、数百年たったころから、仏伝という伝記文学が編纂されはじめます。
 特徴的なのは、その始まりが過去世(カコゼ)にさかのぼった形で記録されていることです。 お釈迦様の過去世を記録する文学は「ジャータカ(本生:ホンジョウ)」と呼ばれています。 お釈迦様は輪廻(リンネ)の中で、数えきれない昔から、何万何億劫年もかけて波羅蜜を完成させ、人格を完成させたというのです。 波羅蜜というと、日本では大乗仏教の六波羅蜜が有名ですが、テーラワーダ仏教では、菩薩は十波羅蜜という、人格を完成させるために必要な十項目を修行するのだとしています。

1.布施(フセ)dana

 他人を助けるという波羅蜜です。 人は自分のことを考えて自己中心的に生きるのです。 その弱みをこの波羅蜜でなくします。 自と他の区別なく、みんなの幸福を考える性格を育てます。 性格が完成すると、人々の幸福のために自分の命を何の躊躇もなく投げ捨てられるところまで進むのです。

2.戒律(カイリツ)sila

 道徳を守ることです。 罪を犯さない人間になるのです。
 完成すると自分の命が危うい状態においても道徳は破らない性格になります。

3.離欲(リヨク)nekkhamma

 俗世間の欲に対して、未練を感じないことです。 執着を持たないことです。 すべての財産、地位や名誉を捨てて、出家できる能力です。 ジャータカ物語の中では、王位を捨てて出家した話はたくさんあります。 執着から離れる能力が完成していたからこそ、王位も家族もおいて、出家することができたのです。

4.智慧(チエ)panna

 真理を発見することが智慧になります。 その能力を育てるために、さまざまな事柄から事実を発見する訓練をしなくてはいけないのです。 ジャータカ物語から推測すると、この能力を育てると、正しい決断ができるようになります。

5.精進(ショウジン)viriya

 目的を達するまで、着々と進む能力のことです。
 修行の内容は、悪をなくすことと、善を完成させることです。

6.忍耐(ニンタイ)khanti

 そう簡単にはあきらめない性格を培うことです。 何か善いことをしようとする場合、世の中ではいつもスムーズにいくわけではありません。 必ず、賛成する人も反対する人も出てきます。 場合によっては、批判・非難だけではなく、暴力を受けることにもなります。 このようなことがあっても 自分が決めた正しい道をあきらめないで貫くことは、忍耐なのです。 人が何に達しようとしても、それなりの忍耐力が必要なのです。 波羅蜜の場合は、命を惜しまずに目的に達するための忍耐なのです。

7.真理(シンリ)sacca

 これは決して嘘はつかないことだと説明されています。 しかしこの波羅蜜には、世にあるさまざまな偽り、迷信・信仰などの中から、真理・事実を発見できる能力も入っていると思います。 『梵網経(ボンモウキョウ)』という経典があります。 世界に現れるだろうと思われる宗教哲学をすべて網羅したという経典です。 あらゆる教えの中で、どこまでが事実か、どこで間違っているかを、明確にしています。 この経典を読むと、お釈迦様の真理波羅蜜(sacca parami)の能力を感じ取ることができます。 また、過去世からも嘘をついた経験がないので、ブッダが語る言葉に、人々は必ず耳を傾けるのです。

8.誓願(セイガン)adhitthana

 優柔不断を克服することです。 何となく頑張っても、人生は何となく終わるだけです。 達するべき目的を明確にして、「この目的に達します」と、心 に定めるのです。 そうすれば、その目的に達する過程で、どんな障害が起きても脱線しないのです。 現代的に言えば、決めたことに達しないかぎりあきらめない、揺るぎない精神のことでしょう。

9.慈悲(ジヒ)metta

 生命を慈しむことです。 誰に対しても恨み憎しみを絶対に持たないことです。 「一切の生命が幸せでありますように」というモットーで生きることです。 衆生(シュジョウ)の苦しみをなくしてあげたいという強烈な意志が、ブッダに必要なのです。

10.無執着(ムシュウジャク)upekkha

 感情に左右されない、何が起きても落ちついていられる性格を育てることです。 完成すると、自分の命がなくなるような場合でも冷静にいられるのです。

 十種類の波羅蜜というのは、育てるべき十種類の性格です。 それをお釈迦様は無始なる過去から育ててきたというのです。 そして輪廻の中で気が遠くなるような長い修行の果てに、十波羅蜜を完成させ、お釈迦様は現代から二千六百年前にインドに降誕(ゴウタン)されたのだと、仏伝文学は主張するのです。 「十波羅蜜は、菩薩がブッダになるために過去で完成させる能力として説明しているから、一般人には関係のない話だ」と思ってはいけません。 仏道を実践して覚りに達するためには、波羅蜜の能力は誰にでも必要なのです。 俗世間でも人間が人生を成功させられない理由を、波羅蜜の話から引きだすことができます。 目的がはっきりしない、優柔不断である、簡単にあきらめる、途中で考えを変える、道徳を破る、ひらめきが乏しい、等々です。 現代でも波羅蜜を実践するならば、必ず人格が向上します。 そして、人生は成功に達するのです。

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 十波羅蜜・・・凡夫の私にとっては、あまりにもかけ離れた実践であり、生き方って感じがします・・・(^^;))

 それでも、このような仏法の学びを通じて、少しでも生き方を善くしたいと思います。

 まずは、利得恭敬(リトクキョウケイ)からでもいいと思っています。 まず何が善で何が悪であるのか、何が法に則り、自他の幸せという目的に適っているか、という判断基準をもつことを知ることです。 

 私だけかもしれませんが、人はまず自分自身の利得(メリット)について考えてしまうものではないかと思います。 それはそれとして、その自らの想いを尊重しつつ、次に、他者、そして社会、自然界の法則に基づいて、自らが目標とし行おうとしていることが繁栄をもたらすことができるか、と観察してから行為へ移すということです。

 ポー・オー・パユットー氏は、渇愛(五官の刺激を楽しむだけの)型のモチベーションから、志欲・意欲(創造)型、つまり欲望の方向性を消費者型から生産者型へと移行させ、欲望をコントロールする方法を話されています。

 これは、渇愛型の欲望にふけることは、ただ与えられるものを受け取ることだけを目的とし、怠惰になったり、環境にたえず感情が揺さぶられるだけの悪い(幸せという目的に適わない)生き方だということです。

 そのような楽しみだけを追う生き方は、自然界の法則として無常、苦(不安定)の要素に左右されるだけであり、その結果として残るものは、人間の自然においては四苦八苦へ向かうことになるということです。

 しかしながら、ただ欲望をなくしてしまえばよいというのではなく、あくまで善い(幸せという目的に適う)生き方が何であるかを学び知り、まずは善を施すことに意欲のエネルギーを向けるようにすることです。

 仏教は、欲望をなくす道であると言われていますが、欲望には渇愛型の欲望と意欲・志欲型の欲望があります。 このため、単に欲望をなくそうと考え、何もしないことが覚りへの道だと考えてしまうと誤った道へと進んでしまうとパユットー氏は警告しています。

 ですから、渇愛型の欲望から少しずつでも離れ滅していき、意欲・志欲型の欲望、善を為すことには不放逸(フホウイツ)な態度で臨み、この欲に関しては成就させて抑える方法をとるように、と話されています。

 私のような初心者でも、このように実践していけば、一歩ずつでも前進していけるように思います♪



Last updated May 06, 2012 1:16:27 PM
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May 05, 2012

仏法トピックス-1
[ 佛教♪ ]  

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 さて次に、仏法と現代心理学の関係について『ブッダのサイコセラピー*マーク・エプスタイン著*春秋社』、『呼吸による気づきの教え*井上ウィマラ著・佼成出版社』などを題材にして見ていく前に、仏法についての話題(トピックス)もとりあげてみたいと思います。

 仏法についてのトピックスと言っても、私自身が詳細を知っているわけではないので、自分自身の学習のまとめとして、今まで読んできた本の中からご紹介したいと思います。

 今回は、『日本人が知らないブッダの話*アルボムッレ・スマナサーラ著*学研』から抜粋したいと思います。

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第3章 覚(サト)りへの道

「因縁のセオリーを発見する」

 修行を成功させて心が解脱に達する過程を、律蔵『大品(ダイボン)』のなかで、お釈迦様がこのように偈(ゲ)で唱えています。 

「修行に励むバラモン(ここではシッダールタのこと)に、現象があらわになる。 そのとき、現象は原因により生じるものだと知る。 一切の疑いが消え去る。

 修行に励むバラモンに、現象があらわになる。 そのとき、現象の原因は滅するものだと知る。 一切の疑いが消え去る。

 修行に励むバラモンに、現象があらわになる。 そのとき、魔の軍勢を打ち破り、太陽のごとく、空に輝く」

 覚(サト)りとは智慧の完成です。 智慧が完成することで、一切の苦しみからの解放(解脱:ゲダツ)を果たすのです。 お釈迦様の成道については、十二因縁(ジュウニインネン:苦の生起とその連鎖を十二に分析した公式=無明:ムミョウ→行:ギョウ→識:シキ→名色:ミョウシキ→六処:ロクショ→触:ソク→受:ジュ→愛:アイ→取:シュ→有:ウ→生:ショウ→老死:ロウシ+愁:シュウ・悲:ヒ・苦:ク・憂:ウ・悩:ノウ)を順逆に観察して智慧を生じた経典にあります(相応部12.10.65)。

「無明(根源的な無知)に縁(ヨ)って行(感情・衝動・心所)が生じる。 行に縁って識(認識・心)が生じる。 識によって名色(対象)が生じる。 名色に縁って六処(眼、耳、鼻、舌、身、意)が生じる。
 六処に縁って触(接触)が生じる。 触に縁って受(感覚)が生じる。
 受に縁って愛(渇愛:カツアイ)が生じる。 愛に縁って取(固執:コシュウ)が生じる。 取に縁って有(生存)が生じる。 有に縁って生(誕生)が生じる。 生に縁って老、死、憂愁、悲泣(ヒキュウ)、苦痛、悩み、落ちこみが現れる。 このようにして、このすべての苦蘊(クウン:苦の集まり)の生起(ショウキ)がある。

 無明こそが(完全に)滅することに縁って行が滅する。 行が滅することに縁って識が滅する。 識が滅することに縁って名色が滅する。 名色が滅することに縁って六処が滅する。 六処が滅することに縁って触が滅する。
 触が滅することに縁って受が滅する。 受が滅することに縁って愛が滅する。 愛が滅することに縁って取が滅する。 取が滅することに縁って有が滅する。 有が滅することに縁って生が滅する。 生が滅することに縁って老、死、憂愁、悲泣、苦痛、悩み、落ちこみが滅する。

 このようにして、このすべての苦蘊の滅がある」

 そして輪廻(リンネ)から解放された安堵と喜びを次の偈で表現したと伝えられています。 

「無数の生涯にわたり、あてどなく輪廻(リンネ)をさまよってきた。 
 -家の作者を探し求めて。 さらにさらにと、生まれ変わるのは苦しいことである。 家の作者(渇愛)よ、汝の正体は見られてしまった。 
 汝が家屋を作ることはもはやあるまい。 汝の梁(ハリ:煩悩)はことごとく折られ、家の屋根(無明)は壊れてしまった。 形成する働き(行)から心は離れ、渇愛を滅ぼし尽くした」 

 お釈迦さまは、過去の六仏も同じように成道したと語っています(相応部12.10)。 経典によって覚りの内容が変わっているのではないかと思ってしまうかもしれません。 因果法則を発見したか、十二因縁を発見したか、三明が現れたか、煩悩と戦って勝利を得たか、どちらでしょうか、と思われるかもしれません。
 
 でも、それについて疑問の余地はありません。 表現が違うだけで、中身は同じです。 煩悩に勝つ人が因縁を発見するから、煩悩は余すことなくなくなるのです。 三明という智慧が現れてきたから、因縁の発見ができたのです。 ですから覚りの中身については、疑問は成り立たないのです。

 しかし十二因縁の教えは、苦しみがどのように生まれるのか、という説明です。 覚りに達してから、お釈迦さまがさまざまな工夫をして、因縁を理解できるように説法したのです。 縁起(エンギ)の説法は、十二因縁だけに限ったものではありません。 数ある縁起説のなかで、たくさん使われた縁起説が十二因縁なのです。 のちに、縁起説は十二因縁であると思われるようになりましたが、そのように決めなくてもかまわないのです。

 有名な教説である四聖諦(シショウタイ)、八正道(ハッショウドウ)、十二因縁(ジュウニインネン)は、お釈迦さまが覚った智慧を人間の言葉に翻訳した作業なのです。 因果法則のセオリーを応用して、ブッダはさまざまに語るのです。 四聖諦というセオリーだけを語ることもありますが、十二因縁は四聖諦の集諦(ジッタイ)にあたるものです。

********************************

 ここで少し、私なりの学習法について述べたいと思います。 

 私はあまり記憶力がよいほうではなかったので、学校で学び始めた時、まさに右も左もわからない状態でした・・・

 特に小学校の五年生ぐらいまで、右と左の認識することができないような時もありました。 これは“自分”の身体を基準に見るという基準点がわからなかったことによります。 それが自分の身体を基準にして、右手はお箸を持つほう、といったような基準点を見つけてから、他の人を見るとき、向き合っている時は自分と反対になるんだな、といった感じで結びつけていく作業をしてやっと右と左がわかるようになった憶えがあります。

 このような基本的な学びと関係して、まず「これ」は「これ」、「あれ」は「あれ」というような違いを知ることがわからなければ、物事を知覚し、認識し、対象と言葉を結びつけるという流れがうまくいかないことがわかります。 

 そして、学習における苦手意識、それを大げさに学術的に言うと「学習障害」と呼ばれますが、このような基本的な認識機能を順に見ていく流れのなかで、「わからない言葉」にぶつかると、人間の頭は集中力がなくなり、混乱状態になる、ということです。 これは、私が心理学的な分野に興味を持ち、ダイアネティックスやサイエントロジー(ある国はカルトに指定されているところもあります)の本を読んで知ったことではありますが、何かを学ぶとき、その読み方や意味を調べるようにすることで、言葉とのつながりが生まれ、学ぶ事がやさしくなる、ということです。 これは、本当に基本的なことなのですが、何かを学ぶうえでとても役に立ち、知っておく必要のあることだと思います。

 またスリーインワン・キネシオロジーでは、「ストレスがなければ勉強は簡単」という本があり、子供たちや大人が学ぶことが苦手になったのは、先ほどの基本的な学習方法を知らなかったため、ある学習分野において苦手意識を持つようになると、それを見るだけでストレスを感じるようになり、眠くなったり、集中できなくなったり、逃げだしたくなるような傾向が起こる反応が生まれるということです。 それに対して、スリーインワン・キネシオロジーの技術でその学習分野におけるストレスを解放すると、苦痛がなくなり、苦手意識が激減します。 

 このようなことを知っておくと、新しい分野を学ぼうとするとき、つまずきにくくなると思います。

 さらに学ぶことと関係して、ブッダによって導き出された縁起の法もその基本と考えることができます。 縁起について、「図解ブッダの教え(西東社)から一部抜粋すると・・・
 縁起というのは、因縁生起(インネンショウキ)の略で、あらゆるものは「因」という直接の原因と「縁」という間接的な条件がお互いに関係し合って生じたり滅したりする、という意味です。
 また、因が縁となることもありうるし、縁がほかの因となることもあります。 すべてのものが因や縁となって、互いに物事の生滅に関わっているのです。 原因や条件が変われば、当然生じる事柄も変化するので、いつも同じ状態であり続けるもの、永遠に変わらずに存在するものなどはありません(無常)。 以上、抜粋。

 ブッダによる縁起の法というのは、

1.<これ>があるとき<かれ>がある。
  <これ>という原因(因)と条件(縁)があるとき
  <かれ>という結果(果)がある。
2.<これ>がないとき<かれ>がない。
  <これ>という原因(因)と条件(縁)がないとき
  <かれ>という結果(果)がない。
3.<これ>が生ずるから<かれ>が生ずる。
  <これ>という原因(因)と条件(縁)が生ずるから
  <かれ>という結果(果)が生ずる。
4.<これ>が滅するから<かれ>が滅する。
  <これ>という原因(因)と条件(縁)が滅するから
  <かれ>という結果(果)が滅する。

 という公式です。

 詳細は省きますが、私たちの十二因縁のなかで、名色(心と物質)から六処(眼、耳、鼻、舌、身、意)が生じるようになるわけですが、外側の物質と身体の五官と意識が接触して、感覚が受け取られ、これは身体にとっていいとか悪いというような区別が生まれ、その対象との関係性をあれこれと思考するようになるわけですが、その関係性を知らなければ、何が何なのかわからず、無知な状態にあり、無明も克服できないことになります。

 つまり、今、私の身体に何が起こっているのかについて、それを知らなければ、私たちは生き残ることも、自然界の原理を知ることもできなかったということです。

 そのような意味で、人間が学習することの意義や縁起・因縁の法について知ることは、私たちが成長し続けるうえでとても大切なことだと思います。

PS

 学ぶことに関係して、最近の私のチャレンジとしては、「1分間勉強法*石井貴士著」の方法も試しているところです。

 従来の速読法を応用し、眼の認識機能を高めたり、カラー・マジックと呼ばれる右脳を刺激する方法、記憶力を高めるために、ボクシングのジャブのように何度も繰り返し見るという記憶法は、おもしろいなぁ~と思います。



Last updated May 05, 2012 09:14:30 AM
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