私の問題解決の考え方 第3章1

第3章 問題解決と確率・統計
    -確率で解決の可能性を探る-



<なぜ確率・統計?>

人間には、分からないことが沢山あります(いや、分からないことに気づかないこともしばしばです)。だから、私達は、毎日いろいろな問題に出会って、解決しようとしなければならないのです。しかし、問題にぶつかったといって、怖がることはないのです。オロオロすることもないのです。分からないことがあるといって、恥ずかしがることもないのです。

大事なことは、問題に出会ってから、どうするかです。何が、どう分からないかを明らかにして、自分の頭や体を使って問題を解決するのです。そのとき、考えるのを助けてくれるのが確率・統計です。いや、私達は、確率・統計を勉強しなくても、既に、無意識に(自動的に)使っているのです。

確率・統計というのは、「分からなさ」を知ろうとする学問なのです。私達の問題で、何が、どのように、どのくらい分からないかを知るのを助けてくれます。ただ、実際に考えなければならないのは私達であり、確率・統計を勉強するだけでは駄目です。私達が考えるのを助けてくれるだけです。

確率・統計の知識それだけでは私達に答えを与えてくれませんが、複雑で 難しい問題に出会ったときに、私達が、論理的に、系統的に、問題について考えるのを助けてくれます。言わば、第2章で示した「基本的な考え方」の理論のようなものです。

これから、確率・統計が役に立つことと役立て方を、なるべく沢山の例を使い、なるべく数式を使わないようにして、説明します。確率・統計は数学の一部で、厳密に考えると、かなり 難しいです。哲学と相通じるところがあります。しかし、問題解決には、基本的な考え方を理解するだけで、式や数にしなくてもいいことが多いと思います。

これから、確率の意味を中心とした、説明を始めます。しかし、私が完全に理解しているわけではありませんので、考えながら書きます。ですから、皆さんも一緒に考えて下さい。

簡単で身近な話から始めましょう。私のホームページの2006年1月2日の日記をまず読んで下さい。


<1月2日の日記: 今日は雨だ!>

天気予報が当たったみたいです!さっき、年賀状の返事を郵便ポストに入れに行ったときは、曇りで寒かったのですが、今は雨がかなり降っていて寒いです。

先月の初め、秋田から帰ってきてから、その後、ほとんど毎日のように天気が悪くなった秋田とは逆に、こちらはほぼ毎日晴れで、太陽電池の成績が前の年よりいいです。今日、やっと雨になり、私は家でのんびりしています。

今日は、確率・統計のことを考えながら、カレーを作っています。私のカレーの特徴は、骨付きの鶏肉(手羽元)を使うこととショウガを沢山使うことです。ニンニクは入れません。

どのくらいの確率で、美味しいカレーができるでしょうか。これまでの成績は100%です。しかし、絶対確かということはまずありません。常に、失敗する可能性を考えておかないといけません。

私は、ちょっとうまく行くと、すぐ自慢し、プロみたいな顔をして、どうすべきかなどをプロと話し合ったりするのです。でも、プロとは全く違います。私は相当いい加減なので、毎回同じ味にできません。そして、私が美味しいと思う味にしかできないのです。多くの人達に受け入れてもらえるようなものではないのです。さらに、毎回と言っても、まだ10回ぐらいしかやっていないと思います。

それから、私は全部自分で作るのではなく、「タイカレーの素」を使っています。さっき、私は「ニンニクを入れない」と言っただけで、入っていないとは言っていません。このカレーの素には、ニンニクが入っています。

幸い、女房は、好みが私とかなり似ているので、美味しいと言ってくれます。

カレーは、夜に食べるはずだったもので、もっと煮た方が美味しいのですが、昼食にもう食べてしまいました(まだ沢山残っていますが)。

ところで、今日は雨だと思ったのですが、30分ぐらい前から晴れてしまいました。天気予報でも降水確率というものを使っていますが、かなりあやしいもののようです。


<イザッチさんの感想>

以上の私の文について、私の友達イザッチさんが、私の日記の感想を書いて下さいました。大事なことを分かりやすく書いて下さいました。皆さんにも読んでいただきたいです。特に大事なところに下線を引き、私、イワセイ、の感想を付け加えます。

以下が、トラックバックに書いていただいた、イザッチさんの全文です。但し、写真だけはこちらにコピーできませんでした。




>イワセイ4841さんの日記「今日は雨だ!」のカレー作りを読んで、
私の頭の中に、それとは全然関係の無いことを思い浮かべました。

私は2004年の10月から、髪の毛を自分でカットしています。
確率のことは、ほとんど考えず、
上手く仕上げる(仕上がる)ことしか全く考えていないのですが(笑)。

失敗したところで、一生そのままでもなく、
髪はまた伸びてくるし、
すごく失敗して、街を歩けないようになったとしたら、
美容院に行けばいいや、な~んて思っているので、
伸びた髪を見て、自分でカットできそうという気持ちになれれば、
その気持ちのままハサミを握っていたりします。

自然と、上手くカットできる確率が高いと自分で判断してたんですね。
こういうのが日常の何気ない確率かと思いました。


運が良かったのか、
今まではなんとか、表を普通に歩けるぐらいと、
自分では、「上手くできた」との自己満足で、
今に至ってたりします。

イワセイ4841さんの「これまでの成績は100%」に
近いノリですかね~(笑)


カットが前よりも上手にできたりした時は、
どんなふうにカットしたかをメモを取ったり、
絵にしてみたり。

私の感想は、

>これが一番大事なところかもしれません。「経験を役に立てる」ということです。私は、こういうところでだらしがなく、メモを取るのを忘れてしまいます。


続いて、イザッチさん、

バス待ちとかに綺麗にカットされてる人の髪を
変に思われないようにこそこそ見たり(笑)。

だって、TVや雑誌ではなかなかバックスタイルがわからないので。
ちなみにバックにもレイヤー入れてます。

私の感想、

>これらは、両方とも、新しい情報をもとに次のカットのときの成功確率を高めようとすることです。確率の式にもこういうのがあります。「確率の更新」と言います。

イザッチさん、

>次にカットする時は、そのメモなりを見返したりして、
シュミレーションしてカットするようになり。

こういうのも統計というんでしょうか。
今までの経験などから、より高い成功を導き出す行為だったのかな?


私の感想、

>正にその通りです。これから、説明しようと考えていたことまで言っていただきました。

また、イザッチさん、

>それが、回を重ねる度に
もうメモとかを見なくてもカットできるようになり、
手直しを入れることも少なくなって、
こうなるとかなりの確率で、
毎回ある程度自分の思うふうにできるようになりました。


で、ある日、あるアイドルのヘアースタイルを見ていて、
ちょっと今までとは違うふうにカットしてみたいなという気持ちが
むくむくと。

全くそのままっていうのは、技術が追いつかないし、
男の子のヘアースタイルだったので、
ちょっと自分なりにアレンジして。

今までかなり安定していたものとは
違う仕上がりになったので、
自分的には、満足してるけど、周りから見てどうかな?と
ちょっと不安だったんですが、
思いもよらず「いい」、「カットして」
(人のはできそうに無いけど)などと言ってもらえて、
人の手でなく、自分自身でもまた別のヘアースタイルにできるもんだなと
思ったりなんかして。

こういうのが新しいチャレンジって言うんでしょうか。
今までとは違うことを取り入れたりするのは。


私の感想、

>常に、新しい可能性を探しているのですね。研究者の鏡です。


イザッチさん、

>このことは、かなり衝動的に思いついて、やったことだったんですけど、
それって、自分にとって、突拍子も無い
思いつきだったわけじゃないんじゃないかなぁ~って思います。
経験とかそういうものがあったからではないかと。

こういうふうなのもありだよね。
こういうふうにするにはどうしたらいいんだろう、って、
今まで、これをこういうふうにして、こうできたんだから、
これは、こうしたら、こうなるんじゃないの(すごい抽象的)。
みたいなことを頭で考えて、アレンジしてみたら、
自分は、そういう考えがあっての、チェンジが、
自分が思うよりもいいものができてたみたいな。

そういうこと仕事とか、他のことでもあるなぁ~って思うんですよね。
どうでしょう?


私の感想、

>ホント、ホント。私が論文で言いたいことが、この文に書かれています。特に、理工学の研究者には、この文をよく読んでもらいたいです。

イザッチさん、

>ps
2005年12月にカットした、
今現在のヘアースタイル画像をつけてみました(苦笑)。

(残念ながら、この写真はコピーしてここに載せられませんでした。私)

私から、

>貴重な、的をついたご意見ありがとうございました。



<これから、もう少し詳しく確率について考えましょう>

皆さんが何かの問題に出会ったとしましょう。その問題について頭の中で検討してみて、この問題を自分で[解決できるかどうか]を考えることでしょう。[解決できる可能性]が大きいと思えば、すぐ着手し、問題を解決しようとするでしょう。

一方、[すぐに解決できない]と見た場合には、[この問題の難しさ]に対応した、解決に必要な情報や、助けてもらう人を集めてから、自分でもよく考えて、解決に着手するでしょう。

以上で、[ ]の中の言葉は、どちらも、「確率」に関係したものです。私達は、問題に出会ったとき、多くの場合、無意識に、確率を、数学で勉強した「確率・統計」で使うような数(0から1までの数)にはしていないかもしれませんが、解決ができる(実現する)可能性を頭の中で考え、その度合い(自分の頭の中で見積もる、問題解決の確率、即ち、問題を解決できるかと考えられる、認められる、受け入れられる、あるいは、信じられる度合い)を判定して、それに見合った行動をしているのです。

「問題解決」というのは、確率という考え方を使って表すと、「目標(例えば、何か分からないことを分かるようにするとか)を達成する確率を1に近づけること」と言えるでしょう。


例1 数学の試験の難問

数学の試験で難問に出会ったとしましょう。問題を見た瞬間は全くできそうにありません。この段階では、解ける確率は0(0%)です。しかし、いろいろな角度から解決につながる要因を考えて、いろいろ試すうちに、少しずつ分かってきます(私の判断では、例えば、この時点では0.3(30%)ぐらい?)。

さらに努力することにより、問題のポイントがつかめたとします。そうすると、確率は、例えば、一挙に0.8(80%)ぐらいまで上がります。そして、これまで考えてきたことをもとに、実際に解く作業を行なうと見事問題解決と確信するのです(確率1(100%))。但し、この1(100%)という値は、問題を解いたと思った人の確率です。先生から見たら、正解でないかもしれません。この先生の判断に従えば、確率は0になってしまいます。

このように、この確率の値は、試験の前から、やっている間の時点や、考える人によって、いろいろな値を取りますが、試験が終わった時点では、この確率は1か0になるのです(答えを知っている人から見て)。即ち、確率は、確率を考える時期、問題を解く人や、確率を考える人などによって大きく変わってしまうのです(試験という現象と結果は一つなのですが)。


ここで、サクラさんからメールが、

>私の場合、この間、テストで問題を見たら、これはできた(確率100%)と思いました。簡単に答えを出し、次の問題に取りかかりました。何日か経って答案が戻ってきたとき、計算間違いで✕でした。ここで確率がゼロになったのですね。

私から、

>その通りです。残念だったですね。油断大敵!


この数学の問題のように、正しい答えがある場合には確率を1に近づけることは可能ですが、それがなかなか分からない場合もあります。実際の問題では、このようなことがよくあると思います。極端なことを言えば、答えが見つからない場合もあり得ます。また、答えがある場合でも、自分のやっていることが解決方向へ向かっていることなのかどうかも分からないかもしれません。このようなときに、なんらかのチェック(やっていることの良悪の)機能があるとありがたいのです。そして、これがあれば、できるかまでは分からなくても、できる確率が増加したかどうかを知るのに役に立つのです。


例1のような確率は取り扱うことが難しいものです。こういう確率は、言わば、1回しか起きない現象の確率なのです。教科書で扱う確率、次の例の、コインの確率、とはちょっと違います。


例2 コインを投げたときに表が出る確率

コインの場合、何回も何回も投げたときの、表が出た回数を、投げた回数で割った答えが確率になります。

一方、裏が出た回数を投げた回数で割ったものが裏の出る確率になります。表が出た回数と裏が出た回数を足すと、投げた回数になります(表が出るか、あるいは、裏が出るかしかないので)。

つまり、表が出る確率と裏が出る確率を足すと1(100%)になります。

ということは、コインの場合、可能性は、表が出ることと裏が出ることだけです。重なる(重複する)ところがありません。2つの場合で全てです。

これが、一般的に、問題のいろいろな可能性を洗い出すときに心がけよと言われていることです。それぞれの可能性に、重なるところがないように、全てを含む(漏らすところがない)ように、ということです。

英語で言うと、
mutually exclusive and collectively exhaustive (MECE)
になります。なお、全く新しい問題や難しい問題では、重なる心配より、漏れていないかということが大事ですが。

そして、投げる回数を増やしていくと、表が出る確率は0.5(50%)に近づいていくとされています(裏が出る確率も)。実際に、何万回もコインを投げたという、偉い先生(本当は弟子がやった?あるいは本当にはやっていない?)もいるのです。



<表が出る確率はコインの性質?>

教科書には、そのような書き方がされている場合が多いようです。

表が出る確率が0.5というのは、コインによって決まるのでしょうか。つまり、コインの形、表面の状態、重心の位置などによって決まるのでしょうか?

サイコロでも、最近は、均質な材料を使って、正確に、同じ形や表面状態に作った高価なものが発売されているそうです。それぞれの目が出る確率が1/6になると言っているようです。

しかし、本当にそうなるのでしょうか?

理科(物理)の勉強をしている人なら、疑問を持つはずです。例えば、ボールを投げるとき、どの位置から、どっちの方向へ、どのくらいの速さで投げるかなどで、どこへ落ちるかということが正確に分かるはずです。

コインを投げるときでも、どういう向きにしたコインを、どの位置から、どの方向へ、どのくらいの速度で、どういうところ(落ちる場所)へ投げるかなどをきちんと定義できれば、コインが、どこに、どのように着地して、表か裏が上になるかが決まるはずです(投げる瞬間に決まるはずです)。

つまり、原理的に考えると、落ちたとき、どちらの面が上になるかは、コインそのものによるだけでなく、投げ方と、落ちる場所にもよるのです。偶然ではないのです。

では、なぜ、表が出る場合と裏が出る場合が半々ぐらいになるのでしょうか?

答えは簡単なことなのですが、私は、長い間、これを理解していませんでした。今は分かっているつもりですが、それをうまく説明できるでしょうか。挑戦してみましょう。


<では、コインの確率はなんで決まるか?>
 -確率1/2とは、表か裏かが全く分からないということー

偏り(形がおかしいとか、重心が狂っているとか)のないコインだけという理由で、表の出る確率が0.5になるわけではないのです。

結論から言うと、人がコインを投げるとき、手から離れる瞬間の状態を制御できないからです。同じ状態で投げられないのです。いつも必ず同じある状態で投げられたら、表と裏を投げ分けられるはずです。(落ちる場所が同じ状態という条件でです。)

ばくち打ちは、ある程度これ(制御)ができるのだと思います。(そもそも、確率・統計は、ばくちの研究から始まったものなのです。)

コインの表が出る確率が0.5だということを、何万回もコインを投げ、証明しようとした確率・統計の先生がいる一方、私の尊敬する先生(E. T. Jaynes)(1)のように、投げ方を工夫すれば、表を出せるようにできるはずだと考えた人もいるのです。

さて、普通の場合、どうしたら、表が出る確率がほぼ0.5になるのでしょうか。

現象から考えると、偏りのないコインで、偏りのない(全く制御できない)投げ方をすればそうなるはずです。

一方、確率を考える人の立場からは、どちらが多く出るかが「全く分からない」ということです。つまり、可能性が2つ(表か裏)あって、どちらがより出易いか分からない。即ち、同じ確率で、足すと1なので、両方0.5になります。

つまり、確率は、分からなさの度合いとも考えられるのです。ここで、「分からない」ということについてちょっと考えてみましょう。


<分からないことがあるのが人間>

コインを投げるとき、制御の仕方(どのように投げたら毎回表が出るようにできるか)が分からないのも人間ですし、自分を含む誰かがコインを投げるとき、どちらが出るのかが分からないのも人間です。

私たちには、このように、分からないことが沢山あるのです。だから、分からないことにぶつかったからと言って、恥ずかしがることはないのです。また、分からないだけで怖がってしまうこともないのです。オロオロしなくてもいいのです。

問題は、問題があるのを認識してからどうするかです。

昨日だったか紹介した、何万回かコインを投げたという、統計学者の話を覚えていらっしゃいますか?これはあまり役に立たない実験だと思います。

私だったら、こういう先生には教わりたくありません。これは、いわば、右往左往している状態を示すだけです。人間は、「考える動物」だとか言って、自慢しています。でも、コインを、ただ、何もしようとせずに(例えば、表を出そうとせずに)、何万回も投げるのはちょっと変だと思います。

私なら、投げるついでに、表を出す方法を考えようとするでしょう。そして、もし、表が出せるようになるなら、ばくち打ちになれるかもしれません。

研究開発者でも、やることが分からないで、ただ、右往左往(試行錯誤)しているのは最悪です。いろいろやって、進む方向がだんだん分かってこなければいけないのです。

研究者なら、頭を使って、いろいろなことを試しているはずです。まず、いろいろな可能性を試し、問題点を洗いだすのです。そして、苦労すると、何をどのようにやるかということが少しずつ分かるようになってきます。問題点も分かってきます。

いろいろなことを経験すると、やっていることの良し悪しがだんだん分かってくるはずです。うまく行かないことから学ぶのです。

このようにして、次第に、正しい答えに近づいていくのです。

分からないことを分かるようにするのが人間なのです。それが「考える」ということなのです。自分で考えて、判断、行動することです。[本当に人間はそうしているのでしょうか。わが国で原発を作ってしまい、大事故が起きても、この国がまだ原発にしがみついているのを見ると、情けなくなります。2014記]

神様はどうでしょう。何でも知っているなら、考えなくてもいいのです。神様は確率のことを考える必要はないのです。サイコロは振らないのです。


ちょっと脱線しましょう。



< 苦闘なくして勝利なし!>(2006年元日の日記)

そして、「天才は努力の異名!」。

これらは、元日の聖教新聞の「新春トーク21」に書かれていました。創価学会の教えなのでしょう。

本当にそう(表題)だと思います。私は、これらに、
「自分で考えて、判断、行動する。」
というのを付け加えて、論文完成に向けて頑張ろうと思います。


それから、元日の朝早く、次のように、ねぼけて聞いた気がします。
「自分の持っている大事なものを認識し、そのことを感謝すること。そして、その一部を他の人におすそ分けすること。」

今この論文を書こうとしているのはこういうことかなと思いました。これまで、私は、かなり沢山の問題に出会い、解決した経験を持っていて、それらについて、分かりやすく説明できれば、新しく問題に出会う人達の役に立つかもしれないと感じました。

元旦に、寝ぼけながら、こんなことを考えた私でした。

それから、本居宣長翁(2)の
「目標を大きく持ち、倦まず怠らず努力をする。」
という言葉も忘れないようにしたいです。



<本題に戻りましょう>

確率の問題を一つ考えてみましょう。


例3 「コインを投げて、表が出たら、10万円あげましょう。但し、表が出なかったら、9万円払ってください。」と言われたら、あなたはどうしますか?


1)確率0.5で表が出るとしたら、得をする確率の方が高いです。でも、今の私だったら、この賭けに挑戦する勇気がないでしょう。これは、9万円損をするのが怖いからです(損をする確率が0.5あるからです)。一方、もし、私がお金持ちなら、何回も挑戦して、儲けるでしょう。

今度は、もし、賭ける金額が100円だったら、やるでしょう。このくらいなら、数回ぐらい損をしてもいいと思うでしょう。

新しい技術の開発の場合など、開発を始める段階では、成功する確率が多分0.5にならないことが多いでしょう。しかし、開発の場合には、苦労し、開発に挑戦するうちに、確率が高くなってくるのです。(そして、失敗しても、かかった費用を自分で払えとは言われないからです。会社に勤めている場合)

2)なお、今は、表の出る確率が0.5だと仮定しましたが、そう思い込んではいけません。コインを投げる人が自分でないとき、その人が裏の確率を0.6ぐらいにできるかもしれません。この場合、資金をどんなに沢山持っていても、損をしてしまいます。いや、資金が多いほど損害が大きくなります。

3)もっと悪いことかもしれません。いかさまコインかもしれません。裏しか出ないコインとか、裏が出易いように細工してあるかもしれません。

4)それから、もしかしたら、このコインには厚みがあって、縁(ふち)で立つかもしれません。その場合、表と裏が出る確率が同じであっても、この賭けは損になります。例えば、表と裏が出る確率がそれぞれ0.45で、縁が0.1だと、10万円もらえる確率が0.45で、もらえない確率が0.55になります。

技術開発でも、いろいろな可能性、特に、大事な可能性を考えないで開発を進めてしまい、完成に手間取ってしまうことがあります。漏れのないことが大事です。

最初に、いろいろな可能性を考えておくことが必要です。また、言われたことを鵜呑みにしないで、自分の頭で考えて、判断することが大事です。

確率を考えるときも、自分に必要な確率を考えなければいけません。上の例で、儲かる確率が高いからと言って、自分の状況を考えないで飛びついてはいけません。途中段階で損をする可能性もあり、それに耐え抜けられない確率も考えなければいけないのです。(資金に余裕があれば有利になります。(貧乏人はバクチには手を出さない方がいいのです。)


<山本容子さん、私も賛成です!>
  -物事をいろいろな角度から見る。-

「この世に正解はないし、いろんな方向から物事を見るようにしています。真理を探究するというより、拡散していった方が物事の本質が見える気がするんです。」

これは、創造性あふれる作品とその自由な生き方で人を魅了する銅板画家の山本容子さんの言葉です(2006年1月3日東京新聞p.10「新春対談(イメージの力が開く世界)」)。

これは、正に、問題解決のための、私の言う「まんずやってみれ!」の心だと思います。

また、いろいろな可能性を考えるという、確率・統計の心でもあります。



<論文を完成できる確率は?>
 -初めはゼロだと思っても、時とともに変わっていく。-

「分かりやすい論文を書くには、言いたいことを私がまずよく理解することである。」ということを肝に銘じて、書きながら、考えて、考えながら、書いています。

論文完成の確率はどのくらいでしょうか。私の今の評価では0.3ぐらいでしょうか。でも、私はやります。

例3で出した問題では、儲かる確率が0.5なのに、私はやらないと言いました。論文を書くときには、なぜ、成功確率が0.3しかない(もっと低いかもしれない)のに、やるのでしょうか?

それは、この確率がこれからまだ大きくなると私が考えているからです。また、私は、この論文を書くと、既に、大勢の人達に宣言してしまっているからです。

このような、私の一生に一度しか起きないような確率は、果たして、定義できて、求められるのでしょうか?コインやサイコロのようなわけには行きません。

言葉では表せば、「論文完成が達成できる」のが真実であると認められる(考えられる、信じられる、受け入れられる)度合いです。回数とか、個数にして考えるのは難しいのです。

つまり、これを、数として表すのは難しいのです。コインの場合は、何回も「投げる」ことを試せます。この私の論文を書くことは、何回もできないのです。多分1回だけでしょう。コインを投げるときのように、何回も試して、論文が完成できた回数とできなかった回数を数えることはできないのです。

このようなことから、上で、私が言った確率も、当てずっぽうに言っただけで、あまりよく分からないのです。正直なところ、できる確率とできない確率のどちらが大きいと私が感じているかを言ってみただけです。

しかし、私は、確率・統計を使うのは、こんな程度でいいと思います。あまり難しく考えない方がいいと考えます。私達は、誰でも、確率を自然に考え、使っているのですが、あまり意識していないのです。

ラプラスという、確率・統計を学問として確立した人の一人である、有名な数学者は、確率とは
「常識を数や数式で表そうとしたものである。」
というようなことを言っています。

一般の人は、そこまでやろうとしなくてもいいと思います。数でなくても、いろいろな可能性を考えたり、何かを選ぶときの選択の仕方とか、ごく日常的にやっていることをちょっと意識したりするくらいでいいと思います。そのときに、確率・統計のことを思い出すくらいでいいと思います。

人間には分からないことがあるのが当然だとか、
いろいろな可能性を想定することが大事だとか、
沢山の要因の中で大事な要因だけを考えるように心がけるとか、
経験を無駄にしないようにするとか、
自分の頭で考えるとか、
鵜呑みはダメよとか
です。


<正直が一番!>
 -嘘があると、ますます分からなくなる。-

問題解決にも、確率・統計にも、正直が一番! 正直でなければいけません。また、間違いをなくすことです。

まず、問題を洗いだすことです。何が分からないのか、どのように分からないのか、いろいろな可能性を全部あげてみることです。漏らさないように。

大事な、解決につながる要因が含まれているか、誤った情報(嘘や間違い)が含まれていないか、などの吟味が必要です。

誤った情報を除くことが特に大事です。しかし、最初からそれができない場合が多いのです。いろいろやっているうちに分かるのです。実際に自分で考えて、検討を行なうことが重要です。

それから、あまり大事でないものも除きます。考える要因が多いと、自分の頭の中でも考えられなくなりますし、確率・統計の助けを借りるにも、可能性の種類が多いほど大変になります。

検討の結果(新しい証拠)を自分の頭の中でよく吟味して、次の検討に生かせなければなりません。



<確率・統計を学ぶことの意義が分かってきた? > (日記より)

今朝、ひらめいたのです!ずい分遅いですが。

確率・統計を、今まで、私は、問題解決の、技術的(頭脳的、論理的、理屈に関する)な要因と関係があると思っていました。

ところが、何か分かったような気がしました。と言うより、考える方向が分かってきたのです。確率の意味を考えてみると、問題解決の、技術的な要因だけでなく、心(気、情緒、感情など)の要因とも関係が深いと思うようになりました。

確率には、主観的なこと、人間的なことが必然的に含まれるのですから、当然と言えば当然で、既に誰かに言われていることかもしれませんが、今朝まで、私はこのことをあまり考えていませんでした。


< 凄い人がいる!!> (01月10日の日記)

菊池信義さんです。装丁家(本の表紙を作る人)です。

この人は、「宇宙」について書かれた、ある本の表紙に、作者の頭の断層写真を使ったのです。「宇宙」は作者の頭の中にあると、読み取ったからです。確率と同じではないですか。

私も、確率・統計の勉強してきたので、この表現が分かるような気がしました。確率の定義として、例えば、コインで表が出る確率は、コインだけによって決まるの(コインの性質)ではなく、確率を考える人の知識の度合い(頭の中にある)と考えた方が妥当なものなのです。

この人は、ある本の表紙を作るときに、その本をとてもよく読んで、自分が理解したような表紙を作るのだそうです。さすが、プロです。

菊池さんがNHKの「課外授業」に出ていたのを、たまたま私は見ていました(これは再放送で、前に紹介したような気がしますが、そのときには宇宙のことには気がつかなかったのです。)。自分の母校の小学校の6年生ぐらいのクラスに、谷川俊太郎さんの「生きる」という詩の一部を見せて、これに合う表紙を作りなさいという課題を与えました。

生きる     谷川俊太郎

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと 生きているということ
いま生きているということ
・・・・・

子供達は、この詩の中にあるものをさまざまな絵に描きました。そうしたら、菊池さんは皆駄目だと言ったのです。自分で考えた「生きる」ということを絵にしなさいと言ったのです。

子供達はそれぞれ苦労して、いろいろな表紙ができました。その中で、2つの表紙に私は感心してしまいました。一人の子は、「生きる」という題名のない表紙を作りました。もう一人は「生きる」ということは分からないと言って、ただ青に塗りつぶした表紙を作りました。

最初の子は、表紙に題名がなくてもいいかもしれない可能性に気づいたことが偉いと思いました。次の子は、「生きる」ということは「分からないこと」だと感じた(正解だと思います)ところが大したものだと思いました。

確率・統計を勉強しなくても、こういうことに気づけるのです。つまり、子供だって、習わなくても、確率・統計の考え方を自然と知っているのです。

この授業はとてもいい授業でした。

菊池さんも、最後に、子供達にありがとうと言っていました。



<山菜採りは研究を助けてくれる?>( 01月10日)

そんな気がするのです。山菜採りをした後、いや、している間にも、私の感知能力が増加するようです。そのときに、私が考えている問題についてヒントが得られたりするのです。

なぜでしょう。

自然の中にいると気持ちがよくなるから?
自然の中で五感が鋭くなる?
好きなこと(山菜採り)をやって気分がよくなる?
山菜を探すときに頭を沢山使っている?
一人で、邪魔されないで考えられる?
山菜を食べることがいい?
山菜採りも研究の一つだから?(助け合い効果)



<目の前にあるものが見えるか?>

この間、ご飯のとき、目の前に箸がおいてあるのに、引き出しへ取りに行っていました。ボケの始まりでしょうか。

でも、
見ようとしているのに見えない、
見たい気持ちが強ければ見える、
見ようとしていないと見えない、
見ようとしていないのに見えてしまう、

これら、皆、可能性があります。

私だって、山菜採りとなると、探そうとしていなくても、ワラビや、バッケ(ふきのとう)や、ミズや、コシアブラなど(皆、山菜)が自動的に目に入ってきます。それなのに、山を登るときには見つけられなかったのに、下りてくるときにやっと見つけることもあります。

私がやっていた、材料についての理工学研究では、あることを見つけたいと強く思っていた方が見つける確率が高かったのです。そして、見つけたいと思っていないと、目の前にある、大事な証拠を見逃してしまったこともあります。勿論、見つけようと思っても、見つからないこともありました。

でも、山菜を見つけようとして探すのは楽しいことです(偶然出会う喜びもありますが、これは稀。)。研究も同じです。


<今度はスピリチュアル? そして、びっくりした!>

去年は、宗教とか、哲学のことを少し勉強しましたが、確率・統計のことを考えているうちに、るんるんさん(私の友達)から教えていただいた、スピリチュアルに関する本も読んでみようかなと思いました。

さっき図書館へ行って、スピリチュアルという言葉で、本を探しました。そうしたら、ずい分沢山出てきて、びっくりしました。そして、さらにびっくりしたことに、ちょっと開いてみようかなと思った本十何冊が貸し出し中だったのです。これほど多くの人がスピリチュアルに興味を持っているのか、すがろうとしているのか、どちらでも、とても驚きました。


昨年から、問題解決と関連して、「縁」、「神様」、「生かされる」、「信じる」とか「感謝」について、いろいろと考えてきたので、スピリチュアルからも、参考になる情報が得られるかもしれません。


<私は金持ちになれないかもしれない>

ナポレオン・ヒルという人が書いた、成功への戦略(Think and Grow Rich)という本があります。

その中で、金持ちになるには、絶対なれるという自信を持つことで、そのためには、なれるということを、毎日、口に出して言うのがいいと書いてあります。これを毎日行なうと、次第にできるという気になってくるのだそうです。

私にはできません!これじゃあ自分をだますことではないですか!

[でも、今になって考えてみたら、自信はありませんでしたが、入試の勉強期間中、自分に、合格するのだ、と言い聞かせていました。2014記]

私は、自慢ではないですが、今まで、自信を持って何かをやったことがありません。しかし、確実に失敗すると思ったこともありません。危なくなると、自分が頑張らないと失敗してしまうかもしれないと自分を追い詰めて、勉強や仕事をしてきました。

このように、ある意味では、でれでれと暮らしてきました。だから、この本の言うとおり、私はまだ金持ちではないし、金持ちにもなれないでしょう(確率0.01くらい? 確率がゼロでないのは、今やっている株の勉強がうまく行くと、金持ちになってしまう可能性もなきにしもあらずだからです。[このときから株で儲けようとはしてきませんでしたが、8年あまり後、収入が減り、支出が増えたため、ひとっきりの間、儲けを狙うようになりました。でも、金持ちになるつもりはありません。2014記])。

この本の英語の題名Think and Grow Richは、日本語に訳すと、
「考えよ!そうすれば、金持ちになって行く。」
です。この「考えよ。」のところは、何事においても、もっとも大事だと思いました。


<この世の中に偶然はない? >
  -と思うー

スピリチュアルの世界でも、そう言っているみたいです。

仏教でも、因果と言って、結果には必ず原因があるとされています。

私が、参考のために、さっと読んだ本は、
江原啓之:「スピリチュアル ブック」、王様文庫、(2001)
でした。

この人はスピチュアルをイギリスで学んだと言っていますが、日本で学んだことや自分の考えも含まれているでしょう。イギリスのスピリチュアルでも、偶然はないのでしょうか。

私は、偶然はないというのに賛成ですが。

偶然とは関係ありませんが、著者は、心(思い)、言葉と行動のつながりも指摘しています。これは、本居宣長翁も言ったことです(2)。



<「たまたま」も3回続くと、・・>
  -確率を疑う。-

夕べ、テレビで、刑事もの「相棒」を見ていたら、主人公の刑事(いや警部?)がこう言っていました。これって、正に、「確率・統計」です。

ある男が階段を落ちて死にました。しかし、主人公が、どうしてそうなったかということを相棒と一緒に考えると、死に至るまでに、「たまたま」こうなったということが3回あった結果そうなったのでした。

そこのところで、主人公が疑いを持ち始めるという話でした。

偶然と思うことがあまり重なるときは何かあるかなと思うべきなのに、それを忘れてしまうこともあるのです。

鵜呑みにするなです。


<確率に戻ろう!>

確率とは?(高校教科書より一般的な考え方)

何かが起きる、何かが真実であると認められる、受け入れられる、考えられる、判断できる、あるいは、信じられる(まで)度合い。それを0から1の間の数で表します。

知識とか、認識とか、信念の度合い。分からなさの度合いとも言えます。

一般的には、数として表わすのが 難しいです。求めるのも 難しいです。

コインなら、何回も投げて、表の出る回数の割合として求められます。製品が不良になる確率なら、何個も作って、不良品の割合として求められます。

しかし、例えば、明日、あなたが訪問する会社の入社試験に合格する確率はどのように求めるのでしょうか。

私達が普通出会う確率は、このような、1回しか起きないような場合のものが多いのです。



<確率・統計の使い方>

ある問題を解決したいとき、
「問題解決のための各種要因を明らかにするとともに、これらの要因がどのようにつながって、問題解決に至るのかを明らかにする」ということについて、いろいろ可能性を考えるのです。それぞれの要因とつながりの寄与を、問題解決の確率に反映させたいのです。

あまり詳細にやろうとすると、話が複雑になり過ぎて、分からなくなります。だから、重要でない要因はなるべく省略して、重要なものだけを考えたいのです。しかし、これが難しいのです。頭の中で考えるだけではうまく行かないことが多いのです。

ですから、まず始めて(まんずやってみれ!)、実際に実験をやりながら考えるのです。そして、解決につながる重要な各種要因を洗いだして、解決のために、何をどのような順でなすべきかを明らかにしたいのです。考えてからやるより、やりながら考えた方がいいですよ。


<いやあ、びっくり!想定外に近い! >(01月16日)

今日、私が出かけようとしたら、電話がありました。

財布を見つけたという電話です!びっくりして、電話を下さった方との待ち合わせ場所へ行くと、女房の財布でした(実は、夕べ、女房が財布を失くしてしまったのでした。)。しかも、お金も含めた中身も無くなっていなかったのです!

私の心は感謝の気持ちで一杯で、帰ってくる途中、私は、人を信じなくなってしまったことを申し訳なく思いました。現金が入っている場合、まず出てこないのではないかと思っていたのでした(確率で言うと95%ぐらい?大勢の人の体験を聞いてです。)。

しかし、自分や自分の周りのことを考えると、あの後、私の女房も、娘も、2,3の知人も、皆、もし拾ったら、必ず本人か、交番に知らせると言っていました。私もそうします。

また、これまで、私は、いろいろなもの(お金はなし)をいろいろなところに忘れてきましたが、かなり戻ってきています。


とにかく、私はすっかりうれしくなってしまいました。夕べは女房が財布をなくしたことでいやな気持ちになっていたのですが、このことで、それがすっかりなくなって、正直な人がいてくれてありがたいと思ったのでした。

嘘をつく学者、建築士、設計事務所、建設会社、政治家、お役人などいる中で、正直な一般の人達に出会えて、何だか気分がよくなりました。

わが日本国民もまだ大したもんだ!まだまだ希望があると思いました。


<・・・かもしれない>( 01月17日)

とは、いろいろな可能性を考えているときに言う言葉です。

私の3才の孫のアーちゃんは、この言い方をよくします。
「おばあちゃんは、駅へママを迎えに行ったのかもしれないねえ。」
と、一昨日、言ったのです。その前に、女房は、車を裏の駐車場に置いてくると言ったきり、どこかへ行ってしまったのです。

これは、それをアーちゃんが心配した結果、言った言葉でした。よくこんなことを思いついたものだと、私は感心してしまいました。この子は、このように、いろいろな可能性を想定し、しばしば、「・・・かもしれない」と言うのです。

一方、私は、女房が車でどこかへ行ってしまった直後、アーちゃんが女房を追って外に飛び出してしまったとき、私は、アーちゃんが自動車に轢かれてしまう「かもしれない」と思って、外に飛び出したのでした。

一方、女房は、そのとき、急に思いついてガソリンスタンドへガソリンを入れに行って、財布を、「忘れてしまうかもしれない」と思いながら、自動車の屋根の上に乗せたままでガソリンを入れて、「忘れてしまうかもしれない」と思ったのを忘れてしまい、そのまま家に向かってしまったのでした。その結果、財布を落としてしまったのでした。

その後、私達はがっくりして、「もう財布は出てこないかもしれない」と言う一方、お金は取られても、「その他のものは戻ってくるかもしれない」という希望を持ったのでした。そして、あのとき、「アーちゃんが轢かれてしまったかもしれない」のに、大丈夫でよかったではないかと言って、自分達を慰めたのでした。


さらにその後、驚いたことに、「出てこないかもしれない」確率が高かったのに、財布が出てきたのです。以上の場合、皆、確率を考えているのです。

もっと難しい問題解決でも、まず、いろいろな可能性を考えることが大事なのです。



<問題解決に役立つ確率・統計の考え方 > (01月17日)

途中ですが、本章では、次のようなことを書きたいと思っています。

1. 確率の定義の仕方と求め方
1) 要因と、要因のつながりのいろいろな可能性を考える(頭においておく)。
2) 可能性の大小を考える(→検討の優先順位)。
3) 何が、どのくらい分からないかを考える。
4) 実際に試してみて、解決のための考え方を進歩、具体化させていく。
5) あまり重要でなさそうな要因は、とりあえず、考えない。
6) 目的の再認識と具体化、やることと段取りの明確化と具体化。
7) 問題解決の確率を高めるべく、解決に着手する。

2.確率の意味

3. 条件確率と事前確率
1) 確率には条件が付くのが普通。
2) 予備知識が事前確率

4. 新しい証拠によって確率が変わる。
1) ベイズの定理
2) 使い方
3) 人間の考え方との共通点
4) 問題解決の確率を出すにはどうするか。

5.確率は人間の頭の中にある。
1) 現象だけでは決まらない。
2) いろいろな境界条件や初期条件をどのくらい制御できるか(人間が) が大事である。
3) 心(人間の)の要因も含む。
4) 状況(多くの場合、人間が関与)によっても変わってしまう。
5) 確率を考える人によっても変わってしまう。


<神はサイコロを振らない> (01月19日)

夕べ、この題のドラマが始まりました。この題の言葉は、アインシュタインが言ったもので、ドラマも相対性理論に関係したことでした。10年前に行方不明になった飛行機が戻ってくるのですが、飛行機に乗っている人達には30分ぐらいしか時間が経っていなかったということが発端で始まるドラマです。

このドラマの中で、題の言葉がどのような話になって出てくるのかがよく分かりませんでした。しかし、この言葉で、私は、また、神様のことを考え始めたのでした。

全知全能の神様は、サイコロを振って何が出るかが分かるし、自分が振ったら、好きな目が出せるのです。だから、振らなくてもいいのです。でも、バクチ打ちになったら、最強ですね。

私には、神様がいるかどうかは、正直なところ、分かりません。

いるとしたら、神様は、
 人間にはできないことができるし、
 人間が知らないことを知っているので、
世の中で何が起きても、つじつまが合います。しかし、これは、神様がいるという前提によっていることなのです。そもそも、神様はいるのかと聞かれると、私には、分からないとしか言えないのです。

私には、神様はいるかもしれないし、いないかもしれないとしか、言えないのです。

一方、神様がいると信じる人は、
 失敗したときに神様に祈ります。
 病気を治したいときも神様に祈ります。
 お金を儲けたい人も神様に祈ります。
 難しい問題にぶつかったときも神様に祈ります。
 分からないことやよくないことが起きると、神様の意思だと考えます。

信じることにより、精神をより安定にできるのでしょう。自分にかかるストレスを減らせるのでしょう。

そして、私だって神社にお参りするのです。もしかしたら、効き目があるかもしれないと思って、問題の解決を祈るのです(他の人の問題の場合がほとんどですが)。
 
確率・統計の観点からも考えてみましょう。

全知全能の神様は何が起きるかを全部知っているし、何でもできるのです。だから、神様から見れば、あらゆる現象の確率は0か1です(過去も未来も)。偶然はないのです。サイコロを振らなくてもいいのです。

ということは、もし神様がいるなら、その神様は全ての現象の確率を知っているのです。例えば、サイコロを振ったとき、1の目が出るかどうかも知っているのです。ですから、その確率は0か1なのです(正しい値)。しかし、神様がそれを教えてくれるかどうか分かりません。さらに、教えてくれるとしても、嘘をつく「かもしれません」。

神様の知っていることを知らない私達は、正しい確率の値が分からないのです。客観性を重んじる科学者だって、分からないのです。振ったサイコロが止まるまではです。

しかし、止まったときに見れば、正解が分かるのです。その前に私達が確率だと思う値は、私達の認識、信念、推測などの度合いでしかないのです。サイコロの性質だけではないのです。

では、以下の例で、確率の意味を頭において、いろいろ考えてみてください。

1.サイコロの、1つの目が出る確率が1/6というのは何なのでしょうか?
2.あまり仲がよくないAさんと仲良くできる可能性は?
3.明日、あなたが、あなたの好きな友人で遠くにいる人と会えるでしょうか?
4.偶然は果たしてあるのでしょうか?
5.明日、あなたはこれから友達になるような人に会えるでしょうか?
6.1年以内にあなたが交通事故に遭う可能性は?
7.ある製品の不良率を下げるための対策を立てるには?

意識しようとしまいと、私達はいつも確率を考えているのです。



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