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ドラゴン山田の研究室

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2005.06.18
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カテゴリ:Ideas
今月4日、JR国分寺駅で、ひどい駆け込み乗車に怒った駅員が、「大怪我をしても本人の責任」というアナウンスをしたとか。別の乗客がそのアナウンスに抗議し、駅側も「言葉に配慮がなかった」と認めたらしい。その場にいなかった者がいろいろ言うと、無責任になってしまうのだが、しかしこのニュースにはもろもろ考えさせられた。

最近、日本は「言葉の使い方」にものすごく敏感な社会になっているのではと思うことがある。言葉への鋭敏な感覚は、もちろん歓迎すべきである。しかし、これほど日本語の「乱れ」や「読み書き力の低下」が指摘される中で、言葉に敏感になっているというのは、歓迎すべき鋭敏さというよりもむしろ、わずかな不快な表現にも我慢ならず、むかついて反応する、といった類の敏感さなのではないか。それは、一歩間違うと「言葉狩り」につながるのでは…?

確かに、言っている内容がいかに真実であれ、どんな言い方をしてもいいとは思わない。だが逆に、「どんな言い方をされたか」にばかり反応して、その内容の是非が2の次・3の次にされてしまう世の中も、空恐ろしい。どんな言い方をされようと、内容が真実であれば、それには耳を傾けるべきではないか。悪意を持った誹謗中傷はあってはならないものの、必ずしもそうではない「厳しい言い方」までも攻撃の対象となってしまうと、真実を真実として言い切る勇気を持った人がますます少なくなるのでは…と懸念する。「へたに本当のことを言ってバッシングされるくらいなら、黙っていよう」となりかねないからだ。

それにしても、言葉への配慮というものは、どこまですればよいものなのだろう?「言いすぎだ」と「言いすぎでない」の境目は、どこにあるのだろう? 自分がむかついて不快に思うことが、すべて「言いすぎ」「不適切な表現」であるとバッサリ切られてしまう、そういう雰囲気が支配的な社会になっているとしたら、よほど現代人は傷つきやすくなっているのだろうか。誰だって、悪意を持って傷つけられるのはまっぴらご免だ。しかし、結果的に傷つくことがいくらでも起こるのが、人間社会の現実の毎日。にもかかわらず、一切の「不快なもの」を許さないとなってしまうとしたら、故・藤田省三が1980年代に指摘した「『安楽』への全体主義」そのままではないか。

誤解のないように付け加えると、傷つくことをただ運命と思ってあきらめろとか、傷つく方が悪いとか、そんなことを言っているのではない。発言する側が、自分の言葉遣いの中に、無自覚のうちに差別用語などが含まれていないか、セクシュアル・ハラスメントなどにつながっていないか、という点はもっともっと考慮されるべきだろう。しかし、そうした配慮の必要性と、「言葉狩り」とは別のことだ。人間は傷つきやすい存在だから、お互いに配慮して行こうというのなら、「人に優しい社会」になるのかもしれない。しかし、今の日本がそういう方向に行っているとは思えない。むしろ、「傷つきやすさ」が「過剰な反応・攻撃性」へと行きやすいような時代に見えてしまう…。





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最終更新日  2005.06.20 23:11:52
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