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雀坊の納戸~文鳥動向の備忘録~

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2007年09月30日
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 イジメとは、強者が弱者を肉体的・精神的に苦しめることで、まことに腹立たしくはありますが、はっきり言って絶対になくなりません。「イジメをなくそう!」などと本気で言う大人がいれば、そ奴はうそつきか馬鹿かいずれかだと断言します。
 イジメという行為は、古今東西どこにでも存在しますし、それがない人間社会はあり得ません。日本は生真面目な国民性と比較的平和な社会があいまって、イジメを何やら独特の社会問題のように考える人がいるようですが、現実は違います。例えば、先頃イギリス政府がネットイジメの対策をはじめているように↓、これは世界的に普遍の現象です。http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3666764.html
 人間が3人いれば確実にひとりはイジメの対象になると言って良いくらいです。それが無意識であっても、悪気は欠片も無くともそうなるのです。むしろそうならなければ、集団での会話は成立しないかもしれません。さらに言えば、自分ひとりの心の中にもイジメはあります。いろいろな葛藤の中で、外の社会に自分を主張するには、内面にある他の自分を抑圧する以外に無いからです。

 つまり、「イジメをなくそう!」とか「イジメの撲滅」などというお題目は、人間の本質を理解しない馬鹿者の戯言に過ぎません。しかも、この非現実なスローガンが、学校教育の場でマイナスの効果を浸透させるに至っています。これは当たり前です。なぜなら、無くなるわけがないものを無くそうとすれば、無かったと目をつぶる以外にないので、結果、イジメられ(イジメどころか恐喝や暴行といった犯罪行為であることが多い)自殺に追い込まれた生徒が出ても、学校では「イジメと認識していない」だとか「仲間内の冗談でイジメではないと判断していた」などと、教頭だの校長などが寝とぼけた発言をすることになってしまうのです。
 この学校の責任者たちは、イジメがあったと認めれば、本来あってはならないものを存在させた責任を問われてしまいます。従って、無かったことにしたいわけです。これは、まことに姑息で嘆かわしい小役人根性ですが、その事なかれ主義を生み出す元凶こそ、「イジメをなくそう!」という、まったく現実離れしたスローガンです。無くなるはずの無いものを無いように取り繕うから、問題が大きくなってしまうのです。

 イジメに基準などありません。イジメられているか否かは、あくまでも個人の主観的なとらえ方です。つまり、イジメられていると本人が感じていれば、それはイジメです。その内容など関係ありませんし、第三者が測るための基準など無意味です。第一、感受性など人により異なりますから、基準などあるわけがないのです。
 この点で、若い頃の経験が思い出されます。それは大学4年生で、中学校で教育実習をしていた時のことなのですが、私の授業中にある生徒が、他の生徒に少しからかわれたのです。具体的な内容は忘れましたが、軽口のような一言で、それでクラス全体が嘲笑するようなものではなく、私もまったく気にも留めていませんでした。しかし、軽口を言われた生徒(ちなみに男子校)は、その件を担任の先生に訴え出たのです。すると、担任のW先生は、即座に軽口を言った本人と一緒に笑った2名ほどを職員室に呼びつけ、強く叱りつけました。
 その叱り付けられている最後の方を目撃した私は、不満そうにその3名が職員室を後にするのを見送った後、教務の指導を受けている(つまりクラス担任の仕事を実習させてもらっている)W先生に、悪意の無い軽口のように思いましたが、と言ったわけです。あの程度のことを気にするようではどうだろうと、むしろ相談した生徒の考え方が気になったわけです。W先生は、こうしないと駄目なんだ、といった意味のことを仰り、私は少々不満な思いをしたのでした。
 今にして思えば、100パーセントW先生が正しかったと言えます。例え些細なこと、客観的に見て気にする必要が無いことであっても、本人が不快に思い、イジメられたと認識して相談して来たなら、担任たる者は、それを全力で阻止する態度を示さなければならないのです。もしここでその頃の私のように、「そんなのたいしたこと無いから気にするな!」などと『大人の対応』をしてしまったら、より深刻な状態になった時、担任に相談するとは思えません。
 イジメはある。イジメと認識した時点で存在する。そうであれば、イジメられたと感じている未成熟な人間をいかに支えるかが、教育として必要な課題なのです。彼がイジメと感じた内容が、一般常識や、誰かが決めたイジメの範疇に適合するか否かなど、とりあえず何の関係もありません。とにかくも、相談された事象について、絶対的に対処する意志を示して、今後も生徒が相談出来るようにするのが、担任の立場としては何よりも重要だったわけです。
 この場合、他人の嫌がる軽口を言ったのは事実ですから、叱られた生徒たちは、不満はあっても「うるせえセンコー」で済むでしょう。それよりも、何かあれば担任に相談すべきことを示したという意味で、完全にW先生は正しかったのです。ようするに、教育実習生の私はアマチュア、W先生は教育者としてプロだったと言えるでしょう。

 イジメはあるという現実を前提に、それに悩む時は、親や担任という世界で唯一味方になってくれるはずの存在に、すぐに相談出来るようするようにするのが、低年齢のイジメによる自殺などという、悲惨な結末(親にとっては不幸の始まり)を避ける唯一の方法だと思います。イジメはあるものとして、親も担任も目を光らせるのが、守るべきものを守るための唯一の方法だと、認識する必要があるでしょう。

 もちろんこれは、せいぜい高校生程度までの話です。大人になったら担任教師はいませんし、親を頼ることも出来ません。イジメられたと思っても、自分の力ではじき返すか、受け流さなければいけません。
 何しろ我々大人は、学校に比すべき会社のような閉鎖空間でそれが行なわれても、耐え切れなければ離脱するくらいの智恵はあるはずです。「一身上の都合で・・・」と書けば、周りも喜ぶでしょうが、そんな連中とは縁が切れます。また、ネットイジメにあっても、気にしなければそれまでですし、度を越せば法に訴えれば済むことです。また、くやしければ、自分が強者になって見返しても良いはずですし、肉体的なイジメなど、即刻警察を頼れば済むはずです。
 人生経験を重ね、社会の広さや社会規範や公権力の存在を知れば、一つのことにこだわる事もなくなるでしょうし、対抗手段もいろいろ身につくはずです。その点、いくら生意気を言ったところで、子供に人生経験は無いので、決められた学校空間で生活するしかないと思い込み逃げ場が無くなっていきます。学校など転校すれば良く、死ぬくらいならやめてしまえば良いのですが、まじめな子ほどそういった考えが出来ないのです。また、真面目な子供ほど、誰にも心配をかけないように我慢し続け、耐えられなくなってしまいます。

 文部科学省にせよ、学校にせよ、教師にせよ、親にせよ、イジメの無い社会などというあり得ない妄想にとらわれず、「ある」と思って悩む子供の現実を直視して、自らその逃げ場所となるか、逃げ場所を用意することが、前途ある子供の生命を救うことになるものと思います。
 まずは、大人として、イジメはあるし、無くならない、と言う普遍的事実を前提として、考えて欲しいところです。






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Last updated  2007年09月30日 13時33分44秒
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