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奔るジャッドンたのうえ、追っかけ帳

奔るジャッドンたのうえ、追っかけ帳

[真・パレアナの研究1-7」

 「真・パレアナの研究」-1~パレアナとの出会い

 文庫本で「少女パレアナ」と「パレアナの青春」を一気に読み終えた私は驚愕しました。いや、電気に打たれたようなショックを感じたといった方が近いかも知れません。そこに書かれた内容を自己コントロールという命題から見るならば、過去のあらゆる教典や教書で説かれた内容も色あせてしまうほどの心理が織り込まれていたからです。と、こう書けばなんとなく道徳書、倫理書を連想してしまう。しかし、この本には全編を通じでだが、まったく教訓、説教臭さがないのです。そして説明的でなく、実際的なハウツー的な自己管理の実技書でさえあります。この点が他の本と異なるところででしょう。しかも、おもしろく、感動的であり、読む者の心を飽きさせない。読書中、何回も私の目には涙があふれました。

 それに、おびただししくも世に出された説教調か解説的に生き方を説く人生や自己啓発に関する本をいくら読んでも体得できなかった真理が、この本で夢中で読み進めているうちに、いとも簡単に体得できるのです。しかも実に面白い。何度か涙があふれてくるほど感動的なのです。

 本来、本は食べ物と一緒で人それぞれの好みがあるし、自分の好む物を人にやたらに勧めるものではないと思っている私が、自己矛盾の謗りを覚悟で勧めているのは、すべての人がこの「喜びのゲーム」を実行し始めたなら、いったい世界はどんなふうに変わるだろう、と想像して胸がわくわくしてくるからなのです。

 ついでに正直に言うと、私は、せっかく出会えた素晴らしいものはできれば自分だけのものにしたいといった独占欲が強く、人に紹介するほどの自信も度量も持ち合わせていないのです。それがどうしたことか。ハガキには書くは、講演では紹介するは、であす。こんな気持ちになったそのことは他でもない、まさにパレアナ現象といっていいのではなかろうか。

 物事は、単純なことほど本質に近い。そして人生においては平凡な日常性が大部分である。にも関わらず人々は複雑性を好み、非日常性にあこがれ求める。

「少女バレアナ」「バレアナの青春」「スー姉さん」の著者エレナポーターの関心はこの平凡な日常性にあり、平凡な日常の何気ない生活の中にこそ人生の大切さがあることを一貫したテーマにしている。

 3冊とも80数年前に書かれた、アメリカを舞台とした少女小説である。著名人をモデルにした波乱万丈に満ちた人生記でもないし、サクセスストーリーでもない。どこでもいるような少女の生活記録といった内容である。

 著者がこの本で伝えたかったことは「どんな状況においても喜びを見つける」ということと「日常性の中に、素晴らしいものを発見する」という2点であろう。こう書けばなんとなく道徳書、倫理書を連想してしまう。しかし、この本には、上述したがまったく教訓、説教臭さがない。そこが他の本と異なるところである。

 主人公は、髪は栗色、顔はそばかすだらけのおしゃべり、おしゃま、どこにでもいる普通の少女、バレアナである。

 この物語は、彼女が11才の時から始まる。父から「喜びのゲーム」という遊びを教えられたパレアナは、それをいじらしいほどのひたすらさで実行することで、父亡き後の、薄幸な境遇の中で次々と喜びを見つけ、明るく生きていく。そしてそのことを通じ、周囲の人々の日常生活にに驚くほどの変化を生じさせつつ、自らも少女から、娘へと成長していく過程を描いたものである。

 それはおびただししくも世に出された説教調か解説的に生き方を説く人生や自己啓発に関する本をいくら読んでも体得できなかった真理が、この本で夢中で読み進めているうちに、いとも簡単に体得できるのである。しかも実に面白い。何度か涙があふれてくるほど感動的である。

 この本と出会って以来何人の方に勧めしたであろうか。惚れた娘を友人に紹介するときに感じるような恥じらいを感じながら、講演先でも必ず話題にした。

 本来、本は食べ物と一緒で人それぞれの好みがあるし、自分の好む物を人に勧めるものではないと思っている私にとっては自己矛盾である。

 それに正直に言うと、私は、せっかく出会えた素晴らしいものはできれば自分だけのものにしたいといった独占欲が強く、人に紹介するほどの自信も度量も持ち合わせていないのである。それがどうしたことか。ハガキには書くは、講演では紹介するは、である。こんな気持ちになったのは他でもない。まさにパレアナ現象である。

 大の大人に、80余年以前に書かれた少女小説を勧めるのは実に照れ臭い。手にするのにもちょっとした勇気が必要である。ひとつには文庫の表紙カバーがいかにも少女ぽいからである。考えてみれば当然のこと。元来少女向けに書かれた本なのだから。

 だから、本屋で勘定場へ持っていくにも抵抗があった。学生の頃、本命の猥褻な本を買うときに読みたくもない和辻哲郎の「風土の研究」を上に重ねて勘定場へ持っていった思い出がある。で今回は、子供などいないのに「娘の誕生日のプレゼントに、」といらない言い訳をしてしまった。店員が親切にもバラ色の包装紙にピンクのリボンを掛けてくれ、いっそう照れくさい想いをした。

 最初に買った本は、すぐ人に差し上げたので、またこの本屋へいって、うかっにも「娘の、」とまたやってしまった。今度は女性店員は、私の赤い顔と動揺を見逃さず、明らかにこのスケベーという視線で私を見たのである。 これぐらい買うのに抵抗がある本であるから、お勧めはしたものの読んで戴くことにはたいして期待していなかった。ましてやよほど運が良くなければ書店に在庫されていない。地方では最低でも20日かけて取り寄せなければ手に入らないのである。

 にもかかわらず全国の仲間の皆さん方から驚くほどの反響が寄せられた。

 「感動した。素晴らしい」、「読むだけで生き方のノウハウをマスターできる」「脳力開発の生きたテキストだ」、「盗み読みした女房ががらりと変わった」、 といった多数のお便りが殺到したのである。ほとんどが男性、それも中高年の方からであった。

 「妻と子供に涙を見られるのが恥ずかしくてトイレで、」といった戦前派の硬骨漢が聞けば「何を軟弱な」と怒り出すような、お便りを戴いて、まだ涙を出し切っていない私は、彼の感受性の鋭さに半分嫉妬しながら改めて感激した。


 「陽転思考」の本だというお便りもあった。この言葉は、古い仏書にも出ているというから、人は古来から「陰思考」的であったのであろう。これは決して悪いことではない。なぜなら人は「万が一」のリスクに思いを馳せることで、実際起こり得るリスクを避けて生き抜いてきているのである。これは、いわば自己防衛本能か後天的に体得したセルフリスクマネジメントである、といってもよい。

 そのことはともかく、こだわりの多い私が、この「少女パレアナ」と「パレアナの青春」だけは、何のこだわりも抵抗もまったく感じることなく、夢中でいっきに読むことができたのは自分自身の驚きであった。

 そして不思議なことだが、ずうっと昔、幼少の頃この小説と同じ体験をしたような暖かい感触が身体を走り抜けたのである。実際にそんな実体験が私にあったかどうかということはたいした問題ではない。

 思わず「パレアナ!」と叫び、泣き出したくなり、そして自分がいとおしくなった。なぜだろう。そのとき、喜びに感激し泣けることこそ、人間が本来持つこころの美しさではなかろうか、そして今、自分は幼いときの純朴さにノスタルジャを感じているのではなかろうか、ということに気付いたのである。

 自然に涙する、このことで改めて自分を好きになれた。このことを私は重要視しているのである。

 自分の中にも赤ん坊の頃はあったであろう純朴さをいつしか見失い、手練手管で生きている自分が、今、赤ん坊時代を懐かしんでいる。実に不思議な気分である。

 もちろんこの本の中には一行もこんな諭すような文章は出てこない。読み終わって私の中にわきあがってきたものを記したに過ぎない。

 読まれた感想は人それぞれであろう。それでいいわけである。それぞれの思いを語りあえる一種の「空間」として「パレアナ学会」なるものつくったら、と考え、友人に話してみた。

 そのひとり、防府市の石村義光さんは、防府駅近くで「ビジネスホテル・あけぼの」というすてきなホテルを経営されている。即、全客室のデスクに「少女パレアナ」の文庫本を配置された。また鹿児島の吉野町で婦人服店を営む吉田勝也さんはご来店客にこの本を貸出されている。こんな些細なことを行う、これが「喜びのゲーム」だと思うのである。

 すでに大勢の方から「参加したい。条件は?」という問い合わせがきている。条件は?に苦笑しながら「本を読み、おお、パレアナ!と叫んで戴ければ、もう会員ですよ」とお応えしていた。冗談でなくこんな軽いものでいい、と思っていた。だが、発起人の一人、豊田市の川人さんから「パロディだけでなく、きちんとした方がいい。パレアナはそれだけの価値があるのですから」といったアドバイスを戴いた。ちゃかしの多い私が、パロディぽく「こと」をなせば、大勢の方に失礼になり、問題であろう。

 で、どんな会にするか等の構想づくりはおんぶにだっこということで、川人さんに事務局を担当していただき、私は楽な方の「パレアナ学の研究」と解説を担当さして戴く、と決めた。もちろん私の独断である。

 こうして、他の人や自分に向かって、喜びのゲームを行い、自分とその周囲の日常生活の情念をバラ色化し合い、あらゆる希望と願い具現の世界へ導き合うことを目的に、変わった学会の発足の運びとなった。

 ともかく見知らぬ同士が会い、「おお!パレアナ」と叫び、親しく話題するだけでも、また「喜びのゲーム」としておもしろいのではなかろうか。

  注;「少女バレアナ」「バレアナの青春」「スー姉さん」   (エレナポーター著村岡花子訳 角川文庫)


 「真・パレアナの研究」-2

 それでは、ご一緒に本を読んでみましょう。本文を引用しながら、簡単に解説してみます。

愛情ではなく姪であることからの義務感により、パレアナを自分の家に引き取った叔母が、パレアナに用意した部屋は、屋根裏の物置である。裸の壁、裸の床裸の窓。叔母は大金持ちですからいくつもの立派な部屋があるのです。しかも一人住まいです。叔母さんの義務を果しゃいいという性格がわかります。

 たくさんの美しい部屋を通り抜けながら、屋根裏の部屋に通された11歳の少女の心中は察して余りありましょう。事実その部屋に入ったパレアナはがっくりと荷物の脇に腰を卸、両手で顔をおおってしまったのです。

┌────────────────────────────────┐

│ 荷ほどきの手伝いに来た女中のナンシーに、しばらくたって「きっ │

│といいお部屋になるわね。そう思うでしょう?」といいましたが、答は│

│ありません。ナンシーは忙しそうにしていました。パレアナは箪笥の前│

│に立って、さびしそうに、なんにもない壁を見つめました。 │

│「鏡のないのも嬉しいわ。鏡がなければソバカスが見えませんものね」│

└────────────────────────────────┘

 寂しそうに、壁をみつめた、というのは11歳の少女として当然でしょう。逆境にあっても明るく振る舞え、というのは無理な話です。辛いときは辛いでいい。悲しいときは悲しいのは当然です。で、それらを感じるな、といっているのではないのです。第一できっこもないことでしょう。そんな人がいたとしたらかえって気持ちが悪いのではないでしょうか。

 つぎの 「鏡のないのも嬉しいわ」というパレアナの言葉が重要なのです。この小説での著者の主張だといってよいでしょう。つまりそこにどんな逆境の場面の中からでも”喜びを見いだそうという努力”がみられます。

 微妙な所ですから少し補足します。悲しいことや辛いことを否定しているのではないのです。耐えたり我慢しているのでもないのです。そういったことをそのまま受け入れたままで、その中から喜びを見いだそうと意識的に努力しているのです。意識的にやる、これをゲームとしていることにまた注目して戴きたいと思います。

 日本人は何らかの形で儒教、仏教の影響を受けておりますから、ここの所の努力を「修養」と理解する人が多いのではないでしょうか。修養とか躾では楽しむことできないのです。「ねばならない」の世界ほど人間を苦しめることはありませんよね。楽しんでやるという意識がないのに喜びが生じるはずはない、ということに気付かなければなりません。あくまでゲームなのです。ゲームだから、うまくいってもうまく行かなくてもいいし、軽いタッチでできるんです。(現にパレアナは喜びのゲーム探しに結構失敗しています)

 これこそどんな不幸な場面においても自らを守る方法であり、自分を幸福に導く一大原理なのです。どんな苦境の場面でも、喜びを探すのに夢中になっている瞬間は脳の回線にはそのことが流れているのです(この解説は別の号で詳細にお話したいと思います)。このことにほとんどの人は気づいていません。単に陽転思考とか、楽天主義という言葉で受け取ってしまっているんです。気づいていただけでも、駄目です。そこへ意識をもっていくという人間的な努力が必要なんです。ところがこの努力にも2通りあります。

 ページを進めてみましょう。
殺風景な部屋の窓、そこにパレアナは一枚の絵がかかっているのだと思おうと努力します。窓から素通しで見える景色それはなんと美しくて素晴らしい景色なんだろうと、自らの心を喜ばせ、楽しませようと努めているです。

 見落としてならないのは、美しくないものを無理に美しいと努力して思いこもうとしているのではないことです。決して耐える努力ではないのです。 
 「耐える努力」と「為す努力」の違いを取り違えると、この本は単なる倫理の本になってしまいます。

 頭の中でトランプゲ゛ームはできませんね。ですから、やるという意識と行動がゲームにも不可欠です。昔、私たちは退屈なときにトランプゲームやりますよね。今の子はファミコンかな。この小さな女の子は、喜び探しを実はゲームだと思っているのです。だからパレアナは悲しいとき(退屈な時もやっていますが、ここでは一応悲しいときに限定して話を進めます)はこのゲームやるんです。ファミコンどころかトランプももっていなかったんですね。それで父から教わった「喜びの遊び」という無料(ただ)のゲーム機を取り出して遊ぶんです。遊びなのですよ。この遊びということも重要なことなのです。
今回はここまでです。
                 

「真・パレアナの研究-3」

 それでは、本文(角川文庫版)をもとに、解説を35ページに進めます。
 大時計が夕方の6時を告げます。ハリントン家では6時に夕食が始まります。きっちり6時なのです。その証拠に、1分、2分、3分たちますと、ミスバレー(バレー叔母さん)はもういらいらし始めます。2階の天井裏の部屋からパレアナが降りてこないからです。そこでミスバレーは「夕食の時間は言ってある」(私は義務を果たしている)、「時間を守る習慣はすぐつけなければならない」ということで、「(罰として)食事は台所で、パンと牛乳を与えるよう」女中のナンシーに命じます。心配したナンシーはパレアナの部屋に行きますがそこには彼女はいません。窓から木を伝って外へ出て行っているのです。

 びっくりして外へ探しに飛び出したナンシーは、やっとのことで、風に吹かれて岩の上に座っているパレアナを発見しました。どっきりした様子のナンシーをみて、パレアナは「あんたが少しばかり、、、どっきりしたのがうれしいわ。それだから迎えにきてくれたんだものね」と寒さと空腹のためふるえながら言うのです。

 ここへ来たばかりの私みたいなちっぽけな女の子に対して、ナンシーは好意を示してくれた上、心配して探しに来てくれた。そのことが実感できたから「私は嬉しい」のです。「それに対して私の叔母は、」といったよけいな考えは決して頭に浮かびもしないのです。しかも、そのことを確かめたくて岩の上に登ったのではないことを、私たちはこの前後の文章から理解できるのです。

 この点、つまり彼女が、叔母やナンシーを試すつもりで部屋を抜けでたことないことはしっかり押さえておかないと誤解が生じますので少し補足をしておく必要があります。私たちの周囲には、父母の愛情を確認したくて、悪さや心配事を引き起こす子供たちが結構います。これは悪いという意味ではなしに、たくらみの一種。たくらみが強すぎるというのなら「意志」的と置き換えてもよいでしょう。パレアナの場合は「発見」、つまり無意識の世界です。両者の違いはとても重要なことなのです。なぜなら本来、喜び、悲しみ、怒りといったものは感情。そして、どうこうする、といった意志は理性が担当しています。言い換えますと、予期して為したことには感動(感情の動き)は希薄になり、予期せぬこと(計らぬこと)ではその振幅が大きくなると言うことです。

 ある集まりで、喜ばせごっこというゲーム?をやらされましたが、やらされているということと、その意図が最初からわかっているので、白々しく、むしろ苦痛を覚えた経験があります。解説者が「人の長所を探すのはいかに難しいか理解できましたでしょう」といっていましたが、これは違う。パレアナの喜びのゲームとはまったく異なるものと私は思います。

 次の39ページから41ベージにかけて、このパレアナの喜びのゲームを父から教わる契機とそのゲームの内容が展開されます。次号ではこの本の重要ポイントである「松葉杖の話」へ進ことになります。


「真・パレアナの研究-4」

 それでは、引き続き本文(角川文庫版)をもとに、解説を次の39ページから42ベージにかけて、このパレアナの喜びのゲームを父から教わる契機とそのゲームの内容へすすめましょう。本号ではこの本の重要ポイントである「松葉杖の話」にふれることになります。

「あなたはなんでも喜べるらしいですね」いたいけないパレアナの努力に胸を詰まらせながらのナンシーの言葉です。「それがゲームなのよ」。

パレアナのこの答はナンシーにとっては意外で理解できなかったらしく何度か問返しています。「遊びのことをいっているのよ」とパレアナが答えるところから「松葉杖の話」が披露されます。ナンシーになかなか理解できない喜びのゲームのことをパレアナは熱っぽく説明していますから、私たちもここは読み過ごすことなく、じっくり考えながら本文を読み返してみましょう。

パレアナは人形がほしかったので、牧師であるお父さんが教会本部に頼んでもらいました。ここは母をなくした貧しい父娘である、という状況を頭において読まないと単なる女の子のわがままに見えてしまいます。この幼い娘がどんなに頼んだ人形の到着を待ち望んでいたか、という背景理由と父が娘にたいして喜びのゲームを教える契機となる、父親としてたまらないほどつらい切ない心情を十分理解しておかないと、混乱します。

 この少女がどんなに人形が欲しがっていたのか、といった心情は私たちは豊饒な時代の今の子供達からくみ取ることは出来ないからです。

 待ち待った慰問箱が到着したときの高鳴る、気持ち。もう天にも上る思いであったろうと私は想像するのです。それだけに「人形がないから松葉杖を送る」と書いた手紙を見たときのパレアナの落胆ぶりも目に見えるようです。彼女はどこでも見かけるふつうの女の子ですから、きっと泣きわめいてお父さんを困らせたのかもしれません。ところが松葉杖を必要としない彼女に送られたこの松葉杖が彼女の一生を喜びに満ちた人生を送る魔法の杖になるのです。
(ここで私たちは、「人生って目先のことで是非を判断出来ないなー」ということを学ぶことができます。)

想像するに、がっかりして泣きだしたパレアナに 父は「人形なんてあきらめなさい」とも「次の慰問でもういちど頼んであげるから」といってなぐさめることをしませんでした。そのかわり娘に次のようにいったと思うのです。

 「ねえ、パレアナ、嬉しいことではないか。おまえは人形は持っていないけど、丈夫な足を持っている。杖を必要としないことを喜ばなければならないね。そのことを私たちに教えてくれたのがこの松葉杖ではないかな。すばらしいプレゼントだよ。でもね、無理してそう考えることはないのだよ。これゲームなんだから楽しくやったらいい。どんなことからでも喜ぶことを探すゲーム。そう、喜びのゲームって名付けようかな。これからお父さんと一緒にこのゲームで楽しもうよ」

 このゲームは、理解できたとしても、あるいは口では簡単にいえても、実際やるとなると難しいことです。でも心配はいりません。喜ぶことを探している時の脳の回線には悲しいことも含めて他の一切が入りません。脳の仕組みがそうなっているのです。だから夢中で喜びを探していること自体悲しみや苦しみの浄化作用となるわけです。うまく喜びを捜せないことがあったとしてもそれでいいのです。そのことをパレアナは「喜ぶことの方を考えると、いやなほうは忘れてしまうのよ」とナンシーに話しています。
 「ゲーム」なのですから、気楽に習慣となるよう続けることが大切です。  

「真・パレアナの研究-5」

 前々号でしたか、パレアナは「喜びのゲーム」にけっこう失敗しているということを書きました。今回は本文を離れて、どうした場合、あるいはなぜ彼女の喜びのゲームが失敗するのかを、ご一緒に考えてみたいと思います。

 彼女は喜びのゲームそのものはもう習慣化していますから、無意識に喜びを探し、それを連発し、叔母やナンシーをびっくりさせることはできるのです。でもそのあと自分の部屋にかえって、天国にいるお父さんに「喜びのゲームがちっともうまくやれていない」って泣き言をいう場面があります。なぜなのでしょうか。答を先に言ってしまうと、実は喜びを探そうと無理しているから、うまくいかないということなのです。人は(他人はごまかせても)自分はごまかせないからです。

 では、なぜ無理がでたのでしょうか。それは、彼女の喜びのゲームが自分が喜べるためのレベルであったためと考えられます。喜びには対象事物が不可欠。つまり人が喜ぶから自分も喜べる。だから喜びのゲームの本質は相手(人に限らず)を喜ばすことにあるんです。

 しかし、このことを12歳のパレアナに求めるのは出来すぎになります。それで、天国の父に「お父さんだって、こういう場合はうまくいかないと思います」といった泣き言をいうのは無理もありません。でも、会員の皆さんは「そうだ、そうだ。無理もない。可愛そう!」と同情したら駄目ですよ。

 叔母さんは義務の人です。いいかえれば何にごとも「○○でなければならない」といった調子で規律、規則で縛るタイプの典型的な人なのです。この姪(パレアナ)を引き取ったのも愛情からで゛はなく「叔母としての義務」からだ、といってはばかりません。もう義務感でかっちんかっちん。義務感にどっぷりつかって生活をしている、といった感じです。

彼女はお世辞でも「可愛いから引き取った」といえない人なのです。照らいが強く自分の心を素直に表せない、自分の心を外に出すのが恐い弱い人なんです。それなりの深い事情はあるんですが、ここではふれません。とにかく叔母さんは自分を偽っている。その偽っている自分にも気づかないぐらいに体質になってしまっているんですね。

 この本の前半は、この叔母の体質化している(内心を隠すためのお化粧の役目の)義務感と、辛い状況から無理して喜びを探そうとするパレアナの未熟な喜びのゲーム。この勝負なのです。パレアナには自分の無理(つまり自分を偽っていること)がわかる感性がある。一方の叔母の規則ゲームには年期が入っていて、真実化してしまっている。

 うそと真実とでは必ず真実が勝つ、というのが原理です。勝負は自分を偽っている分(あるいは場合)パレアナの負け、ということになるわけです。

 パレアナが叔母の彼女の厚い心のお化粧を溶かすことができるのは、彼女自身の成長をもう少し待つことになります。それまでは、読者は、この叔母の「義務(いびり)」にパレアナとともに泣くことになりましょう。
 次回はこの「義務」について考えてみることにしましょう。

「真・パレアナの研究-6」

 「まあ、パレー叔母さん 、 パレー叔母さん それではわたしはまるで時間がありませんわ。ー生きるための」

 学校、音楽、叔母に本を読んで聞かせること、お料理、裁縫を義務つけられたパレアナの悲鳴です。以下本文をそのまま追ってみましょう。

 「生きるためって、おまえ!それはいったいどういう意味?それじゃあ、おまえは死んでいたのかい?」
「こういうことばかりしていたって呼吸(いき)はしていますよ。でもそれじゃ生きていることにはなりませんわ。眠っているときだって呼吸はしていますものね。生きているってことはー自分の好きなことことをすることが生きることです。戸外(そと)で遊んだり、本を読んだり(自分一人でですよ)、山にのぼったり、庭男のトム爺と話したり、ナンシーとも話すんです。きのう通ってきたきたあのきれいな町の中の家だの人だの、そのほか、なんでも見て歩くの、それが生きていることなのです、パレー叔母さん。呼吸しているだけじゃ生きていることになりませんわ」(エレナポーター著「少女パレアナ」村岡花子訳 角川文庫 P54より抜粋、傍線田上)

 ここで注目すべきことは、生きることの意味です。以下、パレアナのいう「生きること」と叔母の言う義務とか責任とかいうその反対概念、すなわち「生きていない(死)」とのやりとりが続き、私たちは「生きることの意味」につてい深く考えることになります。

 いろんな受け取り方ができるわけですが、パレアナは人の押しつけではなく、自分の意志で自在に分別して生きることを、ここで「生きる」と理解していることです。その前提には、「本来生きることは楽しいこと」という真理があります。自分で分別、自分の脳で判断し意志決定した場合は、少々のことなら楽しくチャレンジできるでしょう。同じことでも人から言われたら、いや!。そんな経験ありませんか。これをへそ曲がりといいますが、本当はそうではないのです。

 脳の動きからいうと、他人から言われたら抵抗が発生し、自分の意志からの行動と違って、他人からの指示で動くのには、抵抗(拒否反応といいます。輸血の場合と同じです)が発生するのは極く自然なことなのです。

 ですからパレアナのこの発言を素直ではない、とかわがままとか受け取った人がおられたら、ご自分が小さいときから親とか他人から素直と言われ、無意識に素直を演じて大人になった方なのですね。何かと人頼りの人もそうですよ。

さあ、パレアナからみてあなたは生きていますか、あなたの子供さんはいかがでしょう。そして生きているはずの私たちを殺しているのは、誰なのでしょう。何になのでしょう。そんなことを考えながら北国の降りしきる雪を眺めていました。ふと気づいたら部屋は真っ暗になっています。なんと3時間もぼっーとしていたことになります。

 考えてみればこんな時間を持てたのは本当に久しぶりでした。これこそ「生きている」ことそのものではないか、となんだかものすごくぜいたくな時間を過ごした気がしたのです。

 ではルールとか規則といったものは悪で、害で、不必要ないものなのでしょうか。とんでもない。それは善でもあり、有益でもであり、必要不可欠なものでもあるんです。もし、サッカーや野球、相撲と言ったスポーツに、あるいはいろんなゲームにルールがなかったとしたら、そのものが成り立たなくなりますよね。社会生活だって、程度の問題は別にして、ルールや規則は不可欠ですし、義務だって大切なことなんです。

 身近な例では、交通信号があります。急いでいるときは「何で車走っていないのに、停まらなければならないのだろう」と思ったりしますが、その信号機が故障でもしたことなら、大変困りますよね。 

 私事ですが、ときどき新聞社や出版社から原稿頼まれて書いているわけですが、必ず締切があるんですね。いつも思うわけですよ。この締切りがなかったらどんなに楽しかろうと。ところが、断定してもいいことですが、私は怠け者ですから、締切なければまず原稿など書きませんね。また締切がなければ、書き上げたときのあの解放感は味わえないことも実感しています。

 義務やルールに縛られるな、と言ったり、義務は不可欠と言ったり、しているが、おかしいじゃないか。矛盾じゃないのか?と叱られそうですが、そのことにふれる前に物語を追ってみることにしましょう。

 ミスパレー叔母さんの「規則、規則」に戸惑うことはありましたが一日、一日が楽しい日でした。気むずかしいスノー夫人もパレアナにかかっては自分が寝たっきりの病人であることを忘れさてしまうような浮き浮きした気分にさせられてしまいます。

 この話に中には素晴らしい教訓が含まれています(後ほどふれてみたいと思います)が、ここではもう少し「規則」の話を続けてみたいと思います。
 毎日が楽しくてしょうがないという自分の気持ちをパレアナはパレー叔母さんに言うわけです。
 ところが叔母さんの返事はこうです。

 「けっこうだね、パレアナ、楽しい毎日だということでわたしもありがたいよ。だが、楽しいだけでなく、役に立つ毎日だろうね。ーそうでないと、私の義務はすまないからね」

 さあ、これ以下のやりとりはすごいです。私たちに生きるとはどういうことか、生きることの中で何が大切なのかを考えさせてくれます。特に躾、躾、と難しい顔をして子どもさんを目で追っている世のお父さん、お母さんには、ここの所はじゅっくり考えながら読んで欲しいです。


「真・パレアナの研究-7」

 著者は「少女パレアナ」の6章「義務の問題」から10章「スノー夫人の驚き」で、私達にバイブルや仏教書等万巻の書が説きたいものすごく奥深い大切なことを、ここで伝えたたかったようです。

 パレアナの朝の挨拶はパレー叔母さんの首に飛びつくことです。彼女はそんな形で自分が生きていることの嬉しさ、喜びを全身で表現しているわけです。と同時に「私は叔母さんを好きよ」ということも伝えているのです。

 犬の場合がそうですね。尾をちぎれるばかりにふって飛びついてきますよね。犬を好きな人ならこれが彼なりの精一杯の愛情の表現だとわかりますが、そうでない人にとっては戸惑いです。
 ましてや汚れ足で自分の衣服でも汚されでもしたら怒りさえ覚えるでしょう。それで犬がそんなことをしないように躾けることを考えます。

 パレー叔母さんもまったくそうです。彼女にはパレアナのこの喜びの表現がわからない。伝わってこないのです。なぜなら彼女はその今の表現、具象体そのままを感性でみることはせず、過去蓄積した価値観、義務とか規則というものとの比較を理性で行っているのです。これを分別といいます。
その分別の結果「これがおはようの挨拶ですか?」ととがめるわけです。つまりミスパレーの頭の中には、挨拶とはこうあらねばならない、いうモデル(マニュアル)があ利、それで分別しているのです。そしてそのとおりでなければ(自分が)困るから、それをやれるよう躾けることがパレアナに対する義務だと思っているわけです。

 「自分(叔母)が困るからではなく、ちゃんとした挨拶を躾ておかないと姪のパレアナが困るからではないのですか?私も自分の子供の挨拶にはきびしいですよ。挨拶一つ出来ないようでは本人が将来困りますからね。それは母としての子供への愛情であって、自分のためってそんなことないですよ」といった声が聞こえてきそうです。

 もう少し考えてみましょうか。義務とか規則とかで人を縛る人は、実は自分自身が義務とか規則に縛られている人なのです。縛られているから人の動きや事物の現象から、喜んでいる、悲しんでいる、好意を持っている、悪感情を持っているなどのメッセージを読みとることができにくくなるのです。

それだけではありません。自分の考えや行動の基準になっているもの以外は受け付けにくくなったり、反発したりするわけです。さらに自分のこれらの物尺を強化するために、いっそう周囲の人にそれを強いる傾向もあります。他の人が自分の思うとおりやらないと自分自身の分別の物尺がぐらつき不安に駆られます。それらを無意識に防いでいるわけです。
ここでいう「(自分が)困る」ということは、そういう意味だと理解したいのです。




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