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「ジャッドンたのうえ気まぐれ雑感帳」

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2012.06.01 楽天プロフィール Add to Google XML

「信用しなければ騙されない」

 

 

「この株は絶対儲かるから、十万なんてハシタ金ではなく

百万円出しなさいよ。軽く見ても倍になって戻ってくるのだから」、

 

と言う証券セールスマンに、中には「そりゃ,すごい!」,

戻ってくるお金を頭に浮かべて、興奮、大金を投じて・・・

といった被害に遭う、といった事件が後を絶ちません。

 

倍の儲けを反対側から見たら、倍の損になるのは、

先に話した〈山と谷の絵〉とまったく同じことなのです。

 

が、それが1に、犬が猫に、猫がお金に変わる

2に、今が、将来(さき)といったように時間軸をずらす。

と、見えない。置き換えができにくい。

 

彼らはそこを利用しているのです。

 

 

ところが大抵の人は、今の、示された方向、

それもほとんどは、自分の立場からしか見ないから、

自分が百万円なりを儲かる方からだけを考えてしまう。

 

仮に百万円が儲かるとしたとしたら、その反対側には損をした人がいる。

この人は、自分以外にも同じことを言っているに違いない。

 

この人も、儲かる話を人にしているぐらいだから、

しこたま儲かるのであろう。

ならば、そのお金は・・・・・。

 

かりにこの投資で、自分が百万円損したとしたら、

そのお金が彼の懐に、といったように、想像をあれこれ広げる。

 

つまり、1に「自分が」、2に「儲かる」、といった片面思考の意識を

あれこれ分散してみる。

これを、脳力開発では「多角的に考える」と言っています。

 

 

「私はだまされた」と嘆く人は、

その人、そのことを信用した人が言うせりふです。

つまり、因が「信用したこと」、果が「騙されたこと。

信用しなければ、騙された、という結果は

存在しないということです。

 

だから信用しなければ良いのです。

「おや?」って思われるかも知れませんが、それは明日。

 

 



Last updated  2012.06.01 08:38:03
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2012.05.31

「わかっちゃいるけど、やりゃしない」

 

 

山と谷の話の続きです。

 

さて今度は大きい山を二つ連ねたものと、

先に述べた大と小の2つの山、

 

この二つを見比べてみてください。

どんなことに気づくでしょうか。

 

ここで、紙に書き出して眺めてみてください。

行動しなければ分からないと思いますよ。

(TV「相棒」の右京さんの名台詞です)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

さて、いかがでしょうか。

山が大きくなることで、「谷が深くなっている」、

というところに気づく方は、

 

1に、行動する習慣のある人。

2に、脳力開発でいう両面思考が身についている。

 

今度は、低い山も二つ並べ、谷を比べて見たらどうでしょう。

 

山が大きければ、谷も大きい。

谷が小さければ小さい山になります。

 

 

「当然じゃないか」と言われるでしょうが、

この当り前のことが、実は分かっていない。

 

分かっていないと言うことは、知っていても使えない。

使えるには、次の3つの条件が不可欠なのです。

1に、学んだこと自体に普遍性が存在していること。

2に、置き換えが出来ると判断すること。

3に、実際に置き換えの行動を取ること。

 

昔、植木等さんが「わかっちゃいるけど、やめられない」、

を私は、置き換えて「わかっちゃいるけど、やりゃしない」

と言っています。

 

分かっていても、使わない、使えないから、

不幸や悲劇も含めた多くのあれこれが起こることになるのです。

 

 



Last updated  2012.05.31 08:43:28
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2012.05.30

ここに根本あり

 

唐突ですが、ここで「谷」の絵を描いてみて下さい。

 

たぶんVのような形になるでしょう。

ではそれを逆に向けたら谷に見えますか。見えませんね。

 


「どうしてできないの」と叱るお母さん。

「俺の言うことがまだ分からないのか」と怒鳴る社長。

 

こうしたケースから、

「そうか、自分の立場が相手に伝わらない理由はここにあったのか」

と、納得していただけたでしょうか。

今度は山を描いてみましょう。

でも反対から見たら谷に見えますね。

「相手の立場立って...」と口でいくら言っても分からない

ということを理解されましたか。

実際に動いて反対の位置に立ち、そこから見る以外に出来ないことを

口先で済ませるから、口だけの人と言われるのです。

 

それでは次に大きい山を描いて下さい。

「ハ」と描いただけでは大きいことが分かりませんから、

大きい山を表現するには、そばに小さい山が必要ですね。

 

そこで「へ」のように描くことになります。

この絵で「山が大きいのは小さい山のおかげだ」と気づき、

また「大きい」と胸を張っても、もっと大きいのが現われたら、

小さいと言われる。

だから、「他と比較して威張ることなどないぞ」、

と理解できれば、いつも謙虚でいられます。

 

昔々例ですが、元たのきんトリオの一人が、

「俺はビッグだ」と公言。

以来、仕事が入らなくなったという話があります。

 

この発言が原因と言うより、

自分の大きさを自分一人で決める人は、

他人との係わりに気付かない人ですから、

人間関係で孤立してしまい、

行き詰まったということなのではないでしょうか。

 

人との関わり、物事との関係、つまり「自分」の存在そのものは、

自分以外との関わりである、ということ。

ここに根本ありです。



Last updated  2012.05.30 08:33:07
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2012.05.29

「みなさん、割あう方へ」

 

「鬼さん、手の鳴る方へ」という唄がある。

 

私は「みなさん、割あう方へ」と謳いたい。

 

 

 さいわい情報開示の流れも含めて、露顕される機会は、

かってと対比したら比較にならないぐらい増えてきている。

しかも、ツイッターやフェイスブックなどを通じて、

その露見された内容は瞬時に拡散されていくのである。

 

そこで、1つに、その本能を抑制する力がない企業は、

間違いなく組織外の一般消費者などの位置する社会から忌避され、

自らの首を絞め組織崩壊を招く大きなリスクを抱えている

このことを周知認識させる。

 

2にそれを前提に、露顕を企業が防ぐことは不可能とする

社会的牽制制度(ソーシァルチェックシステム)を確立すること。

 

この2つの流れを確立すれば、ことを起し、

隠したらいっそう損失が増えるという図式が定着すれば、

むろんそれでもやる者がゼロになるとはいわないが、

確実に減少する。

 

 

ということで、こう書けばなんだか難しく見えるが、

要は自分にとって、会社にとって、

「割りのあわないこと」、

という認識を持てるようにすればいいのである。

 

「割りのあわないこと」を本能的に嫌うのが、

人であり、とりわけ企業経営者なのだから。

 

 割りのあわない論理を捨て、割りの良い論理と入れ換える。

ここに、私が、「消費者中心主義を提唱した狙いがある。

 

企業が{永統的な}繁栄を真に望むのであれば、

「企業の諭理」を捨て、「消費者中心の諭理」に転換を図り、

社内体制を「お客様本位体制」へギャチェンジする。

 

この方が割に合うとなれば、

企業はこぞって私の提唱へ移行するに違いない。

 

なぜなら「割りが合うこと」を欲しがるのも、

企業と経営者の本能なのだから。(了)

 

 

 



Last updated  2012.05.29 08:12:35
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2012.05.28

それ、割が合わないこと。

 

この「露顕さえしなかったら、その方が得じゃないか」

という意識が、これが発覚したら、我が社は大変ことになる、

自分は破滅する、といった将来(さき)の危惧を上回る。

 

嬉しいことは少しでも早いが良い。

嬉しくないことは先送り、といった

意識は、人誰しも持っている。

 

だからこそ、ここは、

情ではなく理を重んじる企業経営だからこそ、

「長い目で見てどっちが得、どっちが損」、

といった合理性で判断すればいいはずである。

 

ところが、企業が判断するのではなく、

実際は人が判断しているのであるから

人が判断する限り、嬉しいことは少しでも早いが良い。

嬉しくないことは先送り、といったことになってしまうのである。

 

 

私は「企業の諭理」と称し、

その実、本当のところは自分の目先の損得で判断し、

その責任を企業に被せ、責任転換する「場」といったことが、

人の心に存在している限り、短期的、組織内的に

生産性。合理性が上がることであれば、

その判断に流れて行動してしまうことは

避けられないのではないか、と思う。

 

加えて、長期戦略でものを判断できる経営者、

そもそも戦略思考が苦手とされる日本人である、といったことを考えると、

もうそのことを避けさせることは期待できない、

とすら私は考えている。

 

あるいは、このこと企業の持つ本来、いや人の本能であり、

それを人の意識能力で抑えるには限界がある、と考えている。

 

だから、その点を認めた上でどんな些細なことであろうと

間違いなく露顕することも、また大いに確認し合い、認める。

 

その上で、当然、確実にそうした企業(=人)の隠し事が

例外なく、間違いなく露顕する社会的仕組み、

すなわち、ソーシャルチェックシステム等をきちんと作り、

また、各企業内にも内部牽制制度(インターナルチェックシステム)を

確立することで、企業犯罪を起こした企業、個人は現行より、

広くより厳しい社会的制裁を課する。

 

このことで、企業にとつて、人にとって、

こうしたことは到底、「割りのあわないこと」という

強い認識を浸透させることだ、と私は提言したいのだ。

 



Last updated  2012.05.28 07:43:51
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2012.05.26

みんなで渡っても赤信号

 

 

「万全を期して」の対策が、まったく無効、

と私は、断言的に書いた。

 

これまで私は新聞や雑誌を通じ幾度となく、

「企業論理が行動規範である限り企業に学習効果は機能しない」

と、言い続けてきている。

 

 その根拠は、

1に、それら企業の不祥事に共通する根本原因は、

倫理感の欠如というより、その個人の倫理観すら支配する

"企業の論理"そのものにあると、私は確信しているからである。

2に、その"企業の論理"は、それを司る人達の欲望の凝縮体。

欲望自体を云々というのではなく、人の責任転嫁先としてダミー体

的存在であるところを問題視してのこと。

 

この2点である。

 

 

その自らの倫理観をも押し殺して、

企業のために「企業の諭理」による思考と行動を優先させたことが、

少なくとも(一過性の)成果なり生産性を上げたことは事実である。

 

しかし、それ「一過性の」と(  )を付けたのは、

「今までのところ」という限定付きである、という意味である。

 

このことをけろりと忘れ、あるいは無視しての結果である。

 

 

万引きも、詐欺も、窃盗も、そして偽装工作も、そのことが永遠に

露顕しなければという条件付き、

それに自分の良心の呵責といった、倫理・道徳問題を抜きにしたら、

まちがいなく成果なり生産性を上げ得る。

 

これを、「結果(良し)論」という。

 

 

一人の目より、その他の目の数が多いから

いかなる隠し事もいつしか必ず、露顕する。

そして、そのことは、まず氷山の一角とみられ、

他の企業まで及ぶことすら少なくはない。

 

その結果、結局は企業のピンチを招き、企業生命を短くしてしまう。

 

 

怖いことは、こうした露顕さえしなければ、という考えである。

またこれぐらいは、足ししたことない、

どこでもやっていること、という考えである。

 

赤信号は皆で渡ろうと、一人で渡ろうと、

青信号よりリスクは多いことを忘れている。



Last updated  2012.05.26 09:51:10
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2012.05.25

企業倫理は一種のすり替え

   

 

企業に「倫理観があるか?」

と、問われれば、私は即答で「ない」と答える。

 

理由は、簡単明瞭だ。倫理観とは、人に関わるもので、

人ではない企業には元々心、意志の?は存在していないからだ。

存在していないものに、その機能や責任を求めることはできない。

 

 

あくまで、企業に求められる倫理とは、その企業の構成している人、

とりわけ人たる経営陣に対してである。

 

企業が悪いことをなした、ということは

その企業構成員が{悪いことを成した、

という一種のすり替えであるといえる。

 

こうしたことを念頭に置き、企業犯罪に関し考える事を記して見たい。

 

 

この今ほど、企業中心主義、企業の諭理から、

消費者中心主義、すなわち消費者の側に立って

ものごとを考え、消費者の願望、喜ぶこと、幸せ、

といったことに、我が社としてどう貢献できるか、

といった思考と行動への切替えが企業の存続と

そこで働く者の幸福のために望まれる時はない、と考える。

 

 

 

 では、なぜ消費者中心主義なのか。

 

これまでおびただしい企業犯罪が発生している。

犯罪として表に出なかったものも含めると、すごい数になろうかと思う。

 

そのたびに「二度とこのようなことが起きないように、万全を期し・・・」

と、トップが身体を直角に折り曲げ、お詫びをする姿を私たちは、

幾度となく見てきている。

 

こうしたことは、企業行動の暴走を牽制する意味での

企業倫理や人間としての道徳的間題で諭じたとしても、

なくならない。けして。

そして、これからも同様の不祥事が繰り返される、

であろうと私は思っている。

 

その根拠は、「これまでがそうだったから」である。

何度、「遺憾、二度とこのようなこと

は」といったことが白々しいセリフをきかされたか。

 

 「万全を期して」の対策が、まったく無効であることは、

だれしも容易に理解できる。(続く)

 



Last updated  2012.05.25 08:44:21
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2012.05.24

蘭からラーンしたこと。

 

以下のこと。

蘭から学んだこと。もちろん、いまは水谷豊さんの奥さんである

伊藤 蘭さんのことではない。

 

隣の老犬、蘭のこと。

 

 

1に、経営者と現場との乖離を詰める。

   あるいは現場と経営者との乖離を詰める

2に、あるべき姿と、今の実際との乖離を詰める

 

 

乖離を詰める、ということを考えていたとき

たまたま隣の老犬 蘭が、我が家の猫の額を横切るのがみえた。

 

その姿を見て、ふと、いやはっと思った。

 

動物が前足に,後ろ足を寄せることで前に進む、

これ、乖離を詰める、ということではないか。

 

前足が大地を掴む。これがなければ後ろ足は役に立たない。

 

大地を掴んだ前足に、後ろ足を寄せる。これで身体が丸くなり

バネ化する。それで次に、後ろ足が大地を抑え、

前足と身体が前にバネのごとく前に跳ねる。

 

この繰り返しが前に進む、ということだ。

 

4つ足の場合、前足が先に前に進むことはありえない。

たちまち身体は伸び上がって、いわゆる死に体の状態になる。

 

4つ足のメリットは、スピードある前進力にある。

 

一方、デメリットは、次の2点。

1に、彼らは後進はできない。

前足も後ろ足も、先に挙げた動作を、後ろに向けてはできないからだ。

 

2に前足なしでは、前に進めない.後ろ足だけでは前に進めない。

 

蘭と同じく、昔々その昔には、4つ足であった人間は、

そうしたことに気がついたのだろうか。

それとも、偶然か何かで立つことによってそれを知ったのか。

 

前足を使わず、(後)足で前に進む。

そして,ここだ。ここがポイントだ。

それは・・・・・。

 

 前足を捨てることによって,

他の動物と、大きく差別化できる道具となって、手。

それも専用の手。この最高のメリットを得たということ。

 



Last updated  2012.05.24 09:44:31
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2012.05.23

乖離が前進を生む!

まずは現場だ。現場を実際に見る
わからなくとも、現場を見る。

そうした上で、
まずは現場の人の話も聞かずに
現場を見る。

それから人のヒヤリングだ。
それも現場の人の話が先だ。優先だ。

この順序がキーだ。間違えてはならない。
できれば役付けではない、その現場、現場の担当者、
ヒラがいれば、ヒラをさきに、パートがいればパートから、
監視人付きの,意見交換会など、この場合なんの役にもたたない。


現場は嘘をつかないが、人は時として嘘をつく。
飾る。形容詞を付ける.繕うからだ。
これは、階層の上に行けば行くほど、その傾向が強くなるからだ


こうして現場から、そして組織の階層から順に上に。
そして現場と経営者の乖離、ズレを把握し、このズレ等こそ
問題ではないか。それはどこから来ているのか、
といった仮説を立てつつ、上に、上にと、
この疑問を投げかけていくといったアプローチを採る。

理由は、すでに述べているが、事実はあらゆる縛りから
解放されたところに存在するからである。

次に、これを言い換えてみる。

理想と現実との乖離の把握とその解消
言っていることと実際との乖離の把握とその解消
建前と本音との乖離の把握とその解消
経営者と現場との乖離の把握とその解消



つまりあるべき姿と、今の実際との乖離、

これをありのままに把握することが、ヒヤリングである。

1に、経営者と現場との乖離を詰める。
   あるいは現場と経営者との乖離を詰める
2に、あるべき姿と、今の実際との乖離を詰める

これは、動物が前足に,後ろ足を寄せることで,
前に進む、ことをイメージしたらわかりやすいのではないか。




Last updated  2012.05.23 08:52:22
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2012.05.22

理論と現実のズレ

 

 

「理論と現実はちがうよ」とよく商店主はいう。

そのとおりだと思う。

 

その違いの責任は、往々にして理論にある。

元来、現場現象で機能的に得たものの中から、

一定の普遍的法則性を持つものを法則とし、それに

理屈を体系的に纏めたもの、これが理論である。

 

普遍性があるのだが,世の変化、進歩につれて、理論は

現実とのずれが生じる。

 

だからたとえば大会社の経営者や学者が、

現場の者に向かって、「理論と現実はちがうよ」

ということは、まずなかろう。

 

ここに理論と現実の対峙、乖離、ズレが生じる因がある。

このことはある意味で必然的で避けられないこと。

あって当然、あって良しなのだが、

問題はその理論自体が保守的な縛りとなって、

理論にあわない現実を直視もせず、言下に否定する論者の存在である。

 

 

演繹手法は、理論、原理原則に照らして現象をみるのだが、

それでも,現象を原理現象に縛られず,偏見を持たずに、

穏やかに素直に現象を直視する姿勢を崩してはならないのである。

 

 

なにごとであれ現場を知らずして、改善を説き、指導することは難しい。

それは言葉だけを「支援」と置き換えても同じことである。

事実がみえないところに,改善が見えるはずがないからである。

 

 私は、経営改善を図るのに、

自分の思っている、あるいは用意した理論、原理原則は、

実際の現場を見るときには邪魔になると考えている。

で、可能な限り虚心坦懐を心がけるようにしている。

と書けば、偉そうに、また難しく取られそうだが、

要は何も知らない素人、バカ、子供になって望む、ということだ。

 

 

と同時に,現場を見る前にヒヤリングをすることはない。

経営者のいうあれこれも、ここだけの話、本当のところ、

実のところあえて聞き流すように心がけている。

 

まずは現場を見る   まずは現場の人の話も聞かずに

現場を見る。

 

それからヒヤリングだ。

 



Last updated  2012.05.22 08:49:09
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