翌朝、エレーナは笑顔を家族に浮かべると、コーヒーを飲んだ。
「エレーナ、気をつけて行くんだよ。」
「わかったわ、姉さん。」
「大丈夫か、エレーナ? 昨夜は啜り泣きが聞こえたぞ。」
シャルルはそう言ってエレーナの肩を叩いた。
「大丈夫と言えば嘘になるわ。でも、泣いてなんかいられないじゃない。患者さん達の前で弱気になんかなれないわ。」
「お前は強いね、エレーナ。」
「ありがとう、兄さん。」
エレーナはそう言うと、シャルルの頬にキスをした。
「じゃぁ、行ってくるわね。」
エレーナはコートを羽織り、シャルルとナジャリスタに向かって微笑むとリビングから出て行った。
「今日は遅くなるだろうけど、必ず帰ってくるわ。特別な日だから。」
彼女はドアの前でゆっくりと兄達と両親に振り向くと、再度微笑んでそう言って家から出て行った。
「さてと、あたしはシャワーを浴びて寝るとするかね。筋肉が強張っちまって痛いのなんのって。」
ナジャリスタは首を回しながら浴室へと向かった。
シャルルは少し妹が心配で、彼女の実習先の病院へと向かうことにした。
外は凍えるような寒さで、前日まで降っていた雪がサラエボの街を白く染めていた。
白い息を吐きながら、シャルルは何だか嫌な予感がした。
石畳の路地を歩くと、壁に夥しい弾痕が残り、罪なき市民達が命を落とした場所には、真紅の薔薇が咲いていた。
(いつまで続くんだ、この無益な戦争は!)
民族対立と宗教対立という、複雑な問題により勃発した内戦。
そのゴールは、戦争という闇の果てには光が見えるのか。
いつになったら、砲弾や銃弾に怯えずに済む日々が来るのか。
(わたし達は、これからどうすればいいんだ?)
物思いに耽りながらシャルルがエレーナの病院がある地区へと差しかかった時、ゴシック様式の大聖堂の鐘楼から鐘の音が鳴り響いた。
(エレーナ、今朝は何も食べていなかったな。)
エレーナの為に作ったサンドイッチが入った紙袋を握り締めながら、シャルルは病院が見えて来たのでほっとして歩を緩めた。
その時、大聖堂から突如轟音が響いた。
天地がひっくり返るかのような激しい揺れと、熱を孕んだ爆風がシャルルに襲い掛かり、彼は咄嗟に地面に蹲った。
(なんだ・・?)
シャルルが背後を振り向くと、そこには壮麗な大聖堂が瓦礫の塊と化していた。
その中には、人の形すらしていない死者達の肉片が散らばり、黒煙が上がっていた。
「エレーナ!」
病院へと向かうと、そこは阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていた。
白衣の医師や看護師が慌ただしく砲撃の被害者に対して治療を施していた。
その中には、額の汗を拭う間もなく忙しく動き回っているエレーナの姿があった。
彼女が無事だと判ったシャルルは、ほっと安堵の表情を浮かべながら病院から出て行った。
「シャルル、病院の近くの大聖堂が・・」
「知ってる。エレーナは無事だ、ナジャリスタ。」
「そうか、良かった。それにしてもハプスブルクとセルビアの野郎、ふざけた真似しやがって!」
ナジャリスタは苛立ちをぶつけるかのように、壁を殴った。
「もうここには住めない。確かスウェーデンに父さんの親戚が居るよな?」
「ああ。ここからさっさと避難しないと、あたしら殺されちまう!」
その夜、シャルル達は両親とエレーナに海外へ亡命することを話した。
「出来るだけ早い方がいい。ここで無駄死にするよりはマシだろう?」
シャルルの意見に両親は賛成したが、エレーナだけは首を縦に振らなかった。
「わたしはここで多くの傷ついた人達を助けたいの! わたし1人だけ逃げるなんて卑怯な事、出来ないわ!」
そう叫んだエレーナの瞳には、真摯な光が宿っていた。
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