「な、なんなの!?」
突然自分を床に組み敷いた大男をエレーナが見上げると、彼はにやりと笑い舌なめずりをしながら、白衣に包まれた彼女の身体を見た。
男の顔を見た瞬間、彼が自分に何をしようとするのかが判った。
「止めて、離して!」
『静かにしろ、殺されたいのか!』
男はドイツ語でそう叫ぶと、エレーナを平手で殴った。
彼女の口端が切れ、そこから血が滲んだ。
男の手がエレーナの白衣を容赦なく引き裂いた。
(助けて、兄さん・・)
潤んだエメラルドの瞳の端から、涙が一筋流れた。
「エレーナ、エレーナ!」
目の前で敵兵に凌辱される親友を見ながらも、ナターシャは別の敵兵に羽交い絞めにされ、為す術もなかった。
(ごめんねエレーナ、わたしがもっと強ければこいつらをこの場で殺せるのに!)
ナターシャは俯き、自分の不甲斐なさに涙を流した。
悪夢のような時間が過ぎ去り、エレーナは虚ろな目で病院の白い天井を見上げた。
一体何人もの男に凌辱されただろうか?
もう涙も出ない程、自分の心は壊れてしまった。
まだ神がこんな状態の自分に生きろというのなら、いっそこの場で殺して欲しいとエレーナは思った。
視線の端に、ナイフの刃が煌めいたかと思うと、腹部に激痛が走った。
『ここはもう制圧したな。』
『ああ。』
ハプスブルク帝国軍兵士達数人はそう言うと、病院から立ち去った。
そこには、罪なき市民達の死体が散らばっていた。
「エレーナ、エレーナ、何処だ!?」
ハプスブルク帝国軍が砲撃を開始し、シャルルとナジャリスタが市街戦を繰り広げていた時、エレーナが居る病院が敵の砲撃を受けたと聞いたシャルルが病院へと向かうと、そこには瓦礫の残骸と死体が散らばっていた。
「エレーナ、何処だ!?」
半狂乱になりながらも、シャルルは瓦礫を掻き分けて必死に妹を探した。
彼女は、待合室の近くで倒れていた。
「エレーナ、しっかりしろ!」
シャルルはエレーナの白衣を緋に染めている血を見ると、彼女を激しく揺さ振った。
「兄さん・・ごめんね・・」
朦朧とした意識の中で、エレーナはエメラルドの瞳を涙で潤ませながらそう言うと、シャルルを見つめた。
「絶対に助けてやるからな! だから死ぬな!」
「わたし、幸せだった・・」
エレーナはシャルルの頬を撫でると、シャルルは彼女の手を握り締めた。
「いつも守ってくれてありがとう兄さん・・愛してるわ・・」
エレーナはそう言って笑顔を浮かべると、静かに息を引き取った。
「エレーナ?」
シャルルはまだ妹の死が信じられず、何度も彼女の手を握った。
それはまだ温かいのに、自分の手を握り返してはくれない。
シャルルはじっと彼女が目を開けるのを待ったが、いつまで経っても彼女は起きなかった。
もう二度と、あの宝石のような瞳を開くことはなかった。
「嘘だ・・」
シャルルは傷ついた獣のような叫び声を上げ、エレーナの遺体を抱き締めた。
(許さない・・妹を、この国を滅茶苦茶にした奴らを、わたしは絶対に許さない!)
琥珀色の瞳に憎しみを滾らせながら、シャルルは復讐の鬼と化した。
1999年7月―7年半もバルカン半島で繰り広げられた紛争は、漸く幕を閉じた。
この紛争の死者は約40万人にものぼり、その大半は民間人だった。
その中にはエレーナと彼女の両親、ナターシャも含まれていた。
(エレーナ、見ていておくれ・・絶対にお前の仇を討つからね・・)
妹の形見となった金鎖の先に繋がれた指輪を握り締めながら、緋に染まりゆく空をシャルルは見つめた。
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