風呂場から上がった千尋は、浴衣に袖を通した。
その時、脱衣所に一が入って来た。
「君が千尋君か?」
「ええ、そうですが。斎藤先生、わたくしに何かご用ですか?」
「別に。風呂に入りに来ただけだ。」
「わたくしはこれで失礼致します。」
千尋が一に頭を下げて脱衣所から出て行こうとすると、一は千尋の肩を掴んだ。
「先程の配膳といい、所作といい、全てにおいて隙がない。どこかの武家の出のようだ。」
「有難うございます。では。」
千尋は一に微笑むと、脱衣所から出て行った。
(あの男、油断ならない。)
先程自分を見た一の目は、獰猛(どうもう)な光を湛えていた。
あの男には気をつけなくては―千尋はそう思いながら、自分の部屋へと向かった。
「あ、戻って来た・・」
「何かいけない事でもあるのですか?」
千尋はそう言ってジロリと同室の少年を睨み付けると、彼は慌てて目を伏せた。
「あなた、お名前は?」
「え・・わたし、ですか?」
「他に誰が居るというのです?」
何故かこの少年を見ていると苛々して、千尋はつい厳しい口調になってしまう。
「筝之介(そうのすけ)、と申します。年は十五になります。」
「そうですか、わたくしと同じ年ですね。」
千尋は溜息を吐いて背後に立っている少年を見た。
「後ろに立たれると気が散ります。」
「あ、すいません・・」
「そんなに人に気を遣い過ぎなくても良いのですよ。気遣いのない方も相手を苛立たせますが、気の遣い過ぎも相手を苛立たせてしまいますよ。わたくしはあなたに関心はありませんから、あなたの勝手にしたらいいことです。」
冷淡な千尋の言葉に、少年―筝之介は微かに唇を噛み締めた。
だがそんな彼の様子に千尋は意も介さず、床に就いた。
夜の帳が下りた洛中は、昼間の喧騒で賑わいとは打って変わって人っ子一人おらず、静寂と闇に包まれていた。
稀に動くものがあっても、それは犬猫だけだ。
その闇の中をしゃなり、しゃなりと歩く男の足音がやけに響いた。
「約束の場所に時間通りやって来たな。」
「おいらは約束を守る男だからね。で、あの簪は例の美人さんに渡したぜ。次の手は?」
男はそう言って相手の顔を見た。
「お前が簪を渡した少年の名を探れ。あやつは我らに仇なす存在かもしれぬ。」
「承知。約束の金子も貰ったし、役者稼業の副業としちゃぁ美味しい仕事だからね。そいじゃぁ、また会いやしょう。」
男はそう言って相手の肩を叩くと、元来た道へと戻った。
「役者風情が・・」
侍は苦々しい声でそう呟くと、闇の中へと姿を消した。
総司は激しく咳き込む度に、身を屈めた。
池田屋で血を吐いた時から、この忌々しい咳と胸の苦しさは消えてくれない。
(まだわたしは戦えるのに・・どうして・・)
「眠れないのですか?」
不意に襖がすぅと開き、千尋が滑るように部屋の中へと入って来た。
「千尋君・・わたしは、いつまで生きられますか?」
「それはわたくしには解りません。それよりも副長の事で少しお話が。」
「土方さんの・・事で?」
「ええ。」
「実は、副長はわたくしと契約し、ある願いをわたくしにしました。」
「願いって、どんな・・」
「それは・・」
千尋が歳三との契約の事を話そうとして口を開こうとした時、部屋に突然一匹の狼が入って来た。
「沖田様、大丈夫です。この狼はわたくしと親しいのです。」
「親しい?」
千尋が獰猛な狼と戯れているのを、総司は唖然とした様子で見つめていた。
「土方さんは、あなたと何を契約したんですか?」
「今は話せません。きっと副長はあなたに知られたくない事ですから。」
千尋は意味深長な言葉を総司に投げつけると、彼の部屋から出て行った。
つづく
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