「そこへお座りなさい。」
突然の事態に驚き、目を丸くしている千尋に向かって、伊東はそう言って空いている座布団を扇子で指し示した。
「失礼致します。」
千尋は改めて座布団の上に座ると、伊東はじっと彼を見つめた。
「千尋君、君は入隊してから土方殿の部下として働いてきたとか。」
「はい・・それが何か?」
「そんな華奢な身体で長州と新選組の二重間者として働いているだなんて、感心するね。」
伊東の言葉に、千尋の顔が強張った。
(どうして・・この人はわたくしが二重間者だと・・)
「君の事は、少し調べさせて貰ったよ。」
伊東がそう言って自分の背後に控えている男に目配せすると、彼は何かの書状を伊東に手渡した。
「君はあの桂小五郎と昵懇の仲のようじゃないか?」
「わたくしに何を・・」
「何をって、君はわたしの手足となって働いて貰いたいんだ。桂との関係が表沙汰にされたくなければね。」
伊東はそう言って笑ったが、目は笑っていなかった。
彼は揺さ振りを掛けている。
伊東の誘いに乗らなければ、桂との関係が露見してしまう。
だが、伊東の側につけば歳三達を裏切ることになる。
「それは、出来ません・・」
千尋はそう言うと、さっと立ち上がって部屋から出ようとした。
「そうか。ならば仕方無いね。」
背後で鯉口を切る音が聞こえたかと思うと、背中に冷たい感触がした。
「伊東さん!」
「内海(うつみ)、唯脅しているだけだよ。まぁ、彼がわたしの誘いを断れば、腹の子もろともこの場で斬り伏せるけれどね。」
伊東の口調は冷静そのものだが、彼の瞳の奥には獲物を今にも仕留めんとする獰猛な獣の光が宿っていた。
「腹の子? 何をおっしゃっているんですか、伊東さん!」
内海と呼ばれた男は訳が解らないと言った顔で伊東と千尋を交互に見つめていた。
「内海、彼の着物を脱がせろ。そしたらわたしの言っている意味が解るだろう。」
伊東の言葉に従った内海は、千尋の袴の紐を解いた。
シュルリという音がして袴が脱がされ、伊東は満足気な笑みを浮かべながら千尋を見た。
「わたしがあなたを一目見てすぐに解りましたよ。あなたが稀有な存在だとね。」
「あなたは、何が望みなのですか?」
「わたしが望むのはただひとつ。この世を天子様が治める世にする事。あなたを誘ったのは、土方殿に君を人質にしたと宣言したようなものですよ。答えはもう出ているよねぇ?」
「わたくしの答えは変わりません。」
千尋は袴を穿くと、離れから飛び出していった。
「千尋さん、どうしたんですか? 顔色が悪いですよ?」
「何でもありません。」
昼餉の支度をしていると、筝之介は千尋の異変に気づき、彼に声を掛けたが、素っ気ない返事が返ってきたので、それ以上何も言わなかった。
千尋がご飯をお椀によそおうとした時、その臭いを嗅いで強烈な吐き気が胃の腑から湧きあがり、彼は慌てて口元を押さえて厠へと向かった。
激しい吐き気に何度も襲われ、千尋は朝食を全て戻してしまった。
厠を出て井戸で口を水で漱いでいると、再び吐き気が襲ってきた。
「千尋君、大丈夫ですか?」
たまたま井戸の近くを通りがかった総司が、そう言って背中を優しく擦ると、千尋がゆっくりと彼の方を振り向いた。
千尋の顔は、今の自分よりも蒼褪めていると総司は感じ、彼も同じ病に冒されているのではと思った。
「千尋君、まさか・・」
「いえ、先ほどから胃の調子が悪くて・・吐き気が治まったと思ったらまたぶり返してき
て・・」
「部屋で休んだ方が良いですよ。立てますか?」
「はい・・」
総司に肩を貸してもらいながら、千尋は覚束ない足取りで部屋へと向かった。
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