「赤ちゃんに会わせて、お願い!」
「落ち着いて下さい、赤ちゃんは無事ですよ。」
ソファから起き上がり、病室から出ようとしている美幸に、医師は慌てて彼女が産んだ赤ん坊の無事を告げた。
「嘘よ、赤ちゃんの顔を見るまで安心できないわ!」
「車椅子の用意を。」
看護師に車椅子に乗せられ、美幸はNICU(新生児特定集中治療室)に運ばれ、そこで我が子との対面を果たした。
「どうしてこの子はこんな所に居るの?」
「この子には生まれつき心臓に障碍を持っています。自発呼吸は出来ますが、今日が峠でしょう。」
「そんな・・」
待望の子どもが今死に掛けようとしている現実に、美幸は押しつぶされそうになった。
「誰かご家族の方と連絡がつきますか?」
美幸は夫に連絡しようと思ったが、彼がこの子を見たら拒絶するに決まっていると思い、首を横に振った。
両親は飛行機で2時間かかるところに住んでいて、今から連絡しても孫の死に目に間に合わないかもしれない。
「あの、わたしがいけないんでしょうか? わたしがこの子をおなかの中に居た時から大切にしなかったから、こんな・・」
「お母さんの所為ではありません。どうかご自分を責めないで、赤ちゃんが元気になるようにおっぱいをあげてください。」
「はい・・」
医師の言葉に励まされ、美幸は保育器の中に入っている我が子を見つめた。
(お母さんが守ってあげるからね。)
車椅子を看護師に押されながら美幸が病室へと戻ろうとした時、視線の隅にあのパン屋を営んでいる夫婦が見えた。
美幸と同じ日に妻が出産したらしく、彼女は生まれたばかりの赤ん坊を抱いて授乳しており、その傍らには彼女の夫が少し照れ臭そうにちらちらとその様子を見ていた。
ごく普通の、幸せそうな家族の風景―美幸には決して手に入らなかったものが、そこにはあった。
(わたしの赤ちゃんは死にかけてるのに、どうしてそんなに幸せそうなの?)
美幸の中で、夫婦に対する激しい嫉妬が渦巻いた。
美幸の息子は一命を取り留め、彼女は息子が早く元気になれるように、母乳を与えた。
その甲斐あってか息子は徐々に回復し、美幸と共に退院できたのは入院してから3ヶ月後のことだった。
「さぁ友哉、お家に帰りましょうね。」
病院のロビーでタクシーを待っている間、美幸はそう言って息子の小さな身体を揺らした。
彼はきゃっきゃっと甲高い声を上げながら笑った。
タクシーに乗り、美幸が息子・友哉とともに帰宅すると、家の中は荒れ果てていた。
「てめぇ、今まで何処行ってたんだよ?」
リビングのテーブルで突っ伏していた夫は、そう言うなり美幸の頬を張った。
「ごめんなさい、あなた・・今片付けますから・・」
「ったく、早くしろよ!」
美幸が床に散乱したごみを拾おうとした時、友哉が激しく泣き始めた。
「煩せぇぞ、黙らせろ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい・・」
「ったく金もねぇのに勝手にガキなんか産みやがって!」
夫はそう吐き捨てると、リビングから出て行った。
(どうしてわたしばっかりこんな目に遭うの?)
美幸の脳裡に、あの幸せそうなパン屋の夫婦の顔が浮かんだ。
夫に暴力を振るわれ、新しい家族を拒絶する彼と共に暮らしている自分が惨めだと思った。
そう思うのは、あの幸せな夫婦の所為だ―美幸は次第に己の境遇をパン屋の夫婦の所為にするようになった。
彼女は夫の暴力に怯えながらも、友哉の育児や家事をした。
だが赤ん坊の友哉は彼女の都合を考えず、本能のままに泣き、それが夫を苛立たせ、美幸の全身にはいつも青痣が出来ていた。
追い詰められた彼女は息子を連れて自殺しようと、車で夜の海岸線を彷徨った。
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