何者かによって千尋が使っている琵琶の弦が切れた事件が起きて一夜明け、なおは香鶴楼の全従業員を集めた。
「うちはこの件については犯人探しはせんよ。正直に名乗り出ればこん事は水に流す、それだけたい。」
煙管を咥えながら、なおはそう言って従業員達を見た。
だが、誰も名乗り出ることはなかった。
「もう仕事に戻ってもよか。」
「はい・・」
女達はそそくさと自分の持ち場へと戻って行った。
「一体誰やろうね、千尋ちゃんに嫌がらせしたとは?」
「さぁ、こん店の者ではないことは確かやね。」
二階の女郎部屋で、遊女達は煙管を咥えながらそう言って今回の事件の犯人について話していた。
「そういやぁ、こん店の主が女囲っとるって噂ば聞いたと。千尋ちゃんが将来女将さんの跡を継ぐけん、その妾がやったんやなかろうかね?」
「あやしかぁ。」
遊女達がそう言って笑った時、部屋の襖が荒々しく開いた。
「あんたら、何油売っとうとね! はよ稽古ば行かんね!」
なおが一喝すると、彼女達はそそくさと部屋から出て行った。
「おかあさん、お出かけですか?」
「ちょっと外に用事ばあると。あんたも出掛けるとね?」
「はい。」
千尋が卸したての振袖を纏っているのを見たなおは、彼女が男と会うことに気づいた。
「遅くならんようにしなさいよ。」
「行ってきます。」
千尋が香鶴楼から出ると、外には雪がはらりはらりと舞っていた。
番傘をさしながら彼女が丸山遊郭近くにあるカフェーへと入ると、そこには奥の席で珈琲を飲んでいる理哉の姿があった。
「お待たせいたしました。」
「いいよ、今来たところだし。」
「今日はあのお嬢様はいらっしゃらないのですか?」
「ああ、あの子なら東京に帰ったよ。一日観光できただけでも充分だって言ってね。」
「変わった方ですね。」
千尋がそう言って笑うと、理哉もそれにつられて笑った。
「ねぇ千尋ちゃん、どうして長崎(ここ)にいるの?」
「わたくしは、ロシアで意に沿わぬ結婚をさせられそうになったのです。それが嫌で逃げ出しました。ですが、長崎で全財産が入った鞄をひったくられて・・」
「そうか。土方さんの事だけど・・」
理哉の口から土方の名が出て、千尋の顔が強張った。
「あの人、再婚話が持ち上がってるんだ。お相手は斉川子爵家の令嬢・小枝子様。何でも、馬場で土方さんの凛々しい乗馬姿を見て一目ぼれしたとか。」
「そうなんですか・・」
総美に先立たれ、2人の子持ちでありながらも、土方はまだ27だ。
仕事も出来るし頭も切れる彼ならば、再婚話など山のようにあるだろうと千尋は思っていた。
だが、理哉からその事を聞いた途端、彼女は何故か涙を流していた。
「千尋ちゃん、どうしたの?」
理哉がそう言って慌ててハンカチを差し出した。
「いいえ、何でもありません・・」
「今日だけは、僕の胸を貸すよ。」
理哉は自分の胸を千尋に貸すと、彼女は押し殺した声で泣いた。
「あんた、あれあの子やなかね?」
愛人とともに散歩していた栄祐は、彼女の叫び声でちらりとカフェーの方を見た。
「千尋、話ばあるけん、俺の部屋に来んね。」
「はい、お父様。」
その夜、千尋が栄祐の部屋へと入ると、そこには険しい顔をした栄祐と、見知らぬ女が彼の隣に座っていた。
「お前、白昼堂々と男と抱き合っとったやろ?」
「春鶴楼の跡取り娘とあろうものが、恥ずかしくなかとね?」
謎の女がそう言って、じろりと千尋を睨んだ。
にほんブログ村