突然の香鶴楼の主・栄祐の訃報は、瞬く間に丸山中に知れ渡り、混乱の中通夜と告別式をなおと千尋は執り行った。
「これからどうなるんやろうねぇ、香鶴楼は。」
「なあに、女将さんもおるし、跡取り娘の千尋ちゃんもおるけん、大丈夫たい。」
「それにしても、栄祐さんが愛人と事故死やなんてぇ・・お天道様はちゃんと見とるんやねぇ。」
「悪い事は出来んねぇ。」
弔問の席で、栄祐の事を知っていた者達は、ひそひそとそう囁きながらなおの隣に座っている千尋を見た。
気立てが良く、芸事や立ち居振る舞いも完璧な彼女は、既に香鶴楼の若女将の器を持っていた。
「お母さん、どうぞ。」
「ありがとう。」
初七日の法要を終え、女将の部屋で千尋が茶を立てると、なおはその茶を美味そうに飲んだ。
「千尋、これからうちはあんたに香鶴楼の経営ば任せようと思うとるけど、あんたはどうね?」
「経営を、ですか?」
「うちももう歳たい。あん人みたいにポックリ逝くかもしれんから、その前にあんたに全てを任せようかと思うとるんよ。」
「お願い致します。」
こうして千尋は、なおの下で若女将として本格的に修行を行うこととなった。
女郎達や女中達の教育、彼女らに払う給与の管理や贔屓客への接待など、香鶴楼の女将としての仕事は山ほどあり、千尋は今まで以上に多忙を極める日々を送ったが、彼女は全く苦にはならなかった。
なぜなら彼女は、漸くここが己の居場所だと感じ始めたからだった。
ロゼ達と過ごした孤児院は炎で焼かれ、土方家を離れロシアで暮らし始めたが、ボコスロフスキー伯爵家には居場所がなく、そこから逃げ出して長崎へと辿り着き、なおの養女となって跡取り娘となった彼女にとって、春鶴楼は命そのものだった。
(旦那様・・お祖母様・・)
だが一人きりになると、どうしても千尋は自分を愛してくれた土方と、エカテリーナを思い出しては、彼らから贈られたナイフと指輪を眺めながら涙を流した。
そんな中、一人の客が春鶴楼にやって来た。
「いらっしゃいませ。」
なおとともに客を出迎えた千尋が顔を上げると、その客はじっと彼女を見た。
「君が、春鶴楼の若女将か?」
「はい。千尋と申します。」
「千尋・・良い名だね。わたしは土平上総(つちひらかずさ)、宜しく。」
そう言った客―土平伯爵家次期当主・上総は、春鶴楼の若女将に向かって切れ長の瞳を細めて笑った。
「土平様は、東京からおいでになられたのですか?」
「ああ、仕事でね。叔父たちは由緒正しき土平家の人間が商売をするなどとんでもないと目くじら立てていたが、いくら華族様といっても財政が火の車なら働かなければならないし・・その分、土方とか言う資産家は唸る程金を持っているから、家名が没落する心配をすることはなさそうだけれど。」
上総の形の良い唇から土方の名が出て、千尋は思わず酒を注ぐ手が震えた。
「どうしたんだい、千尋さん?」
「いえ・・昔、土方様と親しかったので。」
「そうか。最近斉川子爵家の小枝子様が土方を狙っているようだけれど、彼には全くその気がないとわたしは見たよ。彼はまだ愛しい人の帰りを待っているのさ。」
上総はそう言って酒を飲むと、溜息を吐いた。
「君が弾いた琵琶が聞きたいな。一曲頼むよ。」
「解りました。」
千尋はさっと座敷の壁に立て掛けてあった琵琶を握り、撥を握った。
「千尋ちゃんの琵琶は、いつ聞いてもよか音色やねぇ。」
「ありがとうございます、大川様。」
なおは贔屓筋の大川を接待しながら、跡取り娘の琵琶の音色に耳を澄ませた。
上総と千尋の出逢いが、彼女と土方を再び結びつける縁の糸を当人達が知らぬ間に、静かに紡ぎ始めた。
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