「奥様、今日はどのような御用件で?」
「千尋さん、こんな事を言うのは申し訳ないけれど・・椿の家庭教師は、今日限りにしてくださらないかしら?」
「え・・」
虚を突かれた千尋は、思わずるいを見てしまった。
「何処か至らない所がございましたか?」
「いいえ。個人的な事情だから、お気になさらないでね。椿もあなたには懐いていたし、わたくしとしてはあなたに暇を出したくないのだけど・・」
るいは溜息を吐くと、千尋の手を握った。
「本当に申し訳ないわ、千尋さん。でも安心して頂戴、次の勤め先には推薦しておいたのよ、あなたのこと。」
「ありがとうございます、奥様。」
千尋が頭を下げると、るいはハンカチで目元を押さえた。
「伯母様、お話はお済みになったかしら?」
麗子はそう言ってるいと千尋を交互に見た。
「ええ。麗子さん、こちらは椿の家庭教師だった千尋さんよ。千尋さん、こちらはわたくしの姪にあたる麗子さん。」
「お久しぶりです、麗子様。」
「伯母様からあなたの話は聞いていてよ。弟の事を宜しく頼むわね。」
麗子はそう言って千尋に微笑んだ。
「ええ・・」
有沢家で働くことになるなど千尋は思いもしなかったので激しく狼狽えたが、それをおもてには出さずに笑顔を浮かべた。
「わたくしの弟の久嗣は病弱な癖に我がままでね、どうすればよいのか両親が悩んでいたのよ。でも伯母様からあなたの事を聞いてね。突然の事で申し訳ないわね。」
「そうですか。では明日からお世話になります。」
「宜しくね。」
麗子は最後まで千尋に対して高圧的な態度を崩さなかった。
(まさか有沢家で働くなんて・・)
かつて刃を交えた敵の家で働くなど嫌だったが、背に腹は変えられない。
これも息子・巽を育て、家庭とささやかな幸せを守る為の試練なのだ―千尋はそう自分に言い聞かせながら、帰宅して一心に針を動かした。
「千尋、どうした?」
「何でもありません・・」
「嘘を吐くな。俺がお前の事が何もわからないというのか?」
歳三はそう言って千尋を見た。
「実は・・」
千尋は有沢家で働くことになったと歳三に告げると、彼は溜息を吐いた。
「そうか、有沢家に・・小瀬の奥様はよくしてくださったが、あちらの奥様はどうだか・・」
「嫌だとは申せませんし、生活の為だと思って我慢致します。」
翌朝、千尋は有沢侯爵家へと向かった。
「あなたが久嗣の家庭教師の、千尋さんね? わたくしは有沢の妻の、ぬいです。」
「初めまして、奥様。今日からお世話になります。」
有沢の妻、ぬいは冷淡な女性だと千尋は思った。
「久嗣、家庭教師の先生がお見えになりましたよ。」
ぬいとともに久嗣の部屋へと入った千尋は、散らかり放題の部屋に絶句した。
「母上、そいつが僕の先生なの?」
シーツから顔を覗かせた有沢家の長男・久嗣は、そう言って生意気そうな顔を千尋に向けた。
「久嗣、目上の方に何という口のきき方をなさるの! ちゃんとご挨拶なさい!」
「初めまして、久嗣です。」
ぶすっとした久嗣は、そう言って千尋に頭を下げた。
「では千尋さん、お願いしますわね。」
ぬいが部屋を出て行くと、久嗣はじろりと千尋を見た。
「千尋、僕の部屋を片付けてよ。」
「承知しました。」
千尋は久嗣の部屋をさっと片付けると、彼は舌打ちした。
「ねぇ千尋、嫌だったら辞めてもいいよ。僕は困らないけどね。」
久嗣は目上の者である千尋に対し、姉・麗子と同様、高圧的な態度を取った。
散々母親に甘やかされて育って来たのだなと、千尋は思った。
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