1887年4月、東京。
「漸く帰ってきたな・・」
横浜駅から汽車に乗り、東京駅から降り立った一人の青年は、そう言うと溜息を吐いた。
欧羅巴へと留学し、横浜港で父と妹と別れを惜しんだのは13の時だった。
3年半の留学生活の間、父が胸を病んだことを妹からの手紙で知り、帰国したかったが、父からの手紙を読み、彼は帰国を急遽取りやめた。
“己の誠を貫くまで、祖国の土を踏むな。”
父は己の病状を知りながらも、志を持ち海の向こうで大成を果たそうとする息子の志を尊重し、敢えて厳しい言葉を手紙にしたためたのだ。
何度か辛く苦しい目に遭い、帰国したいと思っていたが、その度に父からの手紙を読み返し、悲しさや悔しさをバネにしてきた。
その結果、彼は首席で大学を卒業し、3年半ぶりに祖国の土を踏んだ。
「兄様、お帰りなさい。」
東京駅のホームに降り立った青年を、桜色の振袖を揺らしながら一人の少女が彼を温かく迎えた。
「ただいま、美樹。今帰ったよ。父さんは?」
「父様は用があるとかいって、母様の墓に行っているわ。」
「そう・・」
少女の言葉を聞いた青年の顔が、少し曇った。
一方、街の喧騒から少し外れた墓地に、歳三は居た。
「千尋、今日巽が帰国するんだ。お前にべったりで泣き虫だったあいつが、もう立派な男に成長してやがる。その成長を、お前にも見せたかったなぁ・・」
歳三は妻の墓に語りかけながら、花を供えた。
それは菊ではなく、華やかでありながら清楚かつ優雅な雰囲気を持った白薔薇だった。
「白薔薇の花言葉、知ってるか? “尊敬”っていうんだぜ。俺はお前を尊敬していたさ、千尋。初めてお前と出逢った時から、ずっと・・」
歳三がそう言って溜息を吐こうとした時、彼は激しく咳き込んだ。
咳が治まり、そっと口元から手を離すと、手は鮮紅の血で汚れていた。
京に居た頃や戊辰の戦で、何度死を覚悟したか知れなかったが、安らかな幸福を手にした今、こんなにも死を恐れている自分の姿が滑稽に見えてならなかった。
(俺は死ぬのか・・)
「千尋、まだそっちに連れて行かないでくれ。せめて美樹の・・娘が嫁ぐ日まで、待ってくれ。」
荒い息を吐きながら、歳三は亡き妻に訴えた。
すると雲の隙間から、一筋の光が歳三に射し込んだ。
まるで千尋が彼の訴えを聞いてくれたかのように。
「父さん!」
背後で声がして歳三が振り向くと、そこには幼い頃の甘えん坊の面影がすっかり消え失せた長男・巽が立っていた。
「巽、大きくなったな。」
「父さん、身体大丈夫なの?」
「ああ。お前も、母さんに挨拶してくれ。」
「うん。」
巽は、母の墓に無事帰国したことを報告した。
その後、歳三は長屋で息子の土産話に耳を傾け、共に酒を酌み交わした。
「父様、ご報告があるのだけれど。」
「何だ、報告って?」
「実は、結婚する事になったの。」
「そうか、おめでとう。」
「ありがとう父様。」
数日後、美樹は婚約者を連れて来た。
「父様、紹介するわ。この方は相田浩輔さん。」
婚約者の相田浩輔は、歳三に向かって頭を下げた。
「お義父さん、お嬢さんをわたしの伴侶にしてください。お願い致します。」
「こちらこそ、娘を宜しく頼む。」
2ヶ月後、美樹は浩輔の元へと嫁いでいった。
娘が嫁ぐのを見届けた歳三は、それから間もなくして病臥に伏した。
「父さん、大丈夫?」
「ああ・・」
父の病室に入った巽は、病臥に伏してから痩せ細ってしまった父の姿を見て、胸が痛んだ。
「辛くない?」
「ああ。それよりも巽、俺はもう長くねぇ。その時が来たら、後のことはお前に任せるぞ。」
「解ったよ。父さん、お休み。」
「お休み・・」
それが、父が巽とかわした最後の会話だった。
農家に生まれ、武士となる夢を京で果たし、幕末の動乱を駆け抜けた土方歳三は、家族に看取られて52年の生涯を終えた。
「お父様、はやく~」
「わかったよ。実はせっかちだなぁ。」
今年も、京の桜は美しく咲き誇り、巽は父が駆け抜けた動乱の日々を思った。
(父さん、今頃母さんと花見でもしているのかなぁ・・)
そう思いながら巽が息子を追い掛けていると、目の前に一組の男女が現れた。
男の方は長い髪を一括りに結んでいて、仙台袴を穿き、左三つ巴に染め抜いた黒の羽織を着ていた。
女は、薄紫の着物を纏い結いあげた髪には赤い花の簪を挿していた。
彼らは巽の視線に気づくと、にっこりと笑った。
(父上・・母上・・)
「あなた、どうかなさったの?」
巽が我に返って妻を見ると、彼女は怪訝そうな顔をしていた。
「いや・・あそこに父と母が・・」
彼は父母が居た場所を指すと、そこには誰も居なかった。
「お義父様とお義母様は、あなたの幸せを確認なさったのですね。」
「ああ。さてと、実を探さないと。」
巽は妻と手分けして、実を探し始めた。
「父上、母上、どこですか~!」
一方、両親とはぐれてしまった巽の長男・実は、泣きべそを掻きながら歩いていた。
足が痛くなってきて、歩くどころか立つ気力もとうに失せてしまい、彼はペタンと地面に座り込み、心細さからか泣いてしまった。
「ったく、煩せぇなぁ・・猫かと思ったらガキか。」
草叢の中から声がしたと思ったら、突然その中から背に箱のようなものを背負い、黒髪を一括りにした青年が姿を現した。
「おいガキ、親と逸れちまったのか? 名前は?」
「うぇ~ん、父上、母上~!」
「煩せぇ、男がピーピー泣くな!」
苛立った様子で青年はそう言うと、実の頭にゲンコツを叩き込んだ。
「痛い、痛いよう。何するんだよ、おっさん。」
「口が達者なガキだな、え? 生意気な口利いてるのはこの口か?」
青年は両手で実の口をぐいっと引っ張った。
「いふぁいよ~、おっさん・・」
「目上の者は敬えって親から教わらなかったのか? 名前は?」
「実、土方実。」
「実か。もうすぐ親が迎えに来るから、ここで待ってな。」
「え?」
実がそう言って青年を見た時、彼はもう実に手を振って草叢の中へと消えていった。
「実、お父様やお母様から逸れるんじゃないぞ。」
「はい、お父様。お父様、この前僕、お祖父様に会ったよ。」
「お祖父様に? どんな格好してた?」
「う~んとね、確か背中に四角い箱背負ってた。」
息子の言葉に、父は昔薬の行商をしていたことを、巽は幼い頃母から聞いた話を思い出した。
「あなた、まだ起きていらしたの?」
息子を寝かせつけた巽が居間の窓から月を眺めていると、妻がそう言って彼を見た。
「ああ。今日は孫の顔見たさに父と母が常世から来たようだ。」
「そうですか。お義父様達を安心させないといけませんわね。」
「ああ。」
(父上、母上、そちらに妻と参る時は、お手柔らかに頼みますよ。)
心の中で、巽はそう常世に居る父母に伝えた。
それから何十年かした後、巽は妻とともに両親と再会を果たすこととなる。
―完―
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