1912(明治45)年8月、横浜港。
桐生理哉は妻子を連れ、上海へと旅立つところだった。
「身体に気をつけろよ、理哉。」
「うん。千尋ちゃん、これから寂しくなるけど・・」
「ええ。機会があったら上海に遊びに来ますからね。」
千尋はそう言うと、理哉に微笑んだ。
「千尋さん、色々とありがとう。」
理哉の妻・梨枝子は、深々と彼女に頭を下げた。
「梨枝子さん、悩んでいる時はいつでもわたくしに相談して頂戴。相談に乗りますからね。」
「ええ。純、行きましょう。」
「お母様、上海に行かないと駄目ですか?ここに残っては駄目?」
純は父親譲りの茶目っ気がある翠の瞳で、梨枝子を見た。
「いけませんよ、純。我が儘を言っては。二度と会えなくなるわけではないのですから。」
「そうだよ、純。生きていればまた会えるんだからね。」
「わかった・・」
純はそう言って父親のズボンにしがみつくと、両親とともに船に乗り込んだ。
「寂しくなりますわね・・」
「あぁ。」
彼らが乗った船が水平線の彼方に消えてゆくのを、千尋と歳三は暫く港で眺めていた。
「総司兄様はアメリカで楽しくやっているみたいね。最近お手紙が来ないようだけど。」
椿はそう言いながら、クッキーをひとつ摘むと口に放り込んだ。
「便りがないのは元気な証拠だっていうしね。」
「そうそう。まぁ帰ってくる頃には結婚相手でも連れて来るかもね。」
「どうかなぁ?総司兄様、顔はいいんだけど性格がねぇ。」
巽が唸っていると、ドアが開いて斎藤が入って来た。
「椿お嬢様、習志野様からお手紙です。」
「要らないわ。捨てておいて。」
「はい。」
「またあの侯爵の息子から?見合いで無礼な事したのにまだ姉様の事諦めてないんだね?」
「ええ。ああ、あいつの顔を思い出すと腹が立って仕方がないわ!巽、憂さ晴らしに何処かでパーっと遊ばない事?」
「嫁入り前の娘が、はしたないことを・・って、斎藤は言うだろうけれど、丁度僕も遊びたかったから、付き合うよ。」
「それでこそ、わたくしの弟ね。」
椿が巽を連れていったのは、百貨店だった。
「ここに最近、新しくカフェーが出来たのよ。」
「ふぅん、カフェ―ねぇ。チョコレートケーキが売りだって聞いたけど、本当に美味いもんなのかねぇ?」
「さぁ、百聞は一見にしかずよ。さ、行きましょう!」
彼らがカフェーへと向かっていると、習志野侯爵の長男・保も丁度百貨店に来ていた。
「おや、奇遇ですね。」
「あらぁ、誰かと思いましたら無礼な方ね。巽、チョコレートケーキは店員さんに頼んで持ちかえって家でいただきましょう。」
「うん、解った。」
巽と椿はチョコレートケーキを持って、カフェ―から出ようとした。
「待って下さい、少し話を・・」
「姉は何もあなたと話したくありませんと言ってます。そうだよね?」
「ええ。それでは習志野さん、御機嫌よう。」
椿は自分の腕を掴む保の手を乱暴に振り払うと、カフェ―から出て行った。
「ねぇ巽、あの方どう思う?」
「何だか嫌な奴だなぁ。理哉さんみたいにいい人は稀だけど、華族ってみんなそうなのかなぁ?」
「偏見は良くないわ。」
二人が楽しく話しながら家路に着くと、歳三が怖い顔をしてリビングのソファに座っていた。
「二人とも、出掛けてたのか?」
「はい・・」
「そうか。ちょっと困ったことになった。そこへ座れ。」
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Last updated
2016.05.26 14:46:49
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