「ただいま戻りました。」
「お帰りなさい、椿さん。」
椿が嫁ぎ先である高円家の玄関へと入ると、義母・恵子が彼女を迎えた。
「さっき陽輔がかんかんになってきて帰ってきたけれど、向こうで何かあったの?」
「ええ。」
椿は姑に、父の遺産は全て弟夫婦が相続したことを告げると、彼女は深い溜息を吐いた。
「巽さん達はあなたのお父様をお支えになっていたものね。陽輔があんな事をしなければ、お父様の心証を悪くしなかったものを。」
「ええ。お義母様、子ども達は?」
「外で遊ばせていたら、疲れたようでお部屋で休んでいるわ。それにしても椿さん、もう大丈夫なの?」
恵子の視線が、椿の丸みを帯びた下腹へと移った。
「大丈夫です。」
「陽輔は身重の妻を家に置いて、毎晩飲み歩いて・・わたしの教育ができてなかったのねぇ。」
恵子は再び溜息を吐くと、椿の為に温かい飲み物を淹れてくるといって席を立った。
1人になった椿は、これから夫とどうするのかを考えていた。
二児の母として、陽輔の妻として今まで頑張ってきたが、陽輔が問題を起こすたびに何かと父に金を集って来たので、歳三は自分が生きている内に子ども達を連れて実家に帰って来いと言っていた。
だがもうその父もおらず、もうすぐ3人目が生まれるというのに、子ども達を養える金もない。
「なんだ、居たのか?」
「あら、居て悪いかしら?」
椿が顔を上げて陽輔を見ると、彼はまた何処かへ出掛けるようだった。
「また夜遊びでもなさるつもり?3人目が生まれるというのに・・」
「飲まなきゃやってられないんだ。なぁ椿、巽さんに頼みこんで少しは金を・・」
「お断りします。あなたが夜遊びを止めたら、お金が溜まりますよ。」
「何だその言い草は、夫に向かって!」
陽輔は妻の態度に腹が立ち、彼女の髪を掴んで床に倒した。
「痛っ!」
乱暴に押し倒されたので、椿は下腹部を強打した。
「陽輔、何をしているの?」
恵子は床に蹲る椿へと駆け寄ると、彼女は破水していた。
「早く車を出しなさい、病院へ運びます!」
恵子の言葉に、陽輔はぶすっとした顔をして外へと出て行ってしまった。
「椿さん、大丈夫よ。」
病院へ運ばれた椿は、そこで元気な女児を出産した。
「椿さん、陽輔と別れたいのならわたしがいつでも力を貸しますよ。もうあの子を息子とは思いませんから。」
「ありがとうございます、お義母様。」
出産した椿が娘を連れて帰宅した時、陽輔の姿は何処にもなかった。
居間の机には、『探さないでください』という書き置きだけが置かれていた。
椿は3人の子供たちを連れて高円家を出て、実家へと戻ってきた。
「お義姉様、お帰りなさい。」
「ごめんなさいね、静江さん。お父様の事でバタバタしているというのに・・」
「いいえ。困った時はお互い様ですわ。」
実家に出戻った義姉に対して労いの言葉を掛ける静江を見て、弟は良くできた嫁を貰ったものだと椿は思った。
歳三の死から9年が経ち、戦争による食糧難や物資難が著しくなり、巽達は何とか家族の分の食糧や物資を調達し、それで空腹を凌いでいた。
「いつまでこんな事が続くのでしょうね?」
「全くだわ。最近暑いわね。」
「ええ、本当に。」
静江が今や野菜畑と化したテニスコートで鍬を振るっていると、巽が何やら慌てた様子で走って来た。
「どうなさったの、あなた?」
「静江、ラジオをつけろ!緊急放送がある!」
静江が慌てて鍬を放り出し、居間にあるラジオのスイッチをつけると、そこから天皇陛下の御声が雑音に混じって聞こえてきた。
それは、敗戦を知らせる“玉音放送”だった。
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Last updated
2016.05.26 14:49:56
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