「薬が欲しいだと?あれは1度だけだと言った筈だ。失せろ。」
鬼神はそう言って娘にそっぽを向いた。
「なんでどすか?あの薬をすすめてくれはったんは、主様やないですか。」
娘は鬼神の腕を掴み、食い下がってきた。
「わしは貪欲な女は好かぬ。お主には薬はやらん。芸事に精進しろ。謂いたいことはそれだけだ。」
鬼神は娘の手を乱暴に振り払い、茶店を後にした。
「うちは諦めへんえっ!」
娘はそう言いながら、去りゆく鬼神の背中を血走った眼でいつまでも睨み続けていた。
一方、槍の稽古を終えた四郎は井戸で身体を洗っていた。
均整のとれた逞しい筋肉の上を、冷たい水が流れ落ちる様を、井戸端会議をしていた女達が時折裏庭から一枚隔てられただけの木戸から四郎の鍛えられた上半身の筋肉を盗み見ては何かとひそひそと囁き合っていた。
「あの筋肉、うちの亭主にはあらへんわ。」
「そんなん、うちの亭主もないわ。」
「ええ男やなぁ・・」
そんな女達の視線も臆することなく、四郎は水浴びをしてからまた稽古を再開した。
「何なの、あの人達・・」
美津は女達を睨みながら、味噌汁を啜った。
「近所の寄合衆の女房達ですよ。何でも四郎が槍の稽古をしている時間を狙って、井戸端会議を開いているそうです。」
エーリッヒはそう言って呆れたように井戸端会議に興じる女房達を見た。
「ふぅん・・」
「姫様、もしかして焼餅を焼いていらっしゃるんですか?」
「馬鹿言わないで。」
美津はエーリッヒの額を小突きながら立ち上がった。
「剣の稽古に行くわよ。エーリッヒ、今度はサボらないで付き合いなさいよね。」
「わかりました、姫様・・」
今日は自分にとってとんでもない厄日になるだろう・・エーリッヒは稽古着に着替えながらそう思った。
その頃、あの娘は鬼神の姿を探しながら洛中を歩いていた。
あの薬を彼から貰い、初めてお座敷で緊張せずに舞えた。
それは血の滲む様な努力を毎日稽古をした成果なのだが、本人にはそれが薬の効果のお陰なのだと錯覚してしまっていた。
あの薬さえあれば、自分は緊張せずに舞える。
だから、あの薬を彼から貰わなければ。
(どこにおるの・・あの人は、どこにおるの・・?)
娘は虚ろな目で鬼神の姿を探し続けた。
鬼神の姿は、どこにもなかった。
今日は諦めよう。今頃舞のお師匠さんが怒り狂いながら自分の到着を待っている頃だろう。早く彼女のところに行った方がいい。
そう思いながら歩いていると、誰かと肩がぶつかった。
「すんまへん・・」
そう言って娘が振り向くと、琥珀色の美しい瞳が自分を覗き込んでいた。
「あなた、アレが欲しいの?」
「なんで、そんなこと知って・・」
「どうしてかしらね?わたしにはお前が思っていることがわかるのよ。」
美しい少女は懐から懐紙に包まれた阿片の粉末を渡した。
「あなたにこれ、あげるわ。お金は要らないわ。その代わりに、わたしの頼みを聞いてくれたら、いくらでもあげるわ。」
粉末に手をつけてはいけない、と思いながら娘は粉末に手を伸ばそうとした。
だが、その手を少女が払い除けた。
「言ったでしょう、頼みを聞いてくれたら、いくらでもあげるって。」
少女はこの状況を面白がるように黄金色の瞳を光らせた。
その時、少女の背後から闇の底から漆黒の手が自分の方へと伸びてくる気がした。
自分を闇の底へと引き込もうとする魔の手が。
娘は悲鳴を上げ、少女に背を向けて脱兎の如く走り去った。
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Last updated
2012.04.01 22:11:09
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