あの松久邸の事件から2週間経ち、瀕死の重傷を負った聖良は順調に回復していき、数日後には退院できるほどになっていた。
長期間仕事を休んでしまったため、早く職場復帰しなくてはと思いながら、聖良はベッドに横になっていた。
「失礼いたします、セーラ様。」
ノックの音とともに病室のドアが開き、紺のスーツを纏ったリヒャルトが入って来た。
「いかがですか、お加減は?」
「大丈夫。それよりも、早く仕事に戻らないと・・みんなには迷惑をかけっぱなしだし・・」
「警官としてまたお働きになられるというのですか?」
「だって俺の仕事だし。それがどうかしたの?」
「セーラ様、あなた様がローゼンシュルツ王国の皇太子様だという事実は、もう皆に知れ渡っております。今までのようにあなた様が警官として働くか、一国の皇太子として生きるか・・あなた様は今、大きな転換期を迎えておられるのです。」
リヒャルトの言葉を聞いた聖良は、深い溜息を吐いて枕に顔を埋めた。
「俺、どうしたらいいかわからない・・数ヶ月前突然あなたに皇太子だって言われた時も、全然実感が湧かなかったし・・それに俺は本当の家族の事について何も知らないし・・」
数ヶ月前、リヒャルトから突然自分が東欧の王国の皇太子だと知らされても、皇太子としての記憶を失くしていた聖良は、自分が一国の皇子であるという実感が湧かなかった。それは今でも変わらない。
こんな状態のまま、皇太子として生きろというのだろうか。
「俺は皇太子として生きたくない。自分の祖国の事も、家族の事もよく知らないし・・」
「ではあなた様に希望を持っている国民を見捨てる、とおっしゃるのですか?」
冷たい光を帯びた菫色の瞳が、射るように聖良を見る。
「あなたは皇太子として生きたくないという生き方を選ぶというのなら、それはそれでいいのかもしれません。ですが、あなた様の存在を知った彼らはどうなさるのです?」
そう言ってリヒャルトがつけたテレビの画面には、黒煙と紅蓮の炎で包まれたリヒトの街が映っていた。
“反王党派のテロによる死傷者は今年に入って3000人を超え、そのうち15歳以下の乳幼児の死者は700人を超えており、更に増えると思われます・・”
場面が切り換わり、病院の様子が映し出された。
そこにはテロで負傷し、傷つきながらも手当てを待つ人々がいた。
『皇太子様には、この国に戻って来て欲しいと思いますか?』
リポーターの問いに、全身を包帯で巻かれ、ベッドに横たわる子どもは屈託のない笑みを浮かべて言った。
“皇太子様には、この国に戻って来て欲しいです。あの方なら、きっと僕達を助けてくれるから・・”
「この映像を見ても、あなたの決心は揺らぎませんか?」
「少し、考えさせてくれ。」
リヒャルトは黙ってテレビを消し、病室から出て行った。
(これから俺はどうすればいい・・)
その夜、溪檎は父に呼ばれ、書斎へと向かった。
「お呼びでしょうか、父上。」
「入れ。」
書斎に入ると、父は今日の朝刊を見ていた。
その第一面には橘聖良の写真が載っており、彼がローゼンシュルツ王国皇太子であるという文字が大きく書かれてあった。
「溪檎、お前は皇太子様にお会いしたことがあるな?」
「はい・・彼とは何度か会ったことがありますが、それが何か・・」
「部屋を直ちに用意させろ。皇太子様には暫くの間我が家に滞在していただく。」
「父上、急に言われましても・・」
「これは決まったことだ。」
溪檎は父に背を向け、書斎から出て行った。
ほんの数か月前まではただの所轄の一警察官でしかなかったあの男が皇太子だと知って何日か経つが、溪檎は未だにそれを信じることが出来ないでいた。
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