「う・・」
噎(む)せ返るような蓮の花の匂いに、一人の少年が呻いてゆっくりと目を開けた。
「椰娜(ユナ)、起きるんだよ!」
彼が布団の中で身じろぎしていると、太った女が襖を勢いよく開いて部屋の中に入ると、それを引っぺがした。
「寒い・・」
「さっさと顔を洗って目を覚ましな!」
「わかったよ。」
少年は渋々と布団から起き上がると、部屋から出て井戸へと向かった。
夏になったとはいえ、朝夕の寒さは冬のそれよりも少し和らいだが、やはり肌寒い。
井戸の釣瓶から水を汲み上げ、それを少しだけ手に取って顔を洗うと、ひんやりとした水で寝ぼけていた頭が目ざめた。
喉が渇いてきたので、少年は柄杓を手に取ると、木桶の中にある水を掬ってそれを一口飲んだ。
「あ~、美味い。」
ゴクリと喉を鳴らしながら少年が満足そうな笑みを浮かべていると、突然彼は耳を強く抓られた。
「椰娜、年頃の娘が何て口の利き方だい! 言葉遣いに気をつけな!」
「い、痛いって!」
「朝餉の時間まで伽耶琴(カヤグム)の稽古でもするんだね! 全く、油断も隙もあったもんじゃないんだから・・」
女はぶつぶつと言いながら、井戸から離れていった。
「あの婆さん、煩いったらありゃしない・・」
少年は溜息を吐くと、井戸の向こう側に建っている建物の中に入った。
美しい刺繍が施された靴を脱ぎ、白いチマの裾を摘みながら彼はある部屋の前に座った。
「お師匠様、宜しいでしょうか?」
「椰娜か、今日は早いね。」
襖の向こうから、美しく張りのある男の声が聞こえた。
「はい、あの婆・・ベクニョ様が煩くて。朝早くから申し訳ないですが尚俊(サンジュン)様、お稽古をお願いできますか?」
「いいよ、入りなさい。」
「失礼致します。」
少年がそっと襖を開いて中に入ると、そこには三十代後半から四十代前半と思しき男が布団から起き上がってきていた。
柔和な笑みを口元に浮かべ、春の日だまりのような優しい光を榛色の瞳に湛えた男は、部屋に入って来た少年に手招きした。
「さてと、早速始めようか。」
「はい。」
男の顔から笑みが消え、“師匠”の顔となった。
数分後、男の部屋からは彼と少年が奏でる伽耶琴の音色が聞こえた。
「あら、また尚俊様のところで椰娜が稽古を受けているわね。」
「どんなに朝早くても、夜遅くにあの子がお部屋を訪ねても、尚俊様は嫌な顔せずに椰娜に稽古をつけるんだから。一体どんな関係なのかしら?」
「さぁね。それよりも聞いた? また東の方で色々と反乱が起きているそうよ。」
「へぇ、そうなの。確かこの前もそんな事があったんじゃない? 最近物騒になってきたものよねぇ。」
男の部屋から少し離れた棟にある部屋の中では、女達が器用に眉を描きながらぺちゃくちゃと取り留めのない事を話していた。
「あんた達、何をくっちゃべっているんだい! そろそろ宴が始まる時間だよ、早く支度おし!」
襖が勢いよく開かれ、太った女がそう女達に怒鳴ると、彼女達は慌てて化粧を再開した。
「ねぇベクニョ様、椰娜はまだ宴席には出られないんでしょう? なのにどうして朝早くから伽耶琴の稽古なんかさせるんですか?」
「あの子は特別なのさ。いずれはこの教坊を背負って立つ存在になるだろうからね、今の内に仕込んでおくのさ。さ、あんた達、今日もたっぷり稼いできておくれよ!」
「はぁ~い!」
女達はチマの裾を払うと、身支度をして部屋から出て行った。
「さてと、買い出しにでも行こうかね!」
太った女はそう言うと、建物から外へと出て行った。
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