「何とか気づかれずに済んだわね。」
宴が終わり、成煕(ソンヒ)達とともに料亭を出た椰娜(ユナ)は、成煕からそう言われて静かに頷いた。
「あいつが、あんたをステッキで殴った奴なのね?」
「ええ。その前にお爺さんをステッキであいつは殴っていました。だから咄嗟にお爺さんを庇って・・」
「ここだけの話だけどね、あいつ羽振りはいいけれど乱暴者だってもっぱらの噂よ。その所為で奥さんにも逃げられたんだって。」
「へぇ、そうなんですか。」
椰娜は成煕の話を聞きながら、どんな乱暴者でも客として宴席に侍らざるおえない妓生(キーセン)の仕事がいかに大変か、彼女の言葉から垣間見えた。
「椰娜、あんたはまだ童妓(トンギ)(※妓生見習いのこと。十歳頃から歌舞音曲等の修練を積み、十五,六歳頃に水揚げの時期を迎える)だからいいけれど、水揚げの時期を迎えたらあんな男でも我慢して相手をしなくちゃいけないのよ。」
「はい、解っています。」
「まぁ、うちは宮中の酒宴にも呼ばれる程だから、あんな男なんかベクニョ様は相手にしないと思うわ。まぁ、今夜の事は忘れることね。」
成煕はそう言って椰娜の肩を叩くと、チマの裾を摘んで一足先に教坊の門の中へと消えていった。
(水揚げ、か・・)
今はまだ童妓として修練中だが、いずれは水揚げして髪を結った妓生として生きてゆかなければならない。
この教坊に引き取られ、育てられて必ずしも通る道だとベクニョは常々言っていた。
その時期が徐々に近づいていることに、椰娜は気づいていた。
「椰娜、どうした?」
教坊の門の中へと椰娜がくぐると、尚俊(サンジュン)が心配そうな顔をして彼を見た。
「ちょっと料亭で、嫌な事があって・・」
「嫌な事? 酔っ払いに絡まれでもしたのか?」
「わたしを殴った男が、今夜の宴席に出ていたんです。」
「そうか。あいつの事は早く忘れた方が良い。嫌な事は記憶から消してしまうのが一番だ。」
「もう遅いので、部屋で休みます。お休みなさい。」
「お休み。」
化粧を落とし、髪を解いて椰娜が部屋に入ると、寝床には雅映(アヨン)が先に休んでいた。
雅映とは椰娜が教坊に引き取られてからの仲なので、実の姉妹のように気兼ねすることなく互いに接しているし、彼女とはうまが合う。
疲れた身体を引き摺りながら椰娜は寝床に横たわると、ゆっくりと目を閉じて眠り始めた。
「エド、エドったら!」
「あ、ごめん、聞いていなかったよ。」
「もう、大事なお話をしているのに、あなたっていつもそうなのよね!」
翠の双眸でエドワードを睨み付けると、彼の婚約者は肩をいからせながらそう叫ぶと部屋から出て行った。
「また妹を怒らせたのか?」
「ああ。結婚式の事を話していた。わたしは途中で考え事をして、全然聞いていなかったよ。」
「それは酷いな。結婚は女にとっては一生を左右するものなのに。まぁ、男なんてみんな身勝手さ。」
エドワードの話を聞いた親友は、そう言って笑った。
「そういうお前は結婚する気はないのか?」
「ああ。過去に何人か女と付き合った事があるが、恋愛は良くても結婚はうんざりだな。それに俺は仕事と結婚しているようなものだから。エド、アンを泣かせたら承知しないぞ。」
「解ってるよ。」
親友の妹と婚約中であるのに、エドワードの心は今日会った黒髪の少女に囚われてしまっていた。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.09.03 18:31:13
コメント(0)
|
コメントを書く
[連載小説:茨~Rose~姫] カテゴリの最新記事
もっと見る