「姫様、見えてきましたよ。」
「ええ・・」
教坊がある街へと出て、港で船に乗り初めて海を渡った椰娜(ユナ)は、水平線の彼方に見える島国を見て瞳を輝かせた。
「もうすぐ、日本に着くのね。」
「ええ。これからですね、姫様。」
仁錫(イソク)はそう言って椰娜を見た。
数時間後、船を降りた二人を向かえたのは、教坊の行首(ヘンス)・ベクニョの知人である志乃であった。
「長旅ご苦労さん。これからうちに行きますよってに。」
志乃とともに、椰娜は初めて馬車に乗った。
「あの、どちらに行くんですか?」
「それは着いたら解りますえ。」
志乃はそう言うと、椰娜に微笑んだ。
「話はベクニョさんから聞いてますさかい、何も心配することはおへんえ。」
「はい・・」
やがて彼らを乗せた馬車は港を抜け、石畳の道に町屋が連なる通りへと入って行った。
「ここどす。」
志乃がさっと馬車から降りるのを見て、慌てて椰娜と仁錫は彼女の後に続いた。
「おかあさん、お帰りやす。」
町屋の玄関に入って来た志乃を、数人の若い娘がそう言って出迎えた。
「ただいま。さぁゆなさん、いきまひょか。」
「はい・・」
椰娜はさっと靴を脱いで上がると、仁錫も慌てて靴を脱いで志乃の部屋へと向かった。
「あの、ここは?」
「ここは置屋どす。ベクニョさんが経営してる教坊と一緒どすえ。ただ違うのは、水揚げせぇへんでもええということどす。」
「そうなんですか?」
「へぇ。うちら祇園の芸舞妓は、芸を売っても身は売らず。はじめに言っておくけど、教坊のやり方と祇園のやり方は全く違うもんどす。せやから、ゆなさんには祇園の伝統としきたり、礼儀作法を学んでおくれやす。」
「は、はい・・」
椰娜がそう言って志乃に頭を下げると、彼女は溜息を吐いた。
「それと、京に住んでいる限り、京言葉を話して貰いますえ。“はい”は“へぇ。”、“ありがとう”は“おおきに”。うちの事は今日から“おかあさん”て呼びよし。」
「へぇ、おかあさん。どうぞ宜しくお頼申します。」
「せぇだいおきばりやす、ゆなさん。」
こうして、椰娜と仁錫の、日本での生活が始まった。
京の花街・祇園甲部の伝統ある置屋「石鈴」での生活は、教坊での生活と全く違い、彼らは言葉遣いや礼儀作法、舞や華道・茶道、鳴物の稽古を朝から晩まで受けていた。
「おはようございます、おかあさん。失礼します。」
「どうぞ。」
ある日、椰娜は志乃に呼ばれ、彼女の部屋に入ると、そこには軍服姿の青年が座っていた。
「ゆなさん、この方は帝国陸軍の吉田さんえ。挨拶しよし。」
「ゆなと申します。宜しゅうお頼申します。」
「顔を見せろ。」
「へぇ。」
椰娜が俯いていた顔を上げると、そこには端正な美貌を持った青年の切れ長の黒い瞳が、じっと冷たく見下ろしていた。
「ほう、不思議な色の瞳をしているな。」
「おおきに・・」
一方、仁錫はなかなか女将の部屋から戻って来ない椰娜を心配し、部屋の中を右往左往していた。
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Last updated
2013.09.03 21:19:05
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