「道貴兄様、お話とは何でしょうか?」
「千尋、お前はこれからどうするつもりなんだ?」
「どうするとは・・それはどういう意味ですか?」
「わたしが嫁を貰ったら、母上がお前をこの家から追い出すのではないかと思ってな・・」
「奥方様でも、そのような事はなさる筈が・・」
「母上は、心底お前を憎んでいるんだ、千尋。」
「そんな・・」
「千尋、お前はもうここに居てはいけない。」
「兄様・・」
「わたしは、お前のことが憎くて家を出ろと言っているのではない。お前のことが心底心配だから心を鬼にして家を出ろと言っているのだ。」
道貴はそう言うと、千尋を抱き締めた。
千尋はそんな兄の優しさに触れ、涙を流した。
桜田門外の変から一月が経った頃、道貴は結婚した。
相手は、名のある旗本のご息女で、ゆいといった。
「お義母様、これからどうぞ宜しくお願いいたします。」
「ゆいさん、こちらこそどうぞ宜しく。」
白無垢を纏ったゆいは、そう言って由美子に微笑んだ。
「道貴さん、あちらの方は?」
「ああ、あれはわたしの末の弟の、千尋だ。千尋、こっちに来なさい。」
「はい、兄様。」
女中達に交じって給仕をしていた千尋は、道貴に呼ばれて広間に入り、新郎新婦の前に座った。
「初めまして、義姉様。千尋と申します。」
「まあ、不思議な色の瞳をしておりますわね。」
ゆいはそう言うと、千尋の翠の瞳を覗き込んだ。
「ゆい、余り千尋のことを見るな。困っているじゃないか。」
「まぁ、申し訳ありません・・千尋さん、これから仲よくしましょうね?」
「はい、義姉様。」
ゆいという家族が増え、荻野家は急に賑やかになった。
由美子は、ゆいのことを大層気に入り、色々と彼女のことを気に掛けては、観劇に誘ったり、彼女の為に茶菓子を買ってきたりしていた。
千尋は、はじめ嫂(あによめ)に対して警戒心を抱いていたが、徐々にゆいとも打ち解けていった。
そんなある日のこと、薙刀の稽古から帰った千尋は、突然ゆいに部屋に呼ばれた。
「義姉様、お話とは何でしょうか?」
「千尋さん、あなた道貴さまのことをどう思っていらっしゃるの?」
「義姉様、何故わたくしにそのような事をお聞きになるのです?」
「最近、道貴さまの様子が変なのよ。いつも上の空で、わたくしの話にも生返事ばかりなさって・・」
「まぁ、そんなことが・・」
「ねぇ千尋さん、道貴さまに何を悩んでいらっしゃるのか、聞いてくださらないかしら?」
「わかりました。」
ゆいの部屋から出た千尋は、道貴の部屋に入ると、そこに道貴は居なかった。
「奥方様、道貴兄様はどちらに?」
「さぁ・・わたくしに聞かれてもわかりませんよ。」
由美子はそう言うと、千尋を睨んだ。
このまま家に居ても仕方がないので、千尋は家から出て道場に向かうことにした。
道場まであと少しというところで、千尋は道貴が一人の女性と連れ立って歩いているところを見た。
彼に声を掛けようとした千尋だったが、今声を掛けてはならないと思い、そのまま道貴が女性とともに雑踏の中へと消えてゆくのを静かに見送った。
(兄様、あの方はどなたなのです?)
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