千尋が副長室から出て廊下を歩いていると、総司の部屋の前で彼が激しく咳込む音が聞こえた。
「沖田先生、大丈夫ですか?」
「ええ、暫く経ったら収まりますから・・」
そう言って千尋に笑みを浮かべた総司だったが、その笑みはすぐに歪んだ。
彼の白い両の掌は、血で赤く染まった。
「すぐに副長を呼んでまいります。」
「やめてください。土方さんには知らせないで。」
「ですが・・」
「あの人には、知らせたくないのです。」
「沖田先生・・」
「もう、あの人が苦しむ顔は見たくないのです。どうか、わたしの病状はあの人には伏せておいてください。」
「わかりました。」
「有難う、荻野君。」
「これをどうぞ。」
千尋は総司に懐紙を手渡すと、そのまま彼の部屋から出た。
(沖田先生は、もうご自分が長くないことをご存知だ・・)
西本願寺の屯所を出た千尋は、ある場所へと向かった。
そこは、新選組総長・山南敬助が眠る光縁寺(こうえんじ)だった。
千尋は彼の墓の前に立つと、静かに山南に向かって語りかけた。
「こんな時間に訪ねに来てしまって、申し訳ありません。あなたにお願いがあって参りました、山南先生。」
千尋は山南の前に線香を手向け、手を合わせた。
「沖田先生を、どうかお守りください。まだあの方を、あなたの元へ行かせるのは惜しいのです。」
千尋の言葉に返事をするかのように、一陣の風が吹いた。
「随分と煩いと思ったら、雨が降っていたのか。」
鈴江はそう言うと、窓を開けて古都を濡らす雨音に耳を澄ませた。
「雨は嫌いじゃなかったのか?」
「そんなことは一度も言った覚えはないね。こんな雨の夜は、お前と初めて会った時のことを思い出すよ。」
「ふん。あの頃のお前は、まだ可愛げがあったな。」
信は煙管を咥えると、それに火をつけた。
鈴江はクスクスと笑いながら、信の無精ひげを撫でた。
「今夜は抱いてくれないの?」
「気が向かないんだ、勘弁してくれ。」
「つまらないな。」
そう言いながらも鈴江は、信の着流しを脱がしにかかった。
ほつれた彼の髪が、信の頬にかかった。
こうなると、鈴江の欲情が収まらないことを信は知っていた。
信は鈴江の細い腰を掴んで彼を四つん這いにさせた。
「祇園一の芸妓がこんな淫らな姿をしていると知ったら、お前の得意客は憤死するだろうよ。」
「わたしは客に身体は売らないよ。芸は売るけどね。」
口端を薄くつり上げて笑う鈴江を憎々しげに睨みつけながら、信は彼の上に覆い被さった。
信が彼と知り合ったのは、土砂降りの雨が降る夜だった。
博徒だった信は、賭場で諍いを起こし、博徒たちから袋叩きに遭った後、人気のない路地裏で雨に打たれて蹲っていた。
そこを通りかかったのは、舞妓として店だししたばかりの鈴江だった。
鈴江との出会いは、信が果てのない地獄の入り口に立った日だった。
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