『少し、落ち着いたか?』
『はい・・取り乱したお姿をお見せしてしまって、申し訳ありません。』
『いや、それはお互い様だ。わたしもお前に醜態を晒してしまったからな。』
ルドルフはそう言うと、厨房でメイドが作り置きしていたスープが入ったマグカップを自分の隣に座っている環に手渡した。
『さっき、兄と会った時にわたしは酷く違和感を抱いたんです。』
『違和感?』
『何だか、兄のようで兄ではないみたいでした。上手く言えませんけれど・・』
環の脳裏に、涼介の姿が浮かんだ。
黒いシルクハットにフロックコート姿の涼介は、英国へと発つ前に自分が見た彼の姿そのものだった。
ただひとつ変わっていたのは、両手に嵌められた白手袋だった。
涼介が英国へと発ってから、もうすぐ一年もの歳月が経とうとしているが、環は彼が英国でどのような生活をしてきたのかを全く知らなかった。
それに、涼介は何処か自分に対してよそよそしい態度を取っていた。
『タマキ、リョースケの事を考えているのか?』
『はい。久しぶりに兄と会ったのに、何故かわたしは兄との再会を喜べなかったのです。』
環はそう言うと、スープを一口飲んだ。
『それを飲んだから、二階で休め。最近わたしの世話を焼いている所為で、お前が眠れていないとここのメイドから愚痴られた。』
『大丈夫です・・これ、片付けておきますね。』
スープを飲み終えた環がマグカップを持ってソファから立ち上がろうとすると、彼は突然激しい眩暈に襲われ、絨毯の上に倒れた。
『過労による睡眠不足ですね。』
環が倒れ、ルドルフが急遽屋敷に呼び寄せた町医者は、彼を診察した後そう言ってルドルフを見た。
『奥様を愛されているのは大変宜しい事ですが、毎晩抱かれている身にもなってくださいね。少し奥様に休息を与えないと、身体がもちませんから。』
どうやら町医者は、環とルドルフを新婚夫婦だと勘違いしているようだった。
『申し訳ありませんでした、先生。夜中にお休みのところをお呼びしてしまいまして・・』
『いいえ。どうぞ、奥様の事を大事になさってください。』
丸眼鏡を掛けた町医者は愛嬌のある笑みをルドルフに浮かべると、寝室から出て行った。
(奥様、か・・)
ルドルフは寝台の端に腰掛けると、安らかな寝息を立てている環の寝顔を見た。
彼の両目の下には、黒い隈に縁どられており、そこから彼がどれほどの疲労を蓄積させていたのかを知ることが出来た。
(タマキ、お前には感謝してもしきれない。もしお前が女だったら、わたしの子を産ませて、その子と三人で温かな家庭を築けるのに・・)
仮に環が女で、ルドルフの子を産んだとしても、環はハプスブルクの皇太子妃になることは出来ない。
今と同じように、一生皇太子の愛人として生きることになる。
だが、それでも良かった。
男同士でありながら、ルドルフは環に惹かれ、環もルドルフの愛に応えた。
ただそれだけの事なのに、自分達の関係は公に出来るものではない。
それがルドルフにとっては悔しい事でもあり、厳然とした事実でもあった。
(いつか、お前と一緒になれるその日まで、わたしはお前を守り抜く。)
『お休みタマキ、良い夢を。』
屋敷から出たルドルフが人気のない通りに靴音を響かせながら歩いていると、路地裏から突然黒い人影が彼の前に躍り出て来た。
ルドルフが外套から愛用の拳銃を取り出そうとした時、謎の人影はステッキのようなものでルドルフの右手首を打った。
拳銃が石畳の床に落ち、甲高い音を立てた。
『貴様、何者だ!』
『名乗るほどの者ではない。』
玲瓏とした男の声が耳元で聞こえたかと思うと、彼はルドルフの腹にナイフを突き刺した。
『悪いが、貴様にはここで死んで貰う。』
(タマキ・・)
朦朧とする意識の中で、ルドルフの脳裏に愛しい人の笑顔が浮かんだ。
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