「環様ですね?」
環がパーティーを楽しんでいると、突然彼は背後から声を掛けられた。
環が背後を振り向くと、そこには幸の乳母・滝の姿があった。
「幸お嬢様が貴方にお会いしたいと仰せです。」
「幸さんが?」
滝と共に幸の部屋に入った環は、彼女の顔が赤紫色に変色していることに気づいた。
「どうなさったの、その顔?」
「婚約者の方に、貴方の旦那様の子を妊娠している事が知られてしまったわ。」
幸はそう言うと、寝台から降りて環に土下座した。
「環さん、貴方の事を裏切ってしまったわ。どうか、わたくしを・・」
「幸さん、頭を上げて頂戴。」
「わたしは、許されないことをしてしまったのよ。どうして貴方は、わたしに怒りをぶつけないの?」
「貴方は、大切な友達だからよ。」
環はそう言うと、幸に微笑んだ。
「幸さん、わたしは貴方が宿している子の父親が、ルドルフ様だということは知っているわ。でも、その事で貴方を責めたりはしないわ。わたしに出来ることがあったら、何でも言って頂戴。」
「環さん・・」
「その顔は、信孝さんに殴られたのね?」
環の問いに、幸は静かに頷いた。
「信孝さんは、わたしの事を金で買った女中としてしか見ていないの。だから、わたしさえ我慢すれば・・」
「それは違うわ、幸さん。」
環は何処か投げやりな態度の幸を見てそう言うと、彼女の肩を抱いた。
「貴方が不幸な結婚をすることを、貴方のご両親は望んでいらっしゃるの?」
「だって、わたしが信孝さんと結婚しなければ、うちは破産してしまうのよ?わたしが信孝さんと結婚しなかったら、お父様が・・」
「幸、わたしの事は心配するな。」
突然ドアの向こうから、幸の父・直孝の声が聞こえた。
「家の事は何とかする。だから、お前は自分と、お腹の子の事だけを考えろ。」
「お父様・・」
直孝はドア越しに娘がすすり泣く声を聞くと、一階の大広間へと降りていった。
「皆様、大変申し訳ないのですが、娘の婚約は白紙に戻させていただくことになりました。」
「小父様、突然何を言い出すのですか!」
「信孝君、わたしは娘を不幸にさせるような人間とは結婚させたくはないのだよ。」
「小父様・・」
直孝にそう言われた信孝は、憤怒の形相を浮かべながら藤宮家を後にした。
「お父様、本当に宜しいのですか?」
「馬鹿な事を言うな、幸。娘の幸せを願わない親が何処に居る?」
直孝は幸の頭を優しく撫でると、彼女に優しく微笑んだ。
突然幸から婚約破棄された信孝は、自棄酒を呷っては遊郭で女と戯れる日々を送っていた。
(幸の奴、よくもこの俺を虚仮にしやがって・・いつか必ず痛い目に遭わせてやる!)
「どうなさったの、信孝様?今夜はいつにまして機嫌が悪いわねぇ?」
「女に振られたんだから、機嫌が悪くなるのは当たり前だろう?」
「ああ、そうでしたわね。あたしったら無粋なことを聞いてしまったわね。」
「いや、いい。」
自分にしなだれかかる女から香る白粉の匂いを嗅ぎながら、信孝は金髪碧眼の男が廊下を歩いて行くのを見た。
「おい、さっき廊下を歩いていった男を知っているか?」
「ああ、あの金髪の美丈夫のことですかい?確か彼は、長谷川商会の経理部長の、ルドルフ様とおっしゃったかねぇ・・」
「へぇ、そうか・・」
信孝はそう言うと、ルドルフの背中を睨みつけながら猪口の中に残った酒を飲み干した。
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