「長崎に居られるご両親はお元気にしておられるかい?」
「はい。今度の暮れには菊を連れて向こうへ帰ろうと思っております。」
「そうか。長崎に帰ることがあったら、幸ちゃんの墓参りに行ってくれないか?」
眞一郎はそう言うと、藤宮家の菩提寺の住所が書かれたメモを環に手渡した。
「是非、伺わせていただきます。神谷様、幸さんのご両親はご健在でいらっしゃいますか?」
「伯父様は、7年前に肺炎でお亡くなりになられて、伯母様は昨年の暮れに天草の療養所で亡くなられたよ。」
「まぁ、お二人ともお亡くなりになられたのですね。女学校を卒業してから、幸さんのご両親とは交流がないままだったので、全く存じ上げませんでした。」
「それは無理もないよ。伯父様達から自分達の近況を話さないように固くわたし達に口止めしていたからね。君との文通も禁止していたほどだから、君が、伯父様達が亡くなった事を知らないのも無理はないよ。」
「そうですか・・」
眞一郎の口から驚愕の事実を知らされた環は、そう言って俯いた。
「幸ちゃんの娘は、どうやらお転婆に育ったようだね。」
眞一郎は苦笑しながら、木によじ登っている菊を見た。
「あの子ったら、また木に登って・・」
環は眦を上げると、菊の方へと向かった。
「菊、ドレスを着たまま木登りしてはいけないって何度も言っているでしょう!?」
「ごめんなさい、お母様。」
「早く降りていらっしゃい!」
環から怒られ、慌てて木から降りようとした菊だったが、足を滑らせて彼女は地面から真っ逆様に落ちていった。
環が悲鳴を上げながら菊を抱きとめようとしたが、その前に眞一郎が彼女を抱き留めた。
「怪我はないかい?」
「はい・・ご迷惑をお掛けしてしまって、すいません。」
「謝らなくてもいいよ。子供が元気なのはいいことだ。」
「神谷様、申し訳ございません。」
「環さん、そんなに菊ちゃんを叱らないであげてくれないか?確かに菊ちゃんはお転婆が過ぎるところがあるけれど、それも愛嬌というものだよ。」
「そうですか・・」
「さてと、そろそろお昼だから、向こうで美味しい物を食べよう。」
環と菊が眞一郎と共に料理が並んでいるテーブルへと向かおうとした時、突然屋敷の中から強い視線を感じて環は二階の窓を見た。
すると、そこには菊より数歳年上の少年が冷たい目で環を見つめていた。
「環さん、どうしたんだい?」
「いいえ、何でもありません・・」
環が再び二階の窓の方を見ると、少年の姿はそこにはなかった。
「凛子さんと眞一郎様は何処でお知り合いになられたのですか?」
「凛子とは、教会の慈善活動を通して知り合ったんだよ。」
「そうですか。お子さんはいらっしゃるのですか?」
「一人居るが、ちょっと気難しい子でね・・」
眞一郎に子供の事を環が聞くと、彼はそう言葉を濁した。
「貴方、孝(たかし)の事を隠していても仕方がないわ。この際、環さんにきちんとお話ししては如何かしら?」
「そうだな。」
眞一郎はそう言うと、深呼吸をして自分達の義理の息子・孝について環に話し始めた。
「わたし達の義理の息子の孝は、幸ちゃんの婚約者だった信孝の子供なんだ。」
「信孝さんの子・・あの子が?」
環の脳裏に、二階の窓から自分を冷たい目で見下ろしている少年の姿が浮かんだ。
「母親は誰なのです?」
「孝の母親は、信孝の家で奉公していた女中だ。彼女の妊娠が判った時、信孝はあの子を闇医者に始末させようとしていた。」
「そんな・・その女中は、今何処にいらっしゃるのですか?」
「信孝が、女中を手に掛けました。彼女が孝を出産した後、信孝が彼女を縊り殺したんです。」
「どうして、そんなことを・・」
「当時、信孝には結婚を決めた相手が居ました。それなのに、女中が勝手に自分の子を産んだことに憤慨したのでしょう。信孝は孝が物心ついた頃には彼を蔵に閉じ込めて、世話係の女中に三度の食事を運ばせるだけで、一度もあの子に会おうとしませんでした。」
眞一郎は一旦言葉を切ると、薔薇園で遊んでいる菊の方を見た。
「菊ちゃんは幸せ者ですね。貴方とルドルフさんという両親の愛情に恵まれて・・」
「眞一郎様が孝君を引き取ろうとお決めになったのは、いつ頃なのですか?」
にほんブログ村