大人達が深刻な話をしている頃、菊は神谷邸にある薔薇園で色とりどりの薔薇を見ていた。
長崎で暮らしていた家の庭にも、祖父が育てた薔薇が咲き誇っていたが、世話が大変だと彼が一度、自分に零していたことがあった。
だが、薔薇の世話をしている時の祖父の顔は、何処か楽しそうだった。
『菊、人は夢中になるものを見つけると、時間を忘れてしまうものなんだよ。』
自分にもそんな物が見つかるのかと祖父に尋ねると、彼は笑顔を浮かべながらこう言った。
『きっとお前にも見つかるさ。』
あの時の祖父の言葉の意味はまだ解らないが、いつか自分にも夢中になれるものがあるのかもしれないと、菊はそう思いながら薔薇園の中で遊んでいた。
その時、彼女は薔薇のアーチの前に立っている一人の少年の姿に気づいた。
彼は仕立ての良い洋服を着ており、使用人の子供ではなく、この家の子供だということが一目でわかった。
「お前、誰?」
血のように赤く美しい唇から発せられた声は、氷のように冷たいものだった。
「わたしは菊、この家にお母様と招かれたのよ。」
「菊っていうの?外人なのに日本人の名前なんだな。」
少年の侮蔑に混じった言葉に少しムッとしながら、菊は胸を反らして彼を睨みつけた。
「あら、貴方のお名前は何というのかしら?人の名前を馬鹿にしておいて、自分から名乗らないなんて紳士のする事ではなくてよ。」
「孝だ。菊、お前は西洋人とのあいの子なのか?」
「ええ、そうよ。それがどうかして?横浜には、西洋人とのあいの子くらい、星の数ほど居るし、珍しい事じゃないわ。」
少年―孝は、自分よりも年下だというのに物怖じしない態度をしている菊に興味を持った。
彼女の髪と瞳は、初夏の太陽に照らされて時折美しい光を放っていた。
「お前、学校には行っているのか?」
「ええ。貴方は?」
「僕は学校には行っていない。家庭教師の先生に家に来て貰っているんだ。」
「そう。わたしのお父様も、子供の頃には学校には行かずに家でお勉強していらしたのですって。お父様の周りには、いつも自分のお世話をするメイドや使用人達が沢山居たのですって。」
「お前の話を聞いていると、お前の父親は相当金持ちのお坊ちゃんらしいな?」
「さあ、解らないわ。だって、お父様は余り昔の事を話してくださらないもの。きっと、思い出したくない事があるんだわ。」
菊はそう言って空を仰ぐと、孝の方へと向き直った。
「貴方、家に居る時は何をしているの?」
「読書をしたり、楽器を弾いたりしているよ。菊は?」
「わたしは、友達と外で遊んだり、アイリスと遊んだりしているわ。」
「アイリス?お前、犬を飼っているのか?」
「アイリスは狼よ。学校の帰りにわたしが拾って、お父様達と一緒に育てているの。一度貴方に会わせてあげるわ。」
「変わっているな、お前。この僕を怖がらない奴なんて、初めてだ。」
「わたしはよく貴方の事を知らないもの。」
菊がそう言って孝の方を見ると、彼は突然大声で笑い出した。
「どうしたの?」
「いや、何でもない。それよりも菊、ここは暑いから家の中に入らないか?」
「ええ。」
孝に誘われ、菊が彼と共に神谷邸の中へと入ると、居間には美しいマホガニー色の輝きを放っているグランドピアノが置いてあった。
「菊との出会いを記念して、僕が何か一曲弾いてやろう。何がいい?」
「そうねぇ・・お父様が良く蓄音機で聴いていたシュトラウスの『春の声』がいいわ。」
「わかった。」
孝がピアノの蓋を開けると、中から象牙色の鍵盤が姿を現した。
彼がピアノを弾き始めると、菊はうっとりとした表情を浮かべながら、その音色に聞き惚れていた。
「あら、家の中からピアノの音色がするわ。」
「様子を見に行こう。」
環達が居間に入ると、そこにはピアノを一心不乱に弾く孝の姿と、それに聞き入っている菊の姿があった。
「お母様、黙って家の中に入ってしまって御免なさい。」
「貴方が、孝君ね?」
環はそう言うと、ピアノの前に座っている孝を見た。
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