第一部
「アーニャ、そろそろ起きて支度をしな。」
「わかったわ、お祖母ちゃん。」
アーニャは眠い目を擦りながら、ゆっくりとベッドから起き上がり、馬に餌をやった。
「おはよう、モンセラート。あんたはいつも早起きね。」
美しく艶やかな黒毛の馬は、アーニャの声に応えるように軽く嘶(いなな)いた。
「アーニャ、ここに居たのかい。ちょっと手伝っておくれ。」
「はぁい。」
祖母のグレタと共に、アーニャは彼女の仕事場である占い小屋へと向かった。
「グレタ、今日は可愛い子ちゃんも一緒かい?」
「この子には占いの才能があるから、あたしが勉強させてやっているのさ。そうだろう、アーニャ?」
「そうよ。でも、わたしは占いの勉強をするより、友達と遊びたいわ。」
「全く、しょうがない子だね。遠くまで行くんじゃないよ、解ったね?」
「はぁい。」
グレタの占い小屋の裏口から外へと出たアーニャは、路上で林檎を売っている親友のカミーラの元へと向かった。
「アーニャ、あんた占いの勉強はどうしたのよ?」
「占いの勉強はお休みよ。それよりもカミーラ、今日は林檎が沢山売れたのね?」
「ええ。うちの林檎は他よりも安いからね。それに、こんなご時世じゃぁ誰だって安い物を買いたくなるじゃないの。」
「そうね。新聞にも書いてあったわ。このまま食料品の値段が上がれば、あたし達は飢え死にするしかないって。」
カミーラとそんな話をしながら、アーニャは時折グレタが客と物価が高くてまともな物が買えないことを愚痴っているのを思い出した。
“ったく、国のお偉い連中は何をしているんだか。国民を飢え死にさせないような方法を全く考えないで、自分の私腹を肥やすことしか考えていないんだからね。”
「カミーラ、何こんな所で油を売っているんだい!」
路地の向こうから、カミーラの母親・グラゼーラの怒鳴り声が聞こえてきたかと思うと、彼女は贅肉を揺らしながら娘の方へと駆け寄って来た。
「あたしの目を盗んで、またジプシー娘と遊んでいたのかい!」
「あたしはジプシーじゃないわ、ロマよ!」
「どんな呼び方でも、あんた達はならず者には違いないんだ!さっさとこの町から出て行きな!」
グラゼーラはアーニャを睨みつけ、カミーラの腕を乱暴に掴んで路地の向こうへと消えていった。
「おや、戻って来るのが早いじゃないか。」
「お祖母ちゃん、あたし達はならず者なの?」
「誰が、お前にそんな事を言ったんだい?」
いつも自分に穏やかな笑みを向けているグレタが、アーニャの言葉を聞いた途端、魔女のような険しい表情を浮かべた。
「カミーラのお母さん・・青果店の女将さんよ。」
「あんな女の言う事なんて、気にしちゃいけないよ。あたし達はちゃんと仕事をして生計を立てているんだ。他人様の物を盗んだりしていないし、殺してもいないんだから。」
「そうよね。今度カミーラのお母さんに会ったら、言い返してやるわ!」
「その意気だよ、アーニャ。さぁ、そろそろ店じまいしようかね。」
グレタがそう言って椅子から立ち上がった時、店に二人組の警官が入って来た。
「何だい、あんた達、今日は店じまいだよ。」
「占い師のグレタというのは、お前か?」
「ああ、あたしがグレタさ。こんな婆のあたしに、何の用だい?」
グレタがそう言って警官達を睨むと、彼らはグレタの隣に立っているアーニャを見た。
「この子が、そうか。」
長身の警官は、アーニャの前で膝を折ると、彼女の顎を掴んだ。
「何をするの、離して!」
「あたしの孫娘から手を離しな!」
「落ち着いてください、お婆さん。わたし達は、貴方達をずっと捜していたのですよ。」
「あたし達を捜していただって?お巡りさん、話が全く見えないから、あたし達に解るように言ってくれないかい?」
「ゲオルグ、例のものを。」
長身の警官はアーニャの顔から手を離し、グレタに一枚の写真を見せた。
それは、彼女が昔奉公していた屋敷の前で撮ったもので、グレタの隣には赤ん坊を抱いた一組の若い夫婦が立っていた。
「この写真に、見覚えがありますね?」
「ああ。あたしと一緒に写っていらっしゃるのは、アッヘンバッハ子爵家の御令嬢のヘレーネ様と、その旦那様のダンテ様さ。その写真が一体どうしたっていうんだい?」
「実は、ヘレーネ嬢が抱いている赤ん坊が、貴方のお孫さんであるということが解りました。ですから、署までご同行頂けますか?」
「解ったよ。アーニャ、店の掃除と戸締りは任せたよ。あたしが帰るまで、家に誰も入れるんじゃないよ、解ったね?」
「解ったわ、お祖母ちゃん。」
「それじゃぁ行こうか、お巡りさん達。」
警察の車に乗せられたグレタに、野次馬達が好奇の視線を向けた。
―あの婆さん、一体何をやらかしたんだろうね?
―さぁね。
―まぁ、早いとここの町から出て行って貰わないと困るね・・
「お祖母ちゃん・・」
「そんな顔をするんじゃないよ、アーニャ。あたしは何も悪い事なんかしていないんだ、すぐに帰って来るさ。」
不安がる孫娘の肩を、グレタは優しく叩くと、警官達と共に車に乗り込んだ。
「余りお時間は取らせませんので、ご安心ください。」
「そうかい。」
グレタは座席に身体を深く沈めると、目を閉じた。
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