ブカレスト市郊外にあるロマの集落で、アーニャは自らの出生の秘密を知らぬまま、安らかな寝息を立てていた。
「ヨハネス、今帰ったよ。」
ドアを叩く音がして、ヨハネスがドアを開けると、疲れた顔をしたグレタが家の中に入って来た。
「随分と遅かったじゃないか、グレタ。警察署で何があったんだい?」
「色々と質問されたのさ。あの子を拾った時の事を、根掘り葉掘り聞いてきたから、当時の事を思い出す限り警察署で話したのさ。そしたら、長くなっちまった。」
「あれから15年経ったんだぞ?そんな昔の事を聞いてどうするんだ?」
「さぁね。きっと、あの子の・・アーニャの両親があの子を見つけたんだろうよ。」
「そうか・・グレタ、お前さん昔、ウィーンの貴族のお屋敷に女中奉公していたとか言っていたな?その時の事を、俺にも聞かせてくれ。」
「わかったよ。その前に、水を一杯くれないかい?警察署で話し過ぎて喉が渇いちまったからね。」
「ああ、わかったよ。」
ヨハネスは台所からグラスが入った水をグレタに手渡すと、彼女はそれを一口飲んで溜息を吐いた。
「何処から話したらいいのか解らないけれど・・15年前、あたしはウィーンの、アッヘンバッハ子爵家に女中として働いていた。その頃、子爵家には一人娘の、ヘレーネ様の結婚が決まったばかりだった。ヘレーネ様は当時18歳、社交界デビューしたばかりの美しい貴族のご令嬢だった。ヘレーネ様の美しさはウィーン社交界の噂の的になったもんだったさ。でも、ヘレーネ様にはある秘密があった。」
「ある秘密って、何だい?」
「ヨハネス、ルドルフって誰だかわかるかい?」
「俺を馬鹿にするんじゃねぇ、グレタ!ルドルフっていやぁ、このハプスブルク帝国の皇太子様だろう?」
「済まないね、ヨハネス。ちょっとあんたをからかってみただけさ。さてと、話を元に戻そうか。ヘレーネ様は、ルドルフ様の下で女官として働いていた。
ヘレーネ様から皇太子様の写真を一度見せて貰ったことがあるが、彼はとても美男子で、女性関係が派手でね、何処かに石を投げたら皇太子様と付き合った女に当たるんじゃないかっていう冗談がウィーンっ子の間で一時期流行ったものさ。そんな皇太子様が、若くて美しいヘレーネ様を見逃す筈がないだろう?」
「つまり、お前が言いたいのは、アーニャがルドルフ様の・・皇太子様の娘だということか?」
「ああ。ヘレーネ様が、当時婚約者だったユリウス様と結婚する一ヶ月前に、こっそりとあたしに話してくれたのさ・・皇太子様に、純潔を捧げたことをね。」
ヨハネスはグレタの話を聞いた後、頭が混乱して爆発しそうになった。
現在ルドルフ皇太子は30歳―つまり、グレタの主であったヘレーネ嬢と関係を持った時、彼は15歳だったことになる。
「15歳の時に出来た子がアーニャだっていうのなら、皇太子様はとんでもなく色気づいていたんだな。」
「そりゃぁあんた、ルドルフ様はこの帝国に生まれた唯一の皇太子様―次期皇帝となるお方だよ。10代の頃から“教育係”のお世話になっているんだから、早熟になるのもわかるものさ。」
「“教育係”ねぇ・・」
ヨハネスは溜息を吐くと、天を仰いだ。
「それでグレタ、アーニャをこれからどうするつもりだい?皇太子様の娘だと解った以上、いつまでも皇太子様が放っておく筈がないだろう?」
「そうだね。けれどあたしは、あの子が嫁に行く日まであの子と暮らしたいと思っているんだ。何も知らないほうが幸せっていうこともあるだろう?」
「アーニャには、いつ告げるんだ?」
「時が来たら話すさ。」
グレタはそう言って椅子から立ち上がり、アーニャが眠っている部屋へと向かった。
ベッドでは、相変わらずアーニャがベッドで安らかな寝息を立てて眠っていた。
グレタは、そっとアーニャの美しい金髪を優しく梳いた。
(あんたは、何も知らずにここであたしと暮らした方が幸せなんだよ、アーニャ。)
グレタは視線をアーニャの顔から彼女の平らな胸へと移した。
ヨハネスには話していない秘密が、まだグレタにはあった。
それは、アーニャが男だという事だ。
アーニャが皇太子の息子だと周囲に知られたら、ハプスブルク帝国転覆を目論む輩がアーニャの命をつけ狙うに決まっている。
この秘密は、墓場まで持って行かなくては―そんな事をグレタが思っていると、突然外から天地を揺るがすような轟音(ごうおん)が響いた。
「何だい、今のは!?」
グレタが居間へと戻ると、そこには恐怖で腰を抜かしたヨハネスが外を指していた。
グレタが外へと視線を向けると、集落に広がる紅蓮の炎が見えた。
「アーニャ、起きろ!」
「ヨハネスさん達、何処かへ行くの?」
「集落が襲われた。荷物を纏めて早くここから逃げるんだ!」
真夜中に突然叩き起こされ、訳も分からぬままアーニャはグレタと共にヨハネス達を別れ、家に戻って荷物を纏めた。
「一体何が起きているの、お祖母ちゃん?」
「それは、あたしにも解らない。今はとにかく、ここから安全な場所へ逃げる事だよ。」
グレタと共に家を出たアーニャは、炎に包まれる集落を後にした。
「お祖母ちゃん、これから何処に行くの?」
「駅へ行こう。あそこなら人が多いし、安全・・」
闇を切り裂くかのように突然銃声が響き、アーニャの前を歩いていたグレタの身体が地面に崩れ落ちた。
「お祖母ちゃん・・?」
アーニャが恐る恐る祖母に呼びかけると、仰向けに倒れた彼女の額には穴が開いていた。
突然の祖母の死にアーニャが恐怖と悲しみで震えていると、誰かが背後から彼女の口を塞いだ。
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