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森信三、坂村真民を語る

「坂村真民」の詩の紹介(森信三「幻の講和」第二巻より)

○第三講「生きることの探求」より

「  主人貧しくも  坂村真民

  主人貧しくも 鶯来鳴き 春の戸ひらく

  主人貧しくも 月照り ひかり堂に満つ

  主人貧しくも 石笛吹けば 天女舞う

  主人貧しくも タンポポ咲いて 種子四方に飛ぶ

 坂村さんは、戦前は朝鮮で先生をしていられたのです。そして敗戦によって食糧難の祖国へ引き上げてこられて、四国の片田舎で苦難の日々を送られたようですが、そうした中からも、つねに詩作にはげんで、毎年一冊ずつ詩集を出して、ごく少数の知己の範囲に頒って来られたのです。

 そしてこの詩は、その処女作の『六魚庵天国』の中に入っている詩ですが、そのころの坂村さんの生活や心境の点からして、ここに掲げてみた次第です。

 清貧というコトバが、いかにもピッタリとよくあてはまる詩でしょう。しかし坂村さんの今日あるのは、ひとえに、当時このような極貧に近い生活にもかかわらず、詩を自分の「天職」と心得て、それに没頭してこられたからであります。つまり、坂村さんが今日、一部の人々から『国民詩人』と呼ばれるようになった土台は、いわばこの時期に築かれたといっていいでしょう。

現在、坂村さんは、ご自宅のお住まいを『タンポポ堂』と名づけていられますが、そうしたタンポポへのふかい愛情も、すでにこのころきざしていたと言えそうですね。」

○森先生は、「われわれ人間が、この二度とない人生を真実に生きようとしたら、
「師」を持たなければならない。真に生きた真理は、これを生み出した人自身によって語られ、さらにはその人が実践されるのを目の当りに見るのでなければ、真実の趣は分り難い。」と言われる。

「われわれの人生は、実に限りない深さをもったものだが、また無自覚のうちに死んでゆく人も少なくない。
何ゆえ人生の真理の深さは、かくも限りないのか。
われわれ人間がこの地上に生まれ出た根源の力は結局神に基づく。
それは「宇宙生命」とか「大自然」といってもよい。
一人ひとりが、大宇宙の根源意志につらなって生きているのだ。」

○第四講「自分を育てるのは自分」

「  ひとりひそかに  坂村真民

  深海の真珠のように

 ひとり ひそかに

  じぶんを つくってゆこう

 ごらんのように、この詩はごく短い詩ですが、それだけにかえって、読む人の心に深く訴えるものを持っているといえましょう。

 坂村さんは、戦後海外からの引揚者の一人で、四国の片田舎で、極度の食糧難の中で、五人の家族をかかえて、日々を苦しい生活にあえぎつつも、その間自己の天職と考える詩作の道に励まれたのです。

 しかしながら、そのころ詩人としての坂村さんの本質を知る人は、ほとんど無かったといってもよいでしょう。

しかもそうした深い孤独の中にありながら、坂村さんは詩作のあゆみを怠らなかったのです。
そしてこの詩は、ある意味ではそうした坂村さんの心境を表現したものと
いってよく、そのためにこんなに短い三行詩でありながら、よく万人の心を打つことができるのでしょう。」

○「前回、われわれ人間にとって、自分の生き方の探求ほど大事なものはないと申しました。そして、書物以上に大事なのは「師」で、書物に書かれた真理が平面的だとすれば、「師」を通して得られる真理は立体的で、人生のふかい真理は一人の生きた人格において初めて生かされるのです。
われわれが真摯に人生の真理を探求しようとしたら、生きた人格として、全力を挙げて真理に生きようとしている「師」について学ばねばならない。

 真に「師」に学ぶということは、単に「師」の言われたり、行われることを模倣することで満足しないで、「自分を育てるものは結局自分以外にはないのだ」という態度を確立しなければならない。


○第五講「家庭というもの」より

「  ねがい   坂村真民

  ただ 一つ 花を 咲かせ そして 終る

この 一年草の 一途さに 触れて 生きよう

○森先生は、子どもの基本的しつけは、一、朝晩のあいさつ 二、返事 三、ハキモノをそろえる の三つでよいと考える。

「あいさつと返事ができるようになれば、親のいうことの聞ける子どもになる。
この二つをしつけることによって、一応子どもとしての「我」が除かれるために、親のいうことを素直に聞けるようになる。
基本的なしつけは、ごく少数の基本的事柄を小さいうちにーなるべく小学校に入る前にー十分に徹底させることが、しつけの秘訣です。」と

○第六講「学校というところ」より

「  花は開けど   坂村真民

 花はひらけど わが眼ひらかず わが心ひらかず

罪業の深さよ 視力を失おうとする 眼に映りくる 花の清さよ

坂村さんが、今日に到られたについては、いろいろな原因が働いているでしょうが、私に分かっている範囲では、
1 お母さんが偉かったこと、
2 杉村春苔尼という優れた方を師として持たれたこと、
3 敗戦による引揚者の一人として、辛酸をなめられたことなどが考えられます。
しかし、もう一つの大きな原因は、坂村さんは中年のころ眼疾にかかられ、一時は失明の恐れさえあったということです。
そしてこの詩は、そうした消息の伺える詩といえましょう。
実際、眼病は、特にそれが失明の恐れさえあるというに到っては、その深刻さは直接その経験をした人でなければ分かりません。
それというのも、万一失明となると、第一教職に留まっていられなくなります。
失明は直ちに失職につながるわけで、失業はやがて死につながりますから、実に深刻きわまりない出来事といってよいわけです。
この詩の背景となっているこれらの事柄を頭に入れた上で、もう一度この詩を読んでみましょう。

 花はひらけど わが眼ひらかず わが心ひらかず

罪業の深さよ 視力を失おうとする 眼に映りくる 花の清さよ

いかがです。こうして味わってみますと、詩というものが心ある人々にとって、いかに深い力を持っているか、お分かりになりましょう。

○第七講「世の中へ出て」

「  念ずれば花ひらく  坂村真民

 念ずれば 花開く 

苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばを 

わたしも いつのころからか となえるようになった

そうしてそのたびに わたしの花が ふしぎと

ひとつ ひとつ ひらいて いった

 坂村さんの今日に到られたいくつかの原因のうち、第一にお母さんの偉さをあげましたが、実は坂村さんは、五つの歳にお父さんが亡くなられ、それ以後は未亡人のお母さんによって育てられたそうです。

そういう中で、息子を遠く専門学校へ入られたその一つをとって見ても、坂村さんのお母さんという方が、どういう方だったかが、うかがえるのです。それというのも、
もしお母さんがそれに反対だったら、おそらく現在の坂村さんはありえなかったと思われるからです。 

しかし、坂村さんのお母さんの偉さはひとりそれだけではないのであります。
そしてその点ハッキリうかがえる点で、この詩のもつ意義は大きいといっていいでしょう。

それにしても「念ずれば花ひらく」とは、何という良い言葉でしょう。それはこの世にあるコトバのうちでもおそらくは最上のコトバの一つといってもよいのではないでしょうか。このように考えますと、坂村さんの今日あることも、決して偶然ではないといえましょう。

○「われわれ人間は、社会を「場」として行われる人間形成の厳しさによって、深刻な鍛錬を受けると申しました。

しかし、われわれ人間は、これら職業的な事柄以外にも、さらに家庭的な種々の出来事によって深刻な試練を受けるのであります。それは両親に亡くなられるとか、妻や子を失ったり、あるいは火災や盗難、地震等の天災に見舞われたり、時には自分自身が病気になったり、私生活上の苦難の鍛錬も決して少なくないのであります。

では、これらの試練に対して、一体どのように対処するかというと、結局これらの試練を正しく受け止めるしかない、
つまり、それらの試練は、「天」がこの自分を鍛えるために与えられたものと考える他ない。同時にこれ以外には、それらの苦難を根本的に生かす道は、おそらくはあるまいと思うのです。

○第八講「血の問題」より

「  あ   坂村真民

  一途に咲いた 花たちが 大地に 落ちたとき

“あ”と 声をたてる あれを 聞きとめるのだ

つゆぐさの つゆが 朝日をうけたとき

“あ”と 声をあげる あれを 受けとめるのだ

 この詩を読んでみて、皆さん方はどんなにお感じでしょうか。詩ごころのない人は、こういう詩をよんでも、大して感じない人もあろうかと思いますが、しかしそれでは困ると思うのです。

 では、この詩はいったいどのように味わったらよいのでしょうか。それには、落ちる時にたてる幽かな音が、皆さん方の耳に聞こえるかどうか。

 さらにまた、露草のつゆが朝日を受けたとき、その時に発する音が、はたして聞こえるかどうかーいうことが問題なわけです。

 もちろん、それらの声は、いわゆる物理的の音ではありません。それ故ここにも音と言わないで声とあるわけですが、しかしそうした声が、はたして聞こえるかどうか。
声という以上、それは、それぞれのいのちの立てる声ですから、花やつゆぐさのいのちに共感しうる人でなければ、その声は聞こえないわけです。
そして詩人といわれる人々は、いわば、そうした幽かな声の聞こえる人だといっていいでしょう。

○人間は、生まれついた自分の性格の生地を直すということは、容易なことではありません。
それは徹底的に生まれ変わるということだからです。

 この点について、忘れがたいのは、中国の宋代の哲学者の書いた書物の中に「真の学問というものは、自分の生まれついた気質を変えることだ」というコトバに三十代半ば頃出会って驚いたのであります。

☆世の中は正直

Kさんから誘われて仕事が終った後、駅前の居酒屋に飲みにいった。
事前に3人でと掘り炬燵式の席を予約してある。

道々、語りながら言った。
「森信三という人を知ってます?」
「いや、知らない。誰?」
「戦前に師範学校の先生をされていた方で、戦後は小学校などを回られては、

1.あいさつをする
2.いすをいれる
3.くつをそろえる

という躾(しつけ)の三原則などを説かれたんです。」

「ふーん、朝夕の挨拶は大事だよね」

「先日、2ヶ月だけ職場で一緒だった人を誘って飲みに行ったんですよ。

『森信三という国民教育家ともいうべき教育者がいてね、
「人生二度なし」という言葉で有名なんだけれども、
その森先生の言葉で

「人間は一生のうち逢うべき人には必ず会える。
しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に」

というのがあるんだ。
あなたとこうして飲みにいくのも、そうした逢うべき時期なのかもしれないねえ。」って言ったら、
「私、その森先生って知ってます」と言うんですよ。」

「へー」

「彼が、小学5、6年生の頃、森先生が教室に来られて、講義されたことがあるんだそうです。
『もっとも、覚えているのは、森先生が、最初短い白いチョークを持って、長いチョークと短いチョークがあったら、私は短いチョークを使います。
長いチョークを使って、途中折れてしまうと調子が切れてしまうんですというのだけですが』って言ってましたが、
飲んでたら、
『そうそう、もう一つ思い出しました。
森先生は、朝、親に起こされるのではなく、一人で起きれなくてはいけませんとおっしゃったんです。
私はその時一人で起きれていたから、『できてる』と思ったんです。』
と言うんですよ。」

居酒屋には、まだ、しんちゃんは来ていなかったので、先に始める。
「最近一緒に飲みに行ってる人が焼酎が好きでね、私も好きになったよ。」
とKさんがおっしゃる。
「焼酎は、甲類と乙類ってあるんだってね。乙類じゃないとダメだと言うんだ。焼酎は度数が高いほどいいんだってね。」

「え~、泡盛は古酒といって、長く貯蔵して度数が高いのを尊びますけど、焼酎は違うんじゃないんですか。
そういうのもありますけど、やっぱり、風合いとか香りとか口当たりとかじゃないですかね」
などと焼酎談義する。

Kさんと世間話していたら15分遅れで、しんちゃんが大きな体を小さくしてやってきた。
「遅かったじゃない。」とからかうと
「5分前には来て、一階でずーと座って待ってたんです」と汗をふきふき弁明する。
「まあ、じゃあ乾杯!」と再び乾杯する。
いろいろ人間関係がギクシャクしている職場を、Kさんがうまく収めたらしく、しんちゃんが盛んに褒めたたえる。
「Kさんは、情熱と行動力で職場を変えていく力がありますからね。その奥には愛があるんですね。」と私も褒める。
おいおいみたいにKさんが少し照れる。

「Kさんは、もっと偉くなるべきですよ。おかしいですよ。」としんちゃんがあおる。

「こうして、Kさんのファンがいっぱいいるということが、世の中は正直
だということなんですね。」

 「世の中は正直」(森信三「修身教授録」2第二七講より)

○「この『世の中は正直』ということは、「最善説」の立場、すなわち『わが身に振りかかってくる一切の出来事は、自分にとっては絶対必然であると共に、また実に最善である』という信念と共に、実は私が人生に対して、ひそかに抱いている二つの根本信念です。

 なるほど、この世の中は、いわゆる『目開き千人、盲目千人』で、なかなか正しい評価というものは得にくいものです。

また、世の中は、随分不公平にできているとも言えましょう。

たとえば、一方にはくだらない人間が人にとりいることがうまかったりして、真価以上の高い位置についている例も決して少なくないことでしょう。

これに反して、ずいぶん立派な人でありながら、容易にその真価が認められないで埋もれており、世人もまた多くはその真価を知らず、したがって不遇のままに置かれているという場合も、決して少なくないことでしょう。

 このように、社会そのものが不公平であるというような現状でありながら、なお私が『世の中は正直である』、否『世の中は正直そのものである』ということを、自分の根本信念としているのは、果たしていかなる根拠において成立しているのでしょうか。

 私は世の中が不公平だというのは、その人の見方が社会の表面だけで判断したり、あるいは短い期間だけ見て判断するせいだと思うのです。

つまり自分の我欲を基準として判断するからで、もし裏を見、表を見て、ずーと永い年月を通して、その人の歩みを見、また自分の欲を離れて見たならば、案外この世の中は公平であって、結局はその人の真価どうりのものかと思うのです。

 たとえて申すと、仮にその人の真価以上、実力以上の地位にいるんだと判断されることそのことが、すでに世の中の公平なことを示しているものと言えましょう。
つまりあの男は、実力以上に遇せられているぞと、陰口を言われることによって、ちゃんとマイナスされている。
「あれは実力はないんだが、情実によって、あんな柄にもない地位について、得意になっているんだ」などと陰口を言われているとしたら、そのこと自身が、すでにマイナスされている証拠であって、世の中が正直で公平なことの、何よりの証拠と言えましょう。
これに反して、なかなか気概があって、先生からそれだけその人物を認められない生徒があったとしても、クラスの人から
「先生の評価はそれほどでもないが、頼みがいのある人物だよ」とか
「あういうことであの男が先生に誤解されているのは、実際気の毒だ」

などと思われているとしたら、それ自身がすでに大きなプラスであって、世の中は正直そのものではないですか。

あるいは黙々として独り修めているような人でも、その努力と人柄とは、他日いつかはその真価が認められ、さらには人を動かす力を貯えつつあるのではないでしょうか。

結局『世の中は正直そのもの』と言わざるを得ないでしょう。

少なくとも私自身は、自分の身の上について、かく確信している次第です。

神は至公至平であって、神の天秤は、何人においても例外なく平衡ですが、ただそうと気づかない人には、水平でありながら、それが水平と分からないのです。

分からないのは信じないからです。

そしてこのような神の天秤の公平さが、形の上に現れたものが、世の中は正直ということになるわけです。

しかるに普通の宗教家は、神の至公至平は認めながら、この世の中は不公平とする人が多いようです。

そして死んで天国極楽へ行って、初めてその正当な報いを受けると説くようです。

ところが私は、世の中そのものが、そのまま神の公平さの顕れであって、神の公平さと世の中の正直とは、実は別物ではない、別に死んでから浄土や天国へ行って報いを求めなくても、すでにこの世において、十分に神の公平さは顕れていると考えるわけです。私にはこれでなくては、真の安心立命にはならないように思われるのです。

ところが偉大な人になると、世の中は正直ということがその人の死後になっていよいよはっきりしてくるようです。

たとえば藤樹先生や松蔭先生の偉さなどは、亡くなられてから、初めて十分に現れてきたと言ってよいでしょう。

そこまでいかなくても、世の中が正直だということは、この一生を真実に生きてみたら、おのずと分かることだと思います。

それが正直と思えないというのは、結局そこに自分の自惚れ根性がひそんでいるせいです。

同時にこの点が本当に分かると、人間も迷いがなくなります。

それ故諸君も在校中に、仮に先生方から、十分にその真価を認められなくても少しも悲観するには及ばないのです。

真実は、必ずやいつかは現れずにおかぬものだからです。

ですから、諸君たちもこれを信じて、どうぞしっかり生き抜いてください。」


尊いのは足のうらである
 坂村真民の詩集『念ずれば花ひらく』より


尊いのは
頭でなく
手でなく
足の裏である


一生人に知られず
一生きたない処と接し
黙々として
その務めを果たしてゆく
足の裏が教えるもの


頭から
光がでる
まだまだだめ

額から
光がでる
まだまだいかん


足の裏から
光が出る
そのような方こそ
本当に偉い方である


しんみんよ
足の裏的な仕事をし
足の裏的な人間になれ


○古本屋で坂村真民さんの本があった。

「生きてゆく力がなくなる時」とある。

表紙には赤い生という炎が燃えていた。

「生きてゆく力がなくなる時」の本の帯に、表題の詩が記されている。


死のうと思う日は

ないが

生きてゆく力が

なくなることがある

そんな時

大乗寺を訪ね

わたしはひとり

仏陀の前に坐ってくる

力わき明日を思う心が

出てくるまで

坐ってくる

  坂村真民


仏島四国に来て
四国は仏島である。88箇所の霊場が、念珠のように島をとりまいている。世界にもまれな仏の島である。わたしはここに移り住んで、生まれ故郷以上のものとなった。
思えばここにわたしをして永遠なるものを求め、衆生の幸せを念じ続ける諸仏諸菩薩と近づけ、『詩国』と名づけて、わたしの念願詩誌を刊行させる由縁となったのである。
敗戦という祖国の悲劇がなかったなら、わたしは外地で根なし草のような人間として、二度とない人生を、個の生活に終始してしまったかも知れない。そう思うと、敗戦はわたしにとって、天恵とも言うべきものであった。
わたしが3歳の時である。村中にチブスとセキリが蔓延した。父がまず避病舎にうつされ、つづいてわたしが連れてゆかれ、姉もやってきた。
 家を出るとき、母がわたしに一番上等の着物をきせようとしたら、わたしがいったそうである。
「どうせ焼かれて死んでしまうんだから、そんな立派なものは着ない」と。
それを聞いて母が大変悲しんだということを、いくたびもなく母はわたしに言ってきかせた。・・・・

 そういうことがあって5年にして、父が急逝した。40の厄を越えきらず、5人の子を残して他界したのである。家にはわたしと妹が残り、皆は県立病院に急いだ。電報がきてわたしと妹はKさんに連れられて、汽車に乗り、軽便に乗り、熊本県立病院に急いだ。わたしは父に会えるものと思い、道中たのしくめずらしくてならなかった。しかしわたしが見たものは、すでにロウソクのともされた冷たい部屋に、蝋(ロウ)のような顔になって寝ている父であった。
 父の死に目に会えなかったのである。父の唇に末期の水をあげることのできなかった不孝の悲しみがこみあげてきた。・・・・・


 わたしは延命の願をしました
 まず初めは啄木の年を越えることでした
 それを越えることができた時
 第二の願をしました
 それは子規の年を越えることでした
 それを越えた時
 第三の願をしました
 おとうさん
 あなたの年を越えることでした
 それはわたしの必死の願いでした
 ところがそれも超えることができたのです
 では第四の願は?
 お母さん
 あなたの年に達することです 
 もしそれも越えることができたら
 最後の願をしたいのです
 それは世尊と同じ齢まで生きたいことです
 これ以上決して願はかけませんから
 お守りください



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