はしがき・プロローグ「パワーか、フォースか」(要約)はしがき キネシオロジーは、20世紀後半ジョージ・グッドハート博士によって、科学界で注目された。 ジョージ・グッドハート博士はそれを「応用キネシオロジー」と名づけた。 体にとって有益な栄養サプリメントを選択するときに特定の指示をする筋肉(インディケーター・マスル)は、肉体の敵となる刺激によって突然、弱くなるという物理的に反応する。 これの意味するところは、私たちの通常の意識よりもっと奥深いレベルで、体はすでに「知っていた」ということを示す。筋肉テストを通じて、何が私たちにとって良いか悪いか、それらのシグナルを測定することができる。 この典型的な実証例が人工甘味料に関するテストである。 インディケーター・マスルは健康的で自然のサプリメントに対しては強化されるが、人工甘味料に対しては弱化する。 1970年代後半になると、ジョン・ダイアモンド博士によって、この専門分野は「キネシオロジー行動学」と呼ばれるようになった。 ダイアモンド博士が発見したのは、物理的な刺激と同様、肯定的かあるいは否定的な感情といった、知的な刺激や感情的刺激によって、インディケーター・マスルが反応するということだった。 キネシオロジーテストのやり方(「体は嘘をつかない」ダイヤモンド博士より) 1 被験者に直立して、右腕をリラックスしてもらって、その腕のひじを伸ばし、床と平行になるまで伸ばすようにさせます(もう片方の腕を使ってもよい)。 2 あなたは被験者と向かい合って、右手を被験者の左の肩においてぐらつかないようにします。 そして、あなたの左手を被験者の腕をできるだけ迅速にしっかりと、均等に押し下げます。 跳ね上がるバネを押してみるつもりで、十分に強く押し下げますが、筋肉が疲れるほど強く押さなくてもよいです。 これはどちらかが強いかを見るテストではなく、押されると筋肉が肩関節をロックできるかどうかを見るためです。 筋肉にも被験者にもまったく問題がなく、リラックスした気持ちでテストを始めるなら、筋肉は「確かな強さ」つまり腕がロックされた状態を見せてくれます。 テストがネガティブな刺激(例えば人工甘味料)を与えて行うと、同じ強さで押しても被験者の腕は抵抗できずに下がってしまうでしょう。 このダイアモンド博士テスト結果が衝撃だったのは、被験者の反応に一貫性が現れたことだ。 つまり、この反応は予測可能であると同時に反復可能であった。 ダイアモンド博士は、研究しているうちに、もう一つの現象に気がついた。 ある被験者が、嘘をついていると分かる話のテープを聞かされると、テスト結果は弱くなった。また明らかに正しい話には、強い反応が現れた。 この研究成果をもとに、精神医だったホーキンズ博士は、1975年に真実と嘘についてのキネシオロジー反応に関する研究を始めた。 被験者は、テストされる物質や問題に対して、いかなる知識も必要ではない。何も書かれていない封筒に入れられた人工甘味料に対しては例外なく弱い反応があらわれ、全く同じ外見の封筒に入った人工甘味料のブラセボ(小麦粉のような無害なもの)には強い反応が現れた。 「精神性」や「思考」といった形のないものをテストしたときも、同じような率直な反応が現れた。 これによってホーキンス博士は意識のデータベースともいうべきものを作り上げた。 そして、あなた自身もこのキネシオロジーテスト(Oリングテストなども同じ原理を使ったものである。)によって、世の中の思想の真実性のテスト、意識のレベルのテストをすることができる。 プロローグ ホーキンズ博士は、3歳のとき、「完璧な意識」を経験したという。 それは「I am」(私は存在する)という意味の理解だった。 ホーキンズが、1939年新聞配達をしていた時、吹雪に襲われた。自転車はひっくり返り、新聞は散らばり、挫折感で涙があふれ、疲労しきっていた。 ホーキンズは、積もった雪を掘って風除けを作った。その中に入ると身震いは止まり、温かさと平和の気持になった。光が覆い、無限の愛があった。その愛は、始まりも終わりもなく、彼自身の本質と区別がつかなかった。すべての存在が今、光り輝やいた。心は静かになり、すべての思考は停止した。すべては無限で、時間や表現を超えていた。 その時、誰かが彼を揺すぶった。父親が心配して探しにきてくれたのだった。 このスピリチュアルな体験は誰にも語らなかった。しかし、伝統的な宗教は色あせてしまった。 第二次大戦後、彼は精神医学を研究するため医学校に進学した。 38歳のとき、致命的な病気にかかった。死期が近づいていたことを悟って、 「もし神がいるのなら、今、私を助けてください」と祈りながら大声で叫んだ。神に身をゆだねた瞬間、意識を失った。そして目覚めた時、大きな変化が現れていた。 「私」という人間は存在せず、個人的なエゴは全く存在していなかった。あるがままの無限のパワーが存在するだけだった。この世は「無限の存在」に輝いていた。この静寂さは9ヶ月続いた。すべては完璧だった。名声や成功、お金は無意味に感じられた。 自我の下に潜む現実を知った。心の病の原因は、自分の存在を「自己」と信ずる「信念」にとらわれてしまうことにあることを知った。 その後、診療活動を再開し、アメリカ中から患者がおしよせた。 世界のあらゆるものと人々が、光り輝いていた。人類は皆、内なる愛によって動かされているが、気づかないだけだ。 博士は朝食前と夕食前1時間瞑想する習慣があったが、あまりの至福感に満たされるため、日常生活に戻るのが難しくなり、その習慣をやめなくてはならなかった。 数年間博士は「永遠の存在」の道具として、その望むとおりに動いた。 奇跡は日常的に起きた。博士の慢性病は治り、視力も正常に戻った。眼鏡も必要なかった。ハートから出る「無限の愛」は、交通事故の悲惨さを救い、ギャングの抗争を辞めさせた。博士が行くと、喧嘩はやみ、彼らは笑い始めた。 過去も現在も未来も、知覚の産物であった。時間は幻想に過ぎなかった。「私」という限定された自己(self)が、無限の宇宙の自己(Self)に溶けたとき、完璧な平和の意識とともに、すべての苦しみから解放されたあとの静寂さだけが残った。「個」という幻想が、すべての苦しみの原点だった。人間がこのことに気づくと、その人は宇宙であり、完全であり、すべてと共にある。それは永遠で苦しみは消滅する。 患者は世界各国から訪れた。多くは絶望的な症状の人々だった。しかし、それぞれの患者の内側に、愛と美の輝く本質が見えた。 ある日、拘束衣を着せられた無表情の女性の患者が運ばれてきた。これまで数多くの医者にかかったが、絶望的だとさじを投げていた。 博士は「神よ、彼女に何をせよというのですか?」と彼女を見ながら無言で尋ねた。その瞬間「彼女を愛すること」だと分かった。それがすべてだった。 すると彼女の目が輝き始めた。そして彼女は癒された。こういうことが数多く起きた。 彼らの苦悩は終わり、内なる平和を感じていた。内なる平和は時間と個体を超越して、私達を共に包んだ。 博士は「すべての痛みと苦しみは神から生じるのではなく、自我から生じる」ということを知った。そして沈黙の中で患者の心に告げた。ある患者は無言のうちに 精神的なブロックをしていると直感的に感じたので、「あなたは自分の自我があなたにしていることを、神のせいにしています」と告げた。するとその患者は驚いて床をとびあがって、話しはじめた。 博士の病院は増築に増築を重ねたが、患者はいつも溢れ、ベッドが空くのを待つ状態だった。博士は共通の病気の原因と、果てしない人間の苦悩について伝える方法を求めた。 その時キネシオロギーに出会い、肉体を心と魂の次元に連結し、失われた関係性を取り戻す道具を発見した。 そして思い描くだけで、世の中の物事を変えてしまう能力に心惹かれた。それは愛の存在しない世界が愛によって変容するかを見ていたからだ。的確なタイミングで愛のパワーに焦点を合わせると、文明の全体的なデザインを奥深くまで変えてしまえる、その時歴史が新しい進路を歩みはじめるということが洞察できた。 博士はそれまでの生活から離れ、ある小さな町で7年間瞑想と研究に明け暮れた。 自分の使命は、「無限の存在」を多くの人に運ぶことだと気づいた。 その「存在」は静かで、平和な意識を運ぶ。限りなく優しく、しかも岩石のように強い。恐怖は消え、喜びが恍惚感として静かなレベルで感じられる。時間がないので不安も後悔も期待もない。喜びの源は永遠に存在し、始まりも終わりもなく、失うことも悲しみも欲望もない。すべてが完璧で完全である。 この「純粋な意識」そのものが本来の自分を光り輝かせてくれる。 その意識に到達する道は実にシンプルだ。そのためには何よりもその状態に達したいという願いを強く持つ。そして例外を作らず、すべてに対して普遍的な許しと優しさをもって接すること。すべてに対して慈愛を持つこと。そして欲望にすがることをやめて、一瞬一瞬の個人的な意志を手放すこと。思考、感性、行為が神に委ねられるとき、心は静寂さを増す。 まず、心や思考、概念といった自分に語りかける対話を全て放棄する。 瞑想状態から一瞬も気をそらさずに、集中する。これを日常の行為の中で続けることで習慣となった。予期せずに意識にシフトが起きる。すべてを包む「存在」が間違いなく、存在することに気づく。一瞬自分は死んだのではという気持が起こり、次に「絶対的な」存在に対する畏敬の念が現れる。このブレイクスルーは素晴らしいものである。 無に変わり果てるかもしれないというエゴ(自我)に執着すると恐れが続く。自我が死ぬと宇宙と一体の「偉大な自己」(Self)と入れ替わる。 至福に到達するにつれて、強烈な恍惚感の状態を隠すことは難しくなり、すべてのために使いたいという共通の願望が生まれる。 この状態の恍惚感は不安定で、突然理由もなく消えると激しい絶望感に襲われる。神から見放されたように感じる。しかし、エクスタシーの栄光は放棄されなければならない。生きたいという欲を捨てる時、人はようやく実存も非実存も超える。存在の幻想を超えると後戻りすることはない。最終的なステップは個人の意識で選ぶことはできず、神みずからが踏む。 |