二宮翁夜話残篇【25】~【42】【25】翁曰く、若き者は毎日能(よ)く勤めよ、是(こ)れ我(わ)が身に徳を積むなり。 怠りなまけるを以(もつ)て徳と思ふは大(だい)なる誤りなり、徳を積めば天より恵みあること眼前(がんぜん)なり。 今(いま)雇人(やとひにん)を以(もつ)て譬(たと)へん、 彼(か)の男は能(よ)く働きて真実(しんじつ)なり、来年は我が家に頼むべしといひ、能(よ)く勤むれば婿(むこ)に貰ふべしと云(い)ふに至るものなり。 是(これ)に反する者は本年は取り極(き)めたれば是非(ぜひ)なし、来年は断るべしと云(い)ふ様(や)になるは、眼前(がんぜん)の事なり。 無智短才なりとも能(よ)く謹(つつし)み、能(よ)く顧(かへり)み、身に過(あやまち)無き様(やう)にすべし。 過(あやまち)は則(すなは)ち身の疵(きづ)なり。 古語(こご)に「身体髪膚(しんたいはつぷ)之(これ)を父母(ふぼ)に受く、敢(あへ)て毀傷(きしやう)せざるは孝の始めなり」とあり。 人過(あやま)てば、身の疵(きづ)となる事を知らず、傷さへせざればよしと思ふは違(たが)へり。 且(か)つ過(あやま)ちは身の疵(きづ)なるのみならず父母(ふぼ)兄弟(けいてい)の顔をも汚(けが)すなり、慎(つつし)まざるべけんや。 【25】尊徳先生がおっしゃった。 若い者は毎日よく勤めよ、これは自分の身に徳を積むことなのだ。 怠ってなまけることがトクだと思うのは大きな誤りである、徳を積めば天から恵みがあることは眼の前の事実である。 今、人を雇ったことでたとえてみよう。 あの男はよく働いて真実である、来年は私の家で頼もうといわれ、よく勤めるならば婿(むこ)にもらおうということにもなるものである。 これに反する者は本年は取り決めたから仕方がないが、来年は断わろというようになることは、眼の前の事実だ。 知識がなく才能がなくても、よく慎んで、よく顧み、身にあやまちがないようにするがよい。 過ちは、すなわち身のキズである。 古語に 「身体髪膚(しんたいぱっぷ)これを父母に受く、あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり」とある。 人が過ちをおこすことは、身のキズとなる事を知らず、傷さえしなければよいと思うのは間違っている。 また過ちは身のキズだけでなく父母や兄弟の顔をも汚すものなのだ、慎まなければならない。 【26】翁曰く、 凡庸の者は、繁多なることの記憶は出来兼ぬるものなり。 譬へば此の茶碗十や二十は、誰にても数ふる事容易なれども、之を四百五百とする時は中々間違へぬ様(やう)に数ふる事は出来ぬものなり。 数多き物に番号を付ける時、二十や三十は間違ふ事なけれど、三百四百となると知らず知らず間違ふ物なり。 故に予は唯一理を明かにする事を尊(たつた)むなり。 一理誠に明かなれば万理に通ず、天地の間最も知り難き道理は、言論能く雄弁の者の勝となるべし、 故に孔子は一以て之を貫くと言はれたり。 卿等(きみら)此処(ここ)に眼(まなこ)を付けて能く思考せば、世界万般の道理おのづから知らるべし。 予が歌に「古道につもる木の葉をかきわけて、天照(あまてら)す神の足跡を見ん」、 足跡を見る事を得ば万理一貫すべし。 然(しか)せずして徒(いたづ)らに仁は云々(うんぬん)、義は云々と云ふ時は、之を聴くも之を講ずるも共に無益なり。 余は云ふに足らず、聞くに足らず。 【26】尊徳先生がおっしゃった。 平凡な者は、非常に多いことを記憶することはできないものだ。 たとえばこの茶碗の10や20は、誰でも数える事は容易だけれども、これを400,500とする時はなかなか間違えないように数える事はできない。 数が多い物に番号を付ける時、20や30は間違うことはないが、300,400となると知らず知らず間違えるものである。 だから私はただ一理を明かにする事を尊ぶのである。 一理が誠に明らかであれば万理に通ずる、天地の間で最も知ることが難かしい道理は、言論が達者な雄弁の者の勝となるであろう、だから孔子は「一以て之を貫く」と言われたのだ。 きみらもここに眼を付けてよく考えるならば、世界万般の道理はおのづと知ることができよう。 私の歌に「古道につもる木の葉をかきわけて、天照(あまてら)す神の足跡を見ん」とある。 足跡を見る事を得るならば万理が一貫するであろう。 そうしないでいたずらに仁は何々、義は何々と言う時は、これを聴くのもこれを講ずるのもともに無益である。 そのほかのことは言うに足らず、聞くに足らない。 【27】門人某(ぼう)平日悟道論(ごだうろん)を喜んで、大悟は小節に拘泥せずと云へり。 翁(をう)曰く、 儒者は大行は細瑾(さいきん)を顧みずと云つて放埓(ほうらつ)なり、 仏者は大悟は小節に拘(かか)はらずと云つて無頼なり、 是れ道の罪人と云ふべし。 何となれば徒(いたづ)らに此の為にする事有つて古言を持出して、己れ大行もなく、大悟を夢にも見ずして、忠言を防ぐの垣根となし、道を飾るの道具となして、人にほこりて大言を吐きて憚らざるは、大道の大罪人なり。 汝等鼓(つづみ)を鳴らして之をせめて可なりと云はんのみ。 【27】門人のある者がふだんから悟道論を喜んで、大悟は小節にこだわらないと言っていた。 尊徳先生がおっしゃった。 儒者は大行は細瑾(わずかな過ち)を気にしないといって勝手きままに振舞っている。 仏者は大悟は小さい節義にはかかわらないといって無法な行いをする。 これは道の罪人というべきである。 なぜかといえばいたずらにこのことを正当化するために論語など古言を持ち出して、自分には大きな行いもなく、大悟を得ようなどと夢にも思わないで、忠告を防ぐ垣根となし、道を飾る道具となして、人に誇って大言を吐いてはばからないのは、大道の大罪人である。 あなた方は鼓を鳴らしてこれをせめてもかまわないと言ってもよい。 論語先進第十一 279 季氏(きし)、周公(しゅうこう)より富(と)めり。 而(しこう)して求(きゅう)や之(これ)が為(ため)に聚歛(しゅうれん)して之を附益(ふえき)す。 子日わく、吾(わ)が徒(と)に非(あら)ざるなり。 小子(しょうし)、鼓(こ)を鳴(な)らして之を攻(せ)めて可(か)なり。 〔通釈〕 季孫氏(季康子)は主君の魯公(哀公)よりも富裕であったが、季氏の代官となった弟子の冉求は、税を厳しく取り立てて、季氏の富を益々増やした。 これを知った孔子は、「私はもう冉求を弟子とは思わない! 諸君、きみ達は、鼓を鳴らして彼を攻めてもかまわないぞ!」とおっしゃった。 【28】翁曰く、 季候(きこう)あしく、本年(ほんねん)は凶歳(きようさい)にもならんかと云(い)ふ様(やう)なる模様(もやう)あれば、食料になるべきジヤガタラ芋を早く掘り取りて、直(ただ)ちに明畑(あきはた)に肥(こえ)して植付(うゑつ)くべし。 次に大根蕪(だいこんかぶ)なり。 次に蕎麦(そば)なり。 此(こ)の蕎麦(そば)を蒔(ま)く時に、そば種(たね)の中へ油菜(あぶらな)の種を交(ま)ぜて蒔(ま)くべし。 然(しか)する時は蕎麦(そば)実(み)のりて刈取(かりと)る時には菜(な)も大きく成るなり、之を蕎麦(そば)と共に刈り取るも根も茎も残りてあれば、害無し。 そばを刈り取って直ちに肥(こや)しをなし、中打(なかうち)手入れをすれば、忽(たちま)ち菜畑(なはた)となりて栄ゆる物なり。 山畑(やまはた)などには必ず此(こ)の作法(さほふ)を用ふべし。 【28】尊徳先生がおっしゃった。 季候が悪く、本年は凶歳にもなろうかというような模様があれば、食料になるジヤガ芋を早く掘り出して、ただちに空いている畑に肥しをほどこして植え付けるべきである。 次に大根やカブ、次にソバである。 このソバを蒔く時に、ソバの種の中へアブラナの種をまぜて蒔くがよい。 そうする時はソバが実って刈り取る時にはアブラナも大きくなる。 これを蕎麦とともに刈り取れば根も茎も残っているから、害は無い。 そばを刈り取ってただちに肥しをほどこして、手入れをすれば、たちまち菜畑となって栄えるものである。 山畑などには必ずこの方法を用いるがよい。 【29】翁曰く、 方位(はうゐ)を以(もつ)て禍福(くわふく)を論じ、月日を以て吉凶(きつきよう)を説く事古(いにしへ)よりあり。 世人之を信ずれども、この道理あるべからず。 禍福吉凶は方位日月などの関する所にあらず。 之を信ずるは迷ひなり。 悟道家は本来(ほんらい)無東西(むとうざい)とさへ云(い)ふなり。 夫(そ)れ禍福吉凶は己々(おのおの)が心と行ひとの招く所に来(きた)るあり、又過去の因縁(いんえん)に依(よ)りて来(きた)るもあり、 或(あ)る智識(ちしき)の強盗に遭(あ)ひたる時の歌に、 「前の世の借りを返すか今貸すか、何(いず)れ報(むく)いは有るとしぞしれ」 と詠める通(とほ)りなるべし、必ず迷ふ事勿(なか)れ。 夫(そ)れ盗賊は鬼門(きもん)より入り来らず、悪日(あくじつ)にのみ来らず、締(しま)りを忘るれば賊は入(い)り来(きた)ると思へ。 火の用心を怠れば火災起(おこ)るべし。 試(こころみ)に戸を明けて置いて見るべし、犬這入(はい)りて食物(しよくもつ)を求むるなり。 是(こ)れ眼前(がんぜん)なり。 古語(こご)に曰く、 積善(せきぜん)の家に余慶(よけい)あり積不善(せきふぜん)の家に余殃(よあふ)ありと是(こ)れ万古(ばんこ)を貫(つらぬ)きて動かざる真理なり、 決して疑ふべからず、之を疑ふを迷(まよひ)と云ふ。 夫れ米を蒔(ま)いて米実法(みの)り、麦を蒔(ま)いて麦実法(みの)るは眼前(がんぜん)にて、年々歳々違(たが)はず、天理なるが故なり。 世に不成日(ふじやうび)と云へるあり、されど此(こ)の日になす事随分成就(じやうじゆ)す。 吉日(きちじつ)なりとて為(な)せし事必ずしも成就するにあらず、吉日を選んで為しし婚姻も離縁になる事あり、日を選まずして結婚したるに偕老(かいらう)するもあるなり。 かかる事は決して信ずべからず、信ずべきは積善の家余慶(よけい)ありの金言(きんげん)なり。 されど余慶(よけい)も余殃(よあふ)も速かに回り来るものにあらず、 百日にして実法(みの)る蕎麦(そば)あり秋蒔(ま)いて来夏(らいか)に実のる麦あり、諺(ことわざ)に桃栗8年と云(い)ふが如(ごと)し。 因果にも応報にも遅速(ちそく)ある事を忘るる事勿(なか)れ。 【29】尊徳先生がおっしゃった。 方位をもって禍福を論じ、月日をもって吉凶を説くことが古来から行われている。 世の中の人はこれを信じているが、この道理はあるはずがない。 禍福や吉凶は方位や日月などの関するところではない。 これを信ずるのは迷いである。 仏教では本来東西無しとさえ言う。 禍福や吉凶は自分の心と行いが招くところに来ることがあり、また過去の因縁によって来ることもある。 ある禅僧が強盗に遭ったる時の歌に、 「前の世の借りを返すか今貸すか、いずれ報いは有るとしぞしれ」 と詠んだとおりであろう。 決して迷ってはならない。 盗賊は鬼門から入るのではない、日の悪いときにだけ来るのではない。 戸締りを忘れれば盗賊は入って来ると思え。 火の用心を怠れば火災が起こるであろう。 試しに戸を明けておいて見るがよい。 犬が入ってきて食べ物を求める。 これは目の前の事実である。 古語(易経)にいう、 積善の家に余慶(よけい)あり積不善の家に余殃(よおう)ありと これは万古を貫いて動かない真理である。 決して疑ってはならない、これを疑うのを迷いという。 米を蒔いて米が実り、麦を蒔いて麦が実るは眼前の事実であって、年々歳々違わない。 天理であるためである。 世に不成日(ふじょうび)という、しかしこの日になす事はずいぶん成就している。 吉日だといって行った事が必ずしも成就するわけではない。 吉日を選んで行った婚姻も離縁になる事がある、 日を選ばないで結婚したのに夫婦ともに年を重ねて老いるものもある。 こうした禍福吉凶に関する事は決して信じてはならない。 信ずべきは「積善の家には余慶あり」という金言である。 しかし余慶も余殃(よおう)もすぐに回り来るものではない。 百日で実るソバがある、秋に蒔いて次の年の夏に実る麦がある、 ことわざに桃栗8年というようなものだ。 因果にも応報にも遅い速いという事があることを忘れてはならない。 ☆易経-坤「積善之家必有余慶、積不善之家必有余殃」 【30】翁曰く、 本来東西無し、また過不及(かふきふ)無しなどと云ふは、平(たひら)なる器(うつは)を見て云(い)ふ語(ご)なり、則(すなは)ち本然(ほんぜん)の天理なり。 既(すで)に一器(き)あり、 之(これ)に己(おのれ)あらば傾(かたむ)かざるを得ず、 傾く時(とき)は其(そ)の器(うつは)の中の水必ず前後左右に増減す。 之(これ)を世に某(ぼう)は厚運(こううん)某(ぼう)は薄運(はくうん)などと云(い)ふなり、 是(こ)れ某(ぼう)と云(い)ふ己(おのれ)ある故(ゆゑ)なり。 己(おのれ)なき時(とき)は東西も無く、遠近(ゑんきん)も無く、過不及(くわふきふ)もなし。 是(こ)れ本然(ほんぜん)の天理(てんり)なり。 古語(こご)に 「天運循環(てんうんじゆんかん)して往(ゆ)いて復(かへ)らざるなし」と云(い)へり、 是(こ)れ傾(かたむ)きたる器(うつは)の水の増減するを云(い)ふなり、 某(ぼう)は厚運(こううん)、某(ぼう)は薄運(はくうん)など云(い)ふも則(すなは)ち是(これ)なり、 予(よ)が歌に 「増減は器(うつは)傾く水と見よ、あちらにませばこちらへるなり」 皆(みな)此(こ)の通(とほ)りなり。 縦令(たとひ)蓋(ふた)をするも只(ただ)目に見えぬのみ、水の増減するは疑(うたがひ)なし。 今(いま)爰(ここ)に薪(たきぎ)を取りて自(みづか)ら焚(た)かずして売る者は、賎(いや)しきが如(ごと)しといへども、夫(それ)丈(だ)けの運を増すなり。 此(こ)の銭(ぜに)にて酒を呑めば、又(また)直(ただ)ちに夫(それ)丈(だ)けの運を減らすなり。 田畑へ肥(こやし)をする者は、眼前(がんぜん)益(えき)なしといへども、秋に至れば実法(みの)り多し、此(こ)の時(とき)に則(すなわ)ち運をますなり。 遊びなまけて田畑を麁作(そさく)したる者は秋に至(いた)つて取実(とりいれ)少し、 爰(ここ)に至(いた)つて運の減ずる事知るべし。 皆明白にして愚夫(ぐふ)愚婦(ぐふ)といへども、此(こ)の道理は知るなるべし。 此(こ)の道理を知つて能(よ)く勤むるは則(すなは)ち道を悟りたるに同じ。 是(これ)に於(おい)ては何を成(な)すにも利益あるなり、 是(これ)に反すれば何をなしても損失なり。 誠(まこと)に明白の理なり。 【30】尊徳先生がおっしゃった。 本来東西無し、また過不及無しなどというのは、水平な器を見ていう言葉である。 すなはち本来の天理である。 既に一つの器があるとする。 これに自己というものがあれば傾かざるを得ない、傾くときはその器の中の水は必ず前後左右に増減する。 これを世間では、あの者は幸運だ、あの者は不運などというのだ。 これは何々という自己があるためである。 自己がないときは東西も無く、遠近も無く、過不及もない。 これが本来の天理である。 古語に 「天運循環して往(ゆ)いて復(かえ)らざるなし」と言っている。 これは傾いた器の水が増減することをいうのだ。 あの者は幸運だ、あの者は不運だなどというのも、すなはちこれである。 私の歌に 「増減は器(うつわ)傾く水と見よ、あちらにませばこちらへるなり」 皆このとおりである。 たとえ、ふたをしてもただ目に見えないだけで、水が増減することは疑いない。 今、ここにたきぎを取って自分でたかないで売る者は、いやしいようではあるが、それだけの運を増すのだ。 この金銭で酒を飲めば、また直ちにそれだけの運を減らすのである。 田畑へ肥料を施す者は、眼の前には利益がないようだが、秋にいたれば実りが多い、このときにすなわち運をますのである。 遊びなまけて田畑をいいかげんに耕作した者は秋になって収穫が少い。 ここになって運の減ずる事を知るであろう。 皆明白であって、愚かな男女であっても、この道理は知ることができよう。 この道理を知ってよく勤めれば、すなはち道を悟ったのと同じである。 このようにすれば何をなしても利益があるであろう。 これに反するならば何をなしても損失するであろう。 誠に明白の理ではないか。 【31】翁曰く、 世界元(もと)吉凶(きつきょう)禍福(くわふく)苦楽生滅なし、 予が示(しめ)せる一円図(いちゑんず)の如(ごと)し。 而(しか)して是(これ)あるは其(そ)の半(なかば)に己(おのれ)と云(い)ふ者(もの)を置(お)いて隔(へだ)つる故(ゆゑ)なり。 人は云(い)ふ、 万物土より生じて土に帰ると、 是(これ)まだ尽くさず、眼前(がんぜん)の論なり。 是(これ)は江戸人(えどじん)が旅客(りよきやく)は品川より出(い)づると云(い)ふが如(ごと)し、 其(そ)の出京(しゆつきやう)は区々(くく)あるなり。 草木(さうもく)の春(はる)生育(せいいく)して秋枯るるを見て、秋を無常といへども、農家にては秋(あき)実(みの)りを得て悦(よろこ)ぶなり。 草(くさ)の上より見れば誠に無常なれども、種(たね)の上(うへ)より見る時(とき)は有常(うじやう)なり。 されば無常(むじやう)も無常(むじやう)にあらず、有常(うじやう)も有常(うじやう)にあらずと云ふべし。 【31】尊徳先生がおっしゃった。 世界は元々、吉凶や禍福や苦楽や生滅はない。 私が示した一円図のとおりである。 そしてこれ(吉凶、禍福等)があるのは、その半(なか)ばに自己というものを置いて隔っているからである。 人は言う。 万物は土より生じて土に帰ると。 これはまだ尽くしていない、眼の前の論である。 これは江戸の人が旅客は品川から出るというようなものだ。 その京都に出るにはいろいろあるのだ。 草や木が春に生育して秋に枯れるのを見て、秋を無常というけれども、 農家では秋は実りを得て喜ぶときなのだ。 草のほうから見れば誠に無常であるけれども、種のほうから見るときは有常である。 そうであれば無常も無常ではなく、有常も有常ではないというべきである。 【32】某藩(ぼうはん)の重臣某氏(ぼうし)、藩の財政の方法を問ふ。 翁(をう)曰く、 爰(ここ)に十万石の諸侯あり、 之(これ)を木に譬(たと)ふれば、百姓(ひやくしやう)は土際(つちぎは)より木にある根の如(ごと)し、幹(みき)と枝葉(えだは)は藩中の如し。 然(さ)れば十万石と云(い)ふ時は、其(そ)の領中(りやうちゆう)一円(いちえん)神主僧侶も乞食(こじき)も皆此(こ)の中の物なり。 此(こ)の十万石を四公六民(しこうろくみん)とする時は、藩が四分(ぶ)民(たみ)が六分(ぶ)なり。 然(しか)るに何方(いづれ)より頼談(らいだん)せらるとも、皆藩の財政のみを改革せんとせられ、領中の事に及ばるるはなし。 古語に「其(そ)の元(もと)乱れ末(すゑ)治まる者はあらず」とあり。 其(そ)の元(もと)を捨て置いて、其(そ)の末(すゑ)のみを挙(あ)げんとするも、順序違(たが)へば、労するとも功無かるべし。 真(しん)に藩の疲弊(ひへい)を救はんとならば、民政(みんせい)も共(とも)に改革せらるべし。 さ無き時は、木の根を捨て置いて枝葉(えだは)に肥(こやし)を施すが如(ごと)し。 是(こ)れ卿(きみ)が尤(もつと)も心を用ひらるべき所にて、卿(きみ)が職務なり、 帰藩(きはん)の上(うへ)能々(よくよく)勘考(かんかう)せらるべしと、 某氏(ぼうし)感服感服(かんぷくかんぷく)と云ひて去れり。 【32】ある藩の重臣が、藩の財政の方法を尊徳先生に問うた。 尊徳先生はおっしゃった。 ここに10万石の諸侯があるとします。 これを木にたとえれば、百姓は土より下にある根のようなもので、幹と枝葉は藩の武士のようなものです。 そうであれば10万石というときは、その領中一円の神主や僧侶、乞食も皆この中のものです。 この10万石を4公6民とする時は、藩が4分、民が6分です。 それなのにどこの藩も私に相談に来られるときは、皆、藩の財政だけを改革しようとされて、領中の庶民の事に及ぶことがありません。 古語に「その元乱れ末治まる者はあらず」とあります。 その元を捨ておいて、その末だけを挙げようとしても、順序が違えば、労しても効果は無いことでしょう。 本当に藩の疲弊しているのを救おうというのであれらば、民政もともに改革されるべきです。 そうで無いときは、木の根を捨てておいて枝葉に肥料を施すようなものです。 これがあなたが最も心を用いらるべきところであって、あなたの職務です。 帰藩の上はよくよく考えてみてください、 重臣は大変感服いたしましたと言って帰っていった。 【33】翁曰く、 内(うち)に実(じつ)ありて外(そと)に顕(あら)はるるは、天理自然(てんりしぜん)なり。 内(うち)に実(じつ)有りて外に顕(あらは)れざるの理(り)必ずなし。 譬(たと)へば日暮(ひぐれ)に灯火(ともしび)を点(てん)ずるを見るべし、 付木(つけぎ)に火の付くや早(は)や障子(しやうじ)に火の影(かげ)は移(うつ)りて、外(そと)より家(いへ)の内(うち)に灯火(ともしび)のある事の知らるるなり。 其(そ)の外(ほか)深山(しんざん)の花木(くわぼく)、泥中(でいちゆう)の鰌(どぜう)は自(みづか)ら知らざる積(つも)りにても、人は早くも彼(か)の山に花さきたり、此(こ)の泥中(でいちゆう)に鰌(どぜう)の居(ゐ)ると知るなり、思はざるべけんや。 【33】尊徳先生がおっしゃった。 内に実があれば外に顕われるのは、天理自然である。 内に実が有って外に顕われないという理は決してない。 たとえば日暮れにともし火を点ずるのを見るがよい。 つけ木に火がつくとすぐに障子に火の影が映って、外から家の内にともし火のある事が知られる。 そのほか深山の花や木、泥の中のどじょうは、みずから知られないつもりでも、人はすぐにあの山に花が咲いている、この泥の中にどじょうがいると知る。 このことを思わなければならない。 【34】翁曰く、 商業の繁栄し、大家(たいけ)となるは、高利を貪らず、安価(あんか)に売るを以つてなり。 其(そ)の高利を貪らざるが為(ため)に、国中(くにぢゆう)の買人(かひて)集(あつま)り来(きた)るは当然の事なれど、売る物も又(また)之(これ)に集るは妙(めう)といふべし。 買ふと売るとの間に立ちて、高く買ひ安く売るは、行ふべからず。 然(しか)らば安く売るは買ひ方(て)も安かるべし、安く買ふ所に売る者の集(あつま)るは、実(じつ)に妙(めう)なり。 是(こ)れ皆双方に高利を貪らざるの致(いた)す所なり。 高利を貪らざるのみにて、買ふ者も売る者も共(とも)に集(あつま)りて、次第(しだい)に富を致(いた)す、是(こ)れ又(また)妙(めう)なり。 商家(しやうか)にして高利を貪らざるすら此(こ)の如し、 然るを況(いは)んや我が方法は無利足(むりそく)なり尊ばざるべけんや。 【34】尊徳先生はおっしゃった。 商売が繁栄し、大家となるのは、高利を貪らず、安値で売るからである。 その高利を貪らないために、国中の買い手が集って来るは当然の事であるけれども、売る物もまたここに集まるは不思議である。 買うと売るとの間に立って、高く買って安く売ることは行うことができない。 そうであれば安く売るのは買う方でも安くなければならない。 安く買うところに売る者が集まるというのは、実に不思議である。 これ売る者、買う者が皆双方とも高利を貪らないことによるものである。 高利を貪らないだけで、買う者も売る者もともに集って、次第に富を蓄積する。 これもまた不思議である。 商家で高利を貪らないだけでもこのとおりである。 ましてや私の方法は無利息で貸し付けている、尊ぶべき方法ではないか。 【35】翁曰く、 仏説は誠(まこと)に妙(めう)なり。 日輪(にちりん)朝(あさ)東方(とうはう)に出(い)づる時(とき)の功徳(くどく)を薬師(やくし)と名付(なづ)け、中天(ちゆうてん)に照(てら)す時の功徳(くどく)を大日(だいにち)といひ、夕陽(せきやう)の功徳(くどく)を阿弥陀(あみだ)と云(い)へり。 然(さ)れば薬師、大日、阿弥陀と云(い)へど、其(そ)の実(じつ)かかる仏あるにあらず、皆太陽の功徳(くどく)を表(あらは)せしなり。 又(また)大地の功徳(くどく)を地蔵(ぢざう)と云ひ、空中の功徳(くどく)を虚空蔵(こくうざう)と云ひ、世(よ)の音(おと)づれを観(くわん)ずる功徳(くどく)を観世音(くわんぜおん)と云(い)へり。 或(あるひと)問ふ、 大地の功徳大(だい)なり、虚空(こくう)の功徳も大なるべし。 世音(せおん)を観ずる功徳(くどく)とは如何(いかん)。 翁(をう)曰く、 商法(しやうはふ)などの類(るゐ)、総(すべ)て世(よ)の音信(おんしん)を能(よ)く考へて利益を求むるを観世音の力を念ずると云(い)へるなり。 観(くわん)は目にて見る字にあらず、心眼に見るを云ふ字なり 能(よ)く思ふべし思ふべし。 【35】尊徳先生はおっしゃった。 「仏説はまことに妙なるものである。 太陽が朝、東に出る時の功徳を薬師如来と名づけ、中天に照す時の功徳を大日如来といい、夕日の功徳を阿弥陀如来という。 そうであれば薬師如来、大日如来、阿弥陀如来とは、実際そのような仏があるのではなく、皆、太陽の功徳をあらわしたものなのである。 また、大地の功徳を地蔵菩薩といい、空中の功徳を虚空蔵菩薩といい、世の音を観ずる功徳を観世音菩薩という。」 ある人が問うた。 「大地の功徳は大きいでしょう、虚空の功徳も大きいでしょう。 世の音を観ずる功徳はどうでしょうか。」 尊徳先生がおっしゃった。 「商法などの類は、すべて世の音信をよく考えて利益を求めるのを観世音の力を念ずると言うのだ。 観というのは目で見る字ではない、心眼で見ることをいう字である、よく考えてみなさい思ってみなさい。 【36】翁曰く、 農家は作物の為(た)めとのみ勤めて、朝夕力を尽(つく)し、心を尽(つく)す時(とき)は、自然願はずして穀物蔵に満つるなり。 穀物蔵にあれば呼ばずして魚(うを)売りも来(きた)り、小間物屋(こまものや)も来(きた)り、何もかも安楽自在なり。 又(また)村里(むらさと)を見るに籬(まがき)丈夫(じやうぶ)に住居の掃除も届き、積肥(つみごえ)沢山(たくさん)積み重ねたるは、何となく福々(ふくぶく)しき。 其(そ)の家の田畑(たはた)は隅々(すみずみ)まで行届(ゆきとど)き、出来平(できたひら)に、穂先(ほさき)揃(そろ)ひて見事なるものなり。 又(また)之(これ)に反して出来(でき)不平(ふたいひら)にして穂先揃はず、稗(ひえ)あり、草あり、何となく見苦しき田畑の作主(つくりぬし)の家(いへ)は、(まがき)も破れ、家居は不潔なるものなり。 又(また)一種(しゆ)不精者(ぶしやうもの)の困窮ながらも家居(いへゐ)は清潔に住むあり、是は(まがき)其の外も行(ゆ)き届きたれど、家に俵なく、農具なく、庭に積肥(つみごえ)なく、何となくさみしきものなり。 又(また)人気(にんき)和(わ)せざる村里は四壁(へき)の竹木(ちくぼく)も不揃(ふぞろひ)にて、道路悪敷(あし)く堰用(せきやう)水路に笹(ささ)茂るなど見苦しきものなり、大凡(おほよ)そ違(たが)はじ。 【36】尊徳先生がおっしゃった。 農家は作物のためにだけ勤めて、朝夕力を尽し、心を尽すときは、自然に願わないでも穀物が蔵に満ちる。 穀物が蔵にあれば呼ばなくても魚を売りに来たり、小間物屋も来て、何もかも安楽自在である。 また村里を見るに竹や柴で編んだ垣が丈夫で住居の掃除も行き届き、藁などを積み重ねた堆肥(たいひ)がたくさん積み重なったのは、何となく福々しいものだ。 その家の田畑はすみずみまで手が届き、できも平らで、稲の穂先が揃って見事なるものである。 またこれに反してできが平らではなく穂先が揃わず、稗があり、草があり、何となく見苦しい田畑の作り主の家は、竹や柴で編んだ垣も破れ、住居は不潔なるものである。 また一種、不精者で困窮しながらも住居は清潔に住むものがある、これは竹や柴で編んだ垣やそのほかも行き届いているけれども、家に俵がなく、農具もなく、庭に堆肥もなく、何となくさみしいものである。 また人々の気持ちが調和していない村里は村の四方を囲む竹木も不揃いで、道路も悪く堰用の水路に笹などが茂るなど見苦しいものである。 私のいうことはおおよそ違うことはなかろう。 ☆掃除について夜話の巻の2でもこうもおっしゃっている。 【10】尊徳先生がある村を巡回される時、怠け者で掃除をもしない者があった。 先生はおっしゃった。 「汚穢を窮めること、このようなら、お前の家はながく貧乏神の住所となるだろう。 貧乏を免れようと欲するなら、まず庭の草を取って、家を掃除をせよ。 不潔このようである時は、また疫病神も宿るであろう。 よく心がけて、貧乏神や、疫病神はいられないように掃除せよ。 家に汚物があれば、蠅が集ってくるように、庭に草があれば蛇や毒虫がいい所があったと住むようになる。 肉が腐れれば蛆(うじ)が生じ、水が腐れればボウフラが生ずる。 そうであれば、心身がけがれて罪とがが生じ、家がけがれて病いが生ずる。 恐るべきことだ」とさとされた。 また一戸家は小で内外清潔の家があった。 尊徳先生はおっしゃった。 「この家の者は遊惰、無頼、博徒のたぐいであろう。 家のなかを見るに、俵もなく、よい農具もない。 農家の罪人であろう」と。 村の役人は先生の明察に驚いた。 【37】翁曰く、 因果(いんぐわ)の理を此(こ)の柿の木の上にて説かんに、 柿の実(み)を見よ、 人の食(しょく)となるか、鳥の食となるか、落ちて腐るか、 未(いま)だ其(そ)の将来(しやうらい)は知れざる以前、枝葉(えだは)の陰(かげ)にある時(とき)の精力(せいりよく)の運(はこ)びに因(よ)り熟(じゆく)するに及んで、市(いち)に出して売らるる時(とき)、3厘になり、5厘になり、1銭になるあり。 其(そ)の始めは同じ柿にして、熟するに随(したが)つて此(こ)の如(ごと)く区々(まちまち)に価値(あたひ)の異なるは、是(こ)れ皆過去枝にある時の精力(せいりよく)の運び方の因縁(いんえん)に依(よ)るなり。 天地間の万物皆同じ。 隠微(いんび)の中に生育して、而(しか)して人に得られて、其(そ)の徳をあらはすなり。 人又(また)此(こ)の如し、 親の手元(てもと)にある時、身を修(をさ)めて諸芸(しよげい)を学び、能(よ)く勤めたる其(そ)の徳に依(よ)りて一生(しやう)の業(げふ)は立つなり。 凡(およそ)人少壮(せいそう)の時、能(よ)く学べばよかつたと後悔心(こうかいこころ)の出(い)づるは、柿の市に出(いで)て後に、今少し精気を運んで、太く甘くなればよかつたと思ふに同じ、後悔先(さき)に立たぬなり。 古人前に悔(くや)めと教へたるあり。 若輩者(わかきもの)能(よ)思ふべし。 故(ゆゑ)に修行は入(い)るか入(い)らぬか、用に立つか、用にたたぬか知れぬ前に、能(よ)く学びおくべし、然(しか)せざれば用に立たぬものなり。 柿も枝葉(えだは)の間(あひだ)にある時(とき)太くならざれば市(いち)に出(いで)て仕方(しかた)なきに同じ。 此(こ)れ則(すなは)ち因果(いんぐわ)の道理なり。 【37】尊徳先生はおっしゃった。 因果の理をこの柿の木の上にて説いてみよう。 あの柿の実を見よ、 人が食べるか、鳥が食べるか。落ちて腐るか。 まだ、その将来は知れない前に、枝葉のかげにあるときの精力の運びによって熟するに及んで、市場に出して売られる時、3厘になり、5厘になり、1銭になるものがある。 その始めは同じ柿で熟するにしたがってこのようにまちまちに値段が異なるのは、皆、過去に枝にある時の精力の運び方の因縁によるのである。 天地間の万物は皆同じである。 隠れて微かな中に生育して、そして人に得られて、その徳をあらわすのである。 人もまたこのとおりだ。 親の手もとにあるとき、身を修めて諸芸を学び、よく勤めたその徳によって一生の業は立つのである。 およそ人は若い時、よく学べばよかったと後悔の心が出るのは、柿が市場に出て後に、今少し精気を運んで、太く甘くなればよかったと思うのと同じである、後悔は先に立たないものである。 古人は前に悔やめと教えた。 若い者はよく思うがよい。 だから修行は入るか入らないか、用に立つか、用にたたないか知れない前に、よく学ぶがよい。 そうでなければ用に立たないものである。 柿も枝葉の間にある時、太くならなければ市場に出ても仕方がないのと同じだ。 これがすなわち因果の道理である。 【38】翁曰く、 仏(ぶつ)は諸行無常(しよぎやうむじやう)と云へり、 世上(せじやう)に諸(もろもろ)の行(おこな)はるる物は、皆(みな)常(つね)に無(な)き物(もの)なり。 然(しか)るを有(あ)ると見るは迷ひなり、 汝等(なんじら)が命(いのち)、汝等(なんじら)が体(からだ)皆(みな)然(しか)り、 長短遅速(ちやうたんちそく)は有りといへども皆有るにはあらず、有ると思ふは迷ひなり。 本来(ほんらい)は長短(ちやうたん)もなし、遅速(ちそく)もなし、遠近(ゑんきん)もなし、生死(せいし)もなし、蜉蝣(ふいう)の一時(じ)を短(みぢか)しと見、鶴亀の千年を長しと思ふが如(ごと)き是(こ)れ皆迷ひなり。 然(しか)りといへども、此(こ)の理(り)は見え難(がた)し。 凡人(ぼんじん)に之(これ)を見するは遠近(ゑんきん)のみ、是(これ)は我(わ)が悟道(ごだう)の入門(にふもん)なり。 「見渡(みわた)せば遠き近きは無かりけり、己々(おのれおのれ)が住処(すみか)にぞよる」 見渡せば善きも悪(あ)しきもなかりけり、 見渡せば憎いかはゆい無かりけり、 この歌を感ずる時は其8そ)の道理知らるべきなり。 夫(そ)れ生(せい)と云(い)ふも死と云ふも、共(とも)に無常(むじやう)にして頼みにならぬことは明白なり。 氷と水とを見よ、 何をか生と云(い)ひ、何をか死と云(い)ふ。 水は寒気(かんき)に感じて氷となり、氷は暖気(だんき)に感じて水となる。 今朝(こんてう)寒しといへども一朝(てう)暖気なれば速(すみや)かに消ゆ、之(これ)を如何(いかに)せん、 水か氷か、氷か水か、生(せい)か死か、死か生か、何をか生とか云(い)はん、何をか死と云(い)はん、 諸行無常(しよぎやうむじやう)なる事知らるべし。 然(しか)して又(また)無常も無常にあらず、有常(うじやう)も有常にあらず、 惜(を)しい、欲しい、憎い、かはゆい、彼(かれ)も我(われ)も皆迷ひなり。 此(こ)の如く迷ふが故(ゆゑ)に三界城(さんかいじやう)と云(い)ふ 堅固(けんご)な物が出来(でき)て人を恨(うら)み、人を妬(ねた)み、人をそねみ、人に憤(いきどほ)り、種々(しゆじゆ)の悪果(あくくわ)を結(むす)ぶなり。 之(これ)を諸行無常(しよぎやうむじやう)と悟る時は、十方空(じっぽうくう)となりて恨(うら)みも、妬(ねた)むも、悪(にく)むも、憤(いきどほ)るも馬鹿馬鹿(ばかばか)しくなるなり。 是(こ)の所に至れば自然(しぜん)怨念死霊(をんねんしりやう)も退散(たいさん)す、之(これ)を悟(さと)りと云ふ。 悟るを成仏(じやうぶつ)と云(い)ふなり、 玩味(ぐわんみ)して悟門(ごもん)に入るべきなり。 【38】尊徳先生はおっしゃった。 仏は諸行無常(この世の中のあらゆるものは変化・生滅してとどまらないこと)と言われた。 世間でいろいろと行われているものは、みな常に無いものである。 そうであるのに有ると見るのは迷いである。 おまえたちの命も、おまえたちの体も皆そのとおりである。 長い短かい、遅い速いは有るといっても皆有るわけではない、有ると思うのは迷いである。 本来は長短もなく、遅速もなく、遠近もなく、生死もない、 かげろうの一時を短いと見、鶴亀の千年を長いと思うようなことは皆迷いである。 そうではあるが、この理は見えにくい。 凡人にこれを見せるは遠近が最もわかりやすい、 これは我が悟道の入門である。 「見渡せば遠き近きは無かりけり、己々が住処(すみか)にぞよる」 見渡せば善きも悪しきもなかりけり、 見渡せば憎いかはゆい無かりけり、 この歌を感ずる時はその道理がわかるであろう。 生といい死というも、ともに無常であって頼みにならないことは明白である。 氷と水とを見てみよ。 どちらを生といい、どちらを死といおうか。 水は寒気に感じて氷となり、氷は暖気に感じて水となる。 今朝は寒いといっても一朝暖気となればすぐに消える、これをどうしよう。 水か氷か、氷か水か、生か死か、死か生か、何を生といおうか、何を死といおうか。 諸行無常であることを知られるであろう。 そしてまた無常も無常ではなく、有常も有常ではない。 惜しい、欲しい、憎い、かわいい、彼も我も皆迷いである。 このように迷うために三界城(さんかいじょう:迷いの世界)という堅固な物ができて人を恨み、人をねたみ、人をそねみ、人にいきどおり、いろいろな悪果を結ぶのである。 これを諸行無常と悟る時は、十方空となって恨みのも、ねたむのも、憎むのも、いきどおるのも馬鹿馬鹿しくなる。 このところに至るならば自然に怨念や死霊も退散する、これを悟りという。 悟るのを成仏というのだ。 よくよく味って悟りの門に入るがよい。 【39】翁曰く、 古語(こご)に曰く、 功成り名遂げて身退くは天の道なりと云へり、 天道誠に然り。 然りといへども是を人道に行ふ時は智者といふべくして、仁者とは云ふべからず。 如何となれば全く能(よ)く尽すと云ふに至らざればなり。 【39】尊徳先生はおっしゃった。 「老子」第9に 「功を成しとげ名を世にあげて身を退くのは天の道である。」という。 天の道は誠にそのとおりだ。 しかしながらこれを人の道に行う時は智者といっても、仁者とはいうことはできない。 なぜかといえば完全に尽しているというまで至っていないからだ。 【40】齋藤高行曰く、 儒者仏者に問ふて曰く、 地獄の釜は誰が作りしぞと。 仏者答へて、 郭公(くわくこう)が掘(ほり)出せし黄金(わうごん)の釜と同作なりといへり、 面白き話に候はずやと。 翁曰く、 面白し、されど智者の言にして仁者の言にあらず、称するに足らず。 【40】齋藤高行が言った。 「儒者が仏者に質問しました。 『地獄の釜は誰が作ったのか』 仏者は答えました。 『かっこうが掘り出した黄金の釜と同じ作です。』 面白い話ではありませんか。」 尊徳先生はおっしゃった。 「面白い、しかしそれは智者の言葉であって仁者の言葉ではない、称賛するに足りない。」 【41】翁曰く、 論語に己(おのれ)に如(し)かざる者を友とすること勿(なか)れとあると、世(よ)に取違(とりちが)へる人あり。 夫(そ)れ人々皆長(ちやう)ずる所あり、短(たん)なる所あるは各々免(まぬが)れ難(がた)きなり。 されば其(そ)の人の長(ちやう)ずる所を友として、短なる所を友とする事勿(なか)れの意と心得(こころう)べし。 譬(たと)へば其(そ)の人の短(たん)なる事をば捨て、其(そ)の人の長所(ちやうしよ)を友とするなり。 多くの人には短才(たんさい)の人にも手書(てか)きあるべし、 世事(せじ)には疎(うと)きも学者(がくしや)あるべし、無学(むがく)にも世事(せじ)に賢(かし)こきあるべし、無筆(むひつ)には農事(のうじ)に精(くは)しき有るべし、 皆其(そ)の長所を友として短所を友とすること勿(なか)れの意なり。 【41】尊徳先生はおっしゃった。 論語に「己にしかざる者を友とすることなかれ」とあるのを、世に取り違える人がある。 人は皆長所があり、短所があるのはおのおの免れがたいところだ。 そうであれば その人の長所を友として、短所を友とする事なかれという意味と心得るがよい。 たとえばその人の短所を捨てて、その人の長所を友とするがよい。 多くの人には才能がなくても字が上手な人があるであろう。 世事にはうとくても学問があることもあろう、 無学でも世事には賢い人もあろう、 字は書けなくても農業に精通した人もあろう。 【42】翁曰く、 心狭(せま)く局(せばま)りては、真(しん)の道理を見る事能(あた)はざる物(もの)なり。 夫(そ)れ世界は広し、故(ゆゑ)に心をば広く持つべし。 されども其(そ)の広き世界も己(おのれ)と云(い)ひ、我(われ)と云(い)ふ私物(しぶつ)を一つ中(なか)に置(お)いて見る時は、世界の道理は其(そ)の己(おのれ)に隔(へだ)てられて、其(そ)の見る所は皆半(なかば)になるなり。 己(おのれ)と云(い)ふ物(もの)にて半分(はんぶん)を見る時は、借りたるものは返さぬ方(はう)が都合(つがふ)よく、人の物(もの)を盗むはもっとも都合(つがふ)よかるべけれど、此(こ)の隔(へだ)てなる己(おのれ)と云(い)ふ物(もの)を取り捨て、広く見る時は、借りたる物は返さねばならぬと云(い)ふ道理が明らかに見え、盗むと云ふ事は悪事(あくじ)なる事も明らかに分(わか)るなり。 故(ゆゑ)に此(こ)の己(おのれ)と云(い)ふ私物(しぶつ)を取り捨てるの工夫(くふう)が専(せん)一なり。 儒も仏も此(こ)の取捨(とりす)て方(かた)を教ふるを専一とす。 論語に己(おのれ)に克(か)ちて礼に復(かへ)れと教へたるも、仏にては見性(けんしやう)といひ、悟道(ごだう)といひ、転迷(てんめい)と云(い)ふ。 皆此(こ)の私(わたくし)を取り捨てるの修行なり。 此(こ)の私(わたくし)の一物(ぶつ)を取り捨てる時は、万物(ばんぶつ)不生不滅(ふしやうふめつ)不増不減(ふぞうふげん)の道理も又(また)明(あきら)かに見ゆるなり。 如此(かくのごとき)明白なる世界なれども、此(こ)の己(おのれ)を中間に置きて彼(かれ)と是(これ)とを隔(へだ)つる時は、直(す)ぐ其(そ)の座に得失損益増減消滅等の種々無量の境界(きやうがい)現出(げんしゆつ)するなり。 恐るべし。 然(さ)れど是(こ)れ又(また)是非(ぜひ)なき次第(しだい)なり。 其(それ)は豆の草になる時は、豆の実を見る事能(あた)はず、 豆の実(み)になる時は、豆の草(くさ)は出来(でき)ざる世界なる故(ゆゑ)に、万物の霊(れい)なる人といへども、免(まむが)れ難(がた)きなり。 此(こ)の免れ難きを免(まぬが)るるを悟りといひ、免れざるを迷ひと云(い)ふなり。 予が戯(たはむ)れに詠める歌に 「穀物(こくもつ)の夫食(ぶじき)となるも味(あぢ)も香(か)も、草より出でて草になるまで」 百草(さう)の根も葉も枝も花も実も種(たね)より出(い)で、種になるまで此の理を見るの一つのみ。 呵々(かか) 【42】尊徳先生がおっしゃった。 心が狭く狭まっては、本当の道理を見る事はできないものだ。 世界は広い、だから心は広く持たなければならない。 しかしその広い世界も自分といい、我という「わたくし」を一つ中に置いて見る時には、世界の道理はその自分に隔てられて、その見る所は皆なかばになってしまう。 自分というもので半分を見る時には、借りたものは返さない方が都合がよく、人の物を盗むのはもっとも都合がよいようであるけれども、この隔てる自分というものを取り捨てて、広く見る時には、借りた物は返さなければならないという道理が明らかに見え、盗むという事は悪事である事も明らかに分る。 だからこの自分という「わたくし」を取り捨てる工夫がもっとも大事である。 儒道も仏道もこの自分を取り捨てる方法を教えることを専一としている。 論語に「己に克(か)ちて礼に復(かへ)れ」と教えているのも、仏道で見性といい、悟道といい、転迷という。 皆この「わたくし」を取って捨てる修行である。 この「わたくし」を取って捨てる時には、万物は不生不滅であり、不増不減である道理もまた明らかに見えるであろう。 このように明白である世界だが、この自分を中間に置いて、かれとこれとを隔てる時は、すぐその座に得失や損益、増減、消滅等の種々無量の境界が現出するのである。 恐るべきことではないか。 しかしこれもまた是非もない次第である。 それは豆が草になる時は、豆は実を見る事はできない。 豆が実になる時は、豆の草はできない世界であるために、 万物の霊である人間であっても、免れ難いところである。 この免れ難いところを免れることを悟りといい、免れないのを迷いという。 わたしがたわむれに詠んだ歌に 「穀物の夫食(ぶじき:食料)となるも味も香も、草より出でて草になるまで」 百草の根も葉も枝も花も実も種から出て、種になるまでこの理を見るの一つだけである。 はっはっは。 |