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報徳記巻之五【11】小田原再興の方法中廃す

報徳記  巻之五

【11】小田原再興の方法中廃す

小田原領分七十二邑(いふ)の民日々(にちにち)業を励(はげ)み艱難に安んじ、負債を償ひ邑(むら)を再復せんと欲し、殊勝(しゆしよう)奇特(きとく)の行ひを立て、他邦(たはう)のもの此の事を聞くに及びては感歎して涕(なみだ)を流すに至れり。
此の時に当(あた)り国本(こくほん)の分度を定め大いに民を安んぜば、必ず上下(じやうげ)永安の道に至らんこと手を反(かへ)すが如くならん。
然るに天保十三壬寅(みずのへとら)年幕府の命ありて先生を普請役格(ふしんやくかく)に召し抱へ玉ふ。
小田原侯の大夫(たいふ)某(それ)先生に此の旨を達せり。
先生曰く、
某(それがし)二十年前(ぜん)先君(せんくん)野州三邑(いふ)の廃亡(はいぼう)を興復せんことの命を受く。
之を辞(じ)する事三年先君厚く臣に命じて止まず。
臣(しん)君(きみ)の仁心深きを感じ君の心を安んぜんが為(ため)に命に随(したが)ひ、十余(よ)年の力を尽(つく)し彼の地を再復なしたりといへども、未だ全く功を奏(そう)するに至らず。
先君再び小田原の飢民を撫育せしめ、継(つ)ぎて遺命ありて野州の仕法を小田原に移せり。
興復の道其(そ)の本源未だ立たずといへども、民間既に再復の道を守り昼夜(ちうや)となく力を尽(つく)せり。
今之を廃(はい)せば数万(すうまん)の人民道を失ひ、再び衰廃(すいはゐ)に陥らんこと必せり。
然らば先君民を憂ひ玉ふの仁心此の時に廃(はい)せんか、某(それがし)先君の憂心を一度(たび)安んぜんとして今日(けふ)に至れり。
何ぞ図(はか)らんや、此の事を廃棄(はいき)して幕府の命を受けんとは。
故に某(それがし)命を固辞(こじ)す。
君公(くんこう)より幕府へ言上(ごんじやう)し玉ふべし。
領中衰廃(すゐはい)再興下民撫育の事を二宮に委任せり。
今事業半(なかば)に至らずして二宮手を引かば、領民一同の望みを失ひ、先代以来(いらい)安民の事に心を尽(つく)せしも一時に廃(はい)せん。
願はくは領中再興の道可(か)なりにも成功を立てんまでは、登庸(とうよう)を免ぜられん事を請ふとあらば、幕府之を許容し玉はん歟(か)、
然して小田原領民其の所を得たらん後は此の命をも受くべし 
と云ふ。 

大夫(たいふ)某(それがし)曰く、
子(し)の言(げん)誠に先君に報ずるの忠心至れりと謂ふべし。
然りといへども一度(たび)命令下るときは謹みて其の命を受け玉ふこと君(きみ)の道にして、小田原領の事は私事(しじ)なり。
私事を以て命令を辞(じ)し玉はゞ、君(きみ)の忠義を欠(か)くに似たり。
故に当君(たうくん)の為(ため)に思慮し速かに命令を受くべしと。
先生曰く、
然らば小田原の仕法は此の時を境に廃(はい)し玉はんか。
大夫曰く、
何ぞ廃(はい)することを得ん。
先君以来の事蹟(じせき)を言上し、子(し)勤務の間に以前の如く指揮を得んことを歎願せば、何ぞ之を許し玉はざらんや。
子(し)小田原の事は労(らう)すること勿れ。
必ず先君の遺志を遂げんと云ふ。
是に於て先生止むことを得ず命令に随(したが)ふ。
直ちに小田原仕法先生の指揮なくんば領民度を失はんことを書し、公務の寸隙を以て従前(じゆうぜん)の如く仕法の指揮有らん事を歎願す。
幕府速かに此の願ひを許容せり。
是に於て先生始めて憂心(いふしん)を解くに似たり。 

同年冬下総国(しもふさのくに)印旛沼(いんばぬま)見分(けんぶん)の命を奉じ総州(そうしう)に至れり。
此の時小田原より大夫(たいふ)某(それ)俄然(がぜん)江都(かうと)に来(きた)り、江都(かうと)の大夫(たいふ)以下を退勤(たいきん)せしめ、小田原に帰国(きこく)せしむ。
後(のち)弘化(こうくわ)三丙午(ひのへうま)年に至り小田原先君以来の仕法を廃(はい)し、領民をして先生に往返(わうへん)することを禁ず。
領民の愁歎(しうたん)限りなし。
先生積年の丹誠忽然(こつぜん)として廃棄(はいき)す。
先生愀然(しうぜん)として歎じて曰く、 
嗚呼(あゝ)我が事斯(こゝ)に止(とゞ)まれり。
先君の国民(こくみん)を憐み玉(たま)ふ事子(こ)の如く、我をして之を撫育(ぶいく)せしめたり。
予一旦命を受くるより以来(いらい)、君の仁沢(じんたく)をして此の民に被(かう)むらしめんとする而已(のみ)。
天地に祈り鬼神(きしん)に誓ひ今日(こんにち)に至れり。
然るに当君(たうくん)幼(えう)にして先君以来(いらい)の事を聞き玉はず。
時の執政(しつせい)遂に国家(こくか)興復安民の道を廃(はい)せり。
時勢如何(いかん)ともすべからず。
予聞く、君子は天をも怨(うら)みず人をも咎(とが)めずと。
予も亦(また)誰(たれ)をか怨み誰(たれ)をか咎めんや。
皆我が誠心(せいしん)の足らざる所に出づるもの也(なり)。
此の道の本源たる小田原既に此の道を廃(はい)せり。
我他に行きて此の道を立つる時は、小田原の非を顕(あらは)すに似たり。
故に今速かに諸方の仕法をも一時に廃(はい)し、以て小田原の心を安んぜん。
是我が故主(こしゆ)に答ふるの道なり 
と。
将(まさ)に発(はつ)せんとす。
外(ほか)諸侯に此の事を通ず。
諸侯議して曰く、
先生興国(こうこく)安民の道は天下の良法なり。
然るに之を廃棄(はいき)するは小田原君臣の大過と謂(い)はざる可(べ)からず。
目今(もくこん)自国(じこく)百年の廃(はい)を挙(あ)げ、此の民を安んじ国家(こくか)の永安を開かんとす。
何を以て他の大過(だいくわ)に傚(なら)ふことを得んやと。
先生一世の困苦労心(らうしん)此の時に過ぐるものにあらず。
小田原先君の墓に詣(いた)りて跪(ひざまづ)き合掌流涕(りうてい)して時刻を移せり。
従者(じゆうしや)皆先生の至誠を感じ共に涙を流し声(こゑ)を呑(の)むに至れり。
其の後先生終身先君の仁を拡充(くわくじゆう)することあたはざるを憂ひとし、心に小田原再び安民の道の開けん事を祈りたりと云ふ。

高慶曰く
昔者(は)孔孟民の虐政に困むを哀み之を康寧の域に躋んと欲し天下を周流して之に説くに王道を以てす。
夫れ國を治め民を安ずる者人主の職なり。
其職に居て其道を求む。
豈に焉より急なる者有乎。
然り而して一たび其言を聞く。
皆芒々焉として聾の如くカイ(耳に貴)の如し。
能く之を用ること莫し。
且つ夫れ先生の至誠彼如く其功蹟顯著亦た彼の如し。
一旦小田原侯舘舎を捐て則其言忽焉として廢棄と爲る。
嗚呼道の行難き今昔の同き所ろ聖賢も亦之を奈何ともする無し也。
然りと雖ども先生の言の如き之を當世に施す能はずして而其の後に垂る者益明なり。
豈に一時の顯晦を以先生を軒輊するを得んや。


「報徳記」現代語訳 巻の5【11】小田原再興の方法中廃す

 小田原領内の72村の民は日々業を励んで艱難に安んじ、負債を償い村を再復しようとと欲し、感心でけなげな行いを立て、他国の者はこの事を聞いて感嘆し涙を流すに至った。
この時に当って国の本である分度を定めて非常に民を安らかにすれば、必ず上下永安の道に至ることは手のひらをかえすようだったであろう。
しかし天保13年幕府の命令があって先生を普請役格に召し抱えられた。
小田原侯のある家老が先生にこの旨を伝達した。
先生は言われた。
「私は20年前に先君から野州3村の廃亡を復興するようにと命令を受けた。
これを辞退する事3年、先君厚く臣に命じて止みません。
臣は君の仁心が深いことを感じ、君の心を安らかにするために命令に随い、10余年の力を尽し、かの地を再復しましたが、まだ完全に成功しましたと申し上げるに至っていません。
先君は再び小田原の飢えた民を恵み育てさせ、ついで遺命があって野州の仕法を小田原に移しました。
復興の道はその本源がまだ立ってはいませんが、民間は既に再復の道を守って昼となく夜となく力を尽しています。
今これを廃するならば数万の人民は道を失い、必ず再び衰廃に陥いることでしょう。
そうであれば先君が民を憂えられた仁心はこの時に廃しましょうか。
私は、先君の憂心を一たび安らかにしようとして今日に至りました。
どうしてこの事を廃棄して幕府の命令を受けようとは思いもしないことですす。
ですから私は命令を固く辞退します。
君公から幕府へ申し上げてください。
領内の衰廃を再興し下民を恵み育てる事を二宮に委任しています。
今、事業が半ばに至らないで二宮が手を引くならば、領民一同は望みを失って、先代以来民を安らかにする事に心を尽したことも一時に廃してしまいます。
願わくは領内再興の道がある程度成功を立てるまでは、幕臣に取り立てることを免ぜられる事を求めるとされれば、幕府もこれを許容されることでしょう。
そして小田原領民がその所を得た後はこの命令をも受けましょう。」と言った。 

ある家老は言った。
「あなたの言葉は誠に先君に報いる忠心の至りというべきである。
しかしながら一たび命令が下るときは謹んでその命令を受けられることが君の道で、小田原領の事は私事である。
私事によって命令を辞退するならば、君の忠義を欠いているようである。
だから当君のために思慮してすぐに命令を受けるべきである。」と。
先生は言われた。
「そうであれば小田原の仕法はこの時を境に廃せられるのか。」
家老は言った。
「どうして廃することがあろう。
先君以来の事蹟を申し上げ、あなたの勤務の間に以前のように指揮ができるよう嘆願するならば、どうしてこれを許されないことがあろうか。
あなたは小田原の事は心配しなくてもよい。
必ず先君の遺志を遂げよう。」と言った。
ここで先生は止むを得ず命令に随った。
すぐに小田原仕法は先生の指揮がなければ領民は節度を失うであろうことを書き、公務のあいまにこれまでのように仕法の指揮ができるように嘆願した。
幕府はすぐにこの願いを許容した。
ここに先生は始めて憂い心を解かれたようであった。 

 同年冬、下総国(千葉県)の印旛沼を実際に見て調べるように命令を受けて総州に行った。
この時小田原からある家老がにわかに江戸にに来て、江戸の家老以下をその職務を退かさせ、小田原に帰国させた。
後、弘化3年になって小田原先君以来の仕法を廃して、領民を先生のところに往き来することを禁じた。
領民の愁い嘆きは限りなかった。
先生は積年の丹誠がたちまち廃棄された。
先生は憂えられて歎かれて言われた。 
「ああ私の事業もここに止んだ。
先君が国民を憐まれる事は子に対するようで、私にこれを恵み育てるようさせられた。
私は一度命令を受けて以来、君の仁の恵みをこの民にこうむらせようとするだけだった。
天地に祈り鬼神に誓い今日に至った。
しかしながら当君は幼く先君以来の事業をお聞きになっていない。
時の家老はついに国家を復興し民を安らかにする道を廃した。
時勢はどうにもすることができない。
私は聞いている、君子は天をも怨まず人をも咎めずと。
私もまた誰をか怨み誰をか咎めようか。
皆、私の誠心が足らない所から出たものである。
この道の本源である小田原が既にこの道を廃した。
我は他に行ってこの道を立てる時は、小田原の非を顕わすようである。
だから今すぐに諸方の仕法も一時に中止し、小田原の心を安らかにしよう。
これが私が亡き主君に答える道である。」と。
まさに発しようとした。
諸侯たちにこの事を通告した。
諸侯は議論して言った。
「先生の国を興し民を安らかにする道は天下の良法である。
そうであるのにこれを廃棄するのは小田原君臣の大きな過ちといわなければならない。
現在、自国の百年の廃を挙げて、この民を安らかにし国家の永安を開こうとしている。
どうして他の大きな過ちにならうことができようか。」と。
先生の一世の困苦と心を労されたことはこの時に過ぎるものはなかった。
小田原の先君の墓に詣って、ひざまずいて合掌し涙を流して時刻を移過ごした。
従者は皆、先生の至誠を感じて共に涙を流して声を呑むほどであった。
その後に先生は終身先君の仁を拡充することができなかったことを憂いとし、心に小田原に再び民を安らかにする道が開ける事を祈られたという。

高慶は言う。
「昔は、孔子孟子は民の虐政に苦しむことを哀れみ、これ安寧の境遇に至らせようして、天下を周遊して王道を説いた。
およそ国を治め民を安んずるのは人君の職である。
その職にあってそ道を求めることぐらい切要なものがあろうか。
しかるにひとたびその言葉を聞いても、皆茫然として聾者のごとく、おしのごとく、これを用いようとする者がなかったのである。
先生においてもあれほどの至誠、あれほどの顕著な功績がありながら、いったん小田原侯が逝去されては、その遺言もたちまちにして廃棄されてしまった。
実に道の行われがたいことは今も昔も同じであって、聖賢もまたどうにもすることができなかったのである。
しかしながら、先生の教えに至っては、たとい当世に施すことができないにしても、後世に垂れ流すことますます明らかなものがある。
決して、一時の陰顕によって先生の価値を上下することはできないのである。




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