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報徳記巻之六【1】下館良法を先生に依頼す

報徳記  巻之六 

【1】下館侯興復安民の良法を先生に依頼す

常州(じやうしう)下館侯(しもたてこう)は下館城附(しもたてじやうふ)一万(いちまん)三千石河内国(かはちのくに)に七千石合(がつ)して二万石(にまんごく)を領す。
天明卯辰(うたつ)の凶荒以来戸口(ここう)大いに減じ、収納の減少も亦之に准(じゆん)ず。
上下の艱難甚しくして一藩扶助の道も全からず。
負債三万余金(まんよきん)に及び、一年の租税其の利を償ふに足らず。
百計を尽(つく)すと雖も此の艱難を除き永安の道を立ることを得ず。
上下大いに之を憂ふ。
天保九戌(いぬ)年に至りては既に一藩扶助の道なきに至れり。
領民の艱苦も亦推して知るべし。
然るに先生桜町三邑(いふ)再復の功蹟下民(かみん)撫恤(ぶじゆつ)の仁術を聞き、郡(こほり)奉行衣笠某(なにがし)をして桜町に至り、上下の憂ひを除き永安の道を依頼せしむ。

衣笠某(それ)其の性(せい)慈仁実直(じじんじつちょく)にして頗(すこぶ)る人望を得たり。
国家(こくか)を憂ふること深きを以て君(きみ)此の大事を命ず。
衣笠某(なにがし)君命を奉じ桜町に来(きた)り先生に見えんことを請ふ。
先生事務暇(いとま)あらざるを以て之を辞(じ)す。
再三請ふと雖も見(まみ)ゆることを得ず、下館に帰(かへ)り言上して曰く、
夫れ賢人に逢(あ)はんことを求むると雖も見(まみ)ゆるを得ざるもの古今の常なり。
貴(たつと)きを以て賎(いや)しきに下るものは其の賢を貴ぶなり。
今君命を奉じ彼の地に至ると雖も二宮固辞(こじ)して逢わず。
其の賢益々(ますます)明白なりといふべし。
再三往(ゆ)きて君(きみ)の敬礼(けいれい)信義を通ずるにあらざれば見(まみ)ゆることを得べからず。
況(いはん)や国事(こくじ)の依頼を受けんや。
某(それがし)二度(ふたたび)彼の地に至り君意(くんい)の切(せつ)なることを述べん而已(のみ)と。
君(きみ)曰く、
然り是(これ)予が誠不誠にあり。
汝再三往(ゆ)いて信義を通ぜよ。
是(こゝ)に於て衣笠再び桜町に至り頻(しき)りに請(こ)ふて止まず。
先生止む事を得ずして面会(めんくわい)す。

衣笠大いに歓(よろこ)び言ひて曰く、
主家(しゆか)連年艱難に迫り借財数万両(すうまんりやう)に及び元利之を償ふの道なし。
年を経(ふ)るに随(したが)ひ増借に至り、既に一藩を扶助することを得ざるに及べり。
此の艱難を除かずんば、遂に災害並び至り亡国(ぼうこく)に比(ひ)せん而已(のみ)。
君臣共に百計焦思(せうし)すと雖も凡慮の及ぶ所にあらず。
我が君(きみ)之が為(ため)に寝食を安んぜず、先生の高徳仁術の良法を聞き頻(しき)りに欣慕(きんぼ)し、尊諭を受け此の艱難を除き、一度(ひとたび)上下を安んじ忠孝の道を尽(つく)さんことを願ひ、某(それがし)に命じて国家(こくか)再興の事を先生に依頼せしむ。
願くは先生下館(しもたて)上下の困苦を憐み、再復安堵(あんど)の良法を授け、我が君の心を安んじたまはん事を請ふと云ふ。
先生曰く、
某(それがし)此の三邑(いふ)に宰(さい)として此の民を撫育する事、猶(なほ)力足らずして君命を辱しめんことを恐る。
何ぞ外(ほか)諸侯の託を受けて、其の艱苦を除くの余力(よりょく)あらんや。
曽(かつ)て小田原先君某(それがし)に此地の再興を委任せり。
之を辞(じ)すること三年、而(しか)して命を下すこと弥々(いよいよ)切なり。
予已(や)む事を得ず此の地に来(きた)り此の事を成せり。
先君小田原領を再興せんとして屡(しばしば)余に問ふ。
余曰く、
小田原上下の勢ひ四時(じ)中の秋に当(あた)れり。
夫(そ)れ秋なるものは百穀皆熟し周年中此の時を優(ゆた)かなりとす。
小田原旧来(きうらい)の艱難少しく免れ下民の艱苦を知らず。
賦税(ふぜい)を重くして目前の逸楽を好み国本(こくほん)を薄くして其(そ)の末葉(ばつえふ)を厚くすることを主とせり。
之を病者に譬(たとへ)んに逆上(ぎやくじやう)の疾(やまひ)の如し。
一身の気(き)頭上に登り両足(りやうそく)冷寒、気(き)血下(しも)に回らずして遂に重病に至らん。
之を治(ぢ)せんとせば上気(じやうき)を下(くだ)し両足(りやうそく)をして温暖ならしめ血気(き)惣身(そうしん)に循環せざれば其の疾(やま)ひ治(ぢ)すべからず。
然るに下部の厥冷(けつれい)を憂ひとせず逆上を以って幸(さいはひ)となさば、遂に一身を失ふの害を生ぜんか。
今下民(かみん)艱難の米粟を度外に納めさせ、之を以て一藩の悦びとなす者何を以て之に異ならんや。
危道に身を置き安泰なりとせり。
此の憂ひを除かずんば不朽の平安は得難かるべし。
夫れ治平(ちへい)の道如何(いかん)。
上を損(そん)して下を益し、大仁(だいじん)を下し下民(かみん)を撫育し国民(こくみん)をして優(ゆた)かならしめば、逆上の憂ひ去り、国本(こくほん)固くして上下安かるべし。

然れども一藩何ぞ民を憂ひ自ら艱難に安んずるの心あらんや。
故に道は善美なりと雖も、当時(たうじ)の人情にては行はれ難し。
自然艱苦の時至らば又行はるゝの時あらんか。
強(し)いて秋節に臨み春陽の道を施さんとせば、事成らずして憂(うれひ)を生ぜんか。
良法ありと雖も其の時にあらざることを如何(いかん)せんと言上せり。


夫(そ)れ衰貧の起る所必ず根源あり。
其(そ)の本を察せずして徒(いたづら)に目前の憂(うれひ)を除かんと欲す。
是の故に力を尽(つく)して益々(ますます)其の憂ひ増倍するもの滔々(たうたう)として皆是(これ)なり。
今下館侯天下の一諸侯として其の禄二万石(にまんごく)を領し玉ふ。
然して衰貧の極に至ることを免れずんば小禄小給のもの誰(たれ)か一人(ひとり)此の世に立つことを得んや。
諸侯にして此の憂ひに及ぶもの他(た)なし。
下(しも)百姓を安ずるを以て諸侯の任とせり。
然して其の任を怠り安ずることあたはざるのみにあらず。
下民(かみん)粒々(りふりふ)辛苦の米粟を以て、奢侈(しやし)の用に充て民の父母たるの道を忘れたるが故に非ずや。
是(こゝ)に於て領民年々に窮し農力を失ひ、衰貧に陥り租税減少して遂に上下(じやうげ)の艱難となる。
猶(なほ)其の本を省みずして坐(ゐ)ながら、商賈(しやうこ)の財を借り其の不足を補はんことを計り、天分(てんぶん)の分限を省み節度を立てんとするの行ひなく、借債なるもの国家(こくか)を亡(ほろぼ)すの讐敵(しうてき)なることを知らざるが故に往々衰極を致せり。
一旦其の本源を明かにして仁政を行ふに非ざれば、何を以て国(くに)の衰廃(すゐはい)を挙(あ)げ永安の地を踏(ふ)むことを得ん
や と。

衣笠某(ぼう)之を聞き大いに感じ且(かつ)歎じて曰く、
嗚呼(あゝ)先生の教導誠に至れりといふべし。
夫れ小田原先君は賢君にして仁義の道を行ひ玉ふこと世の称(しょう)する所なり。
然りと雖も小田原の時勢既に秋に当(あた)り、仁政行はれ難しと先生言上し給ひ、賢公大志を懐き空しく過し玉ふとならば、其の時に非ずんば聖人と雖も如何(いかに)とも為すべからざるもの也(なり)。
此の君にして此の臣あり、然して猶(なほ)行はれず、今下館の時候は何と云べきか。
春夏(しゆんか)にもあらず秋(あき)にもあらず、且(かつ)之を譬(たと)へば厳寒の時と云ふべし。
何を以て此の憂ひを除く事を得ん。
仮令(たとひ)衰廃(すゐはい)極れりと雖も人力(じんりょく)の及ぶ所にあらずと大息して将(まさ)に退(しりぞ)かんとす。
先生曰く、
然らず。
小田原秋の時候なるが故に、人其の目前の利を利として仁道行はれ難し。
下館(しもたて)既に極寒に至れり。
陰極る時は一陽(いちやう)来復(らいふく)せずんばあるべからず。
上下艱難に困(こん)せり。
是に於て春陽の道を行はんには其の時至れるに非ずや。

衣笠忽然(こつぜん)悦びて曰く、
先生下館再盛の道なきにあらずとすることは如何(いかん)。
先生曰く、
万物(ばんぶつ)一も其の一処(しょ)に止まることあらず、四時の循環するが如し。
人事(じんじ)富む時は必ず奢(おご)りに移り、奢る時は貧しきに移り、貧極まる時は富に赴くもの是(これ)自然の道にあらずや。
今下館貧困極まれり。
何ぞ再盛の道を生ぜざらん。
然りと雖も君臣共に心力(しんりょく)を尽(つく)し一致の誠心立たずんば大業成すべからず 
と云ふ。
衣笠大いに感激し下館に帰(かへ)り、先生の言を以て君(きみ)に告ぐ。
君深く歎賞して群臣に告ぐ。
群臣も亦其の確言(かくげん)を感ぜり。
是(これ)下館仕法の始めなり。


「報徳記」現代語訳 巻の6【1】下館侯興復安民の良法を先生に依頼す

 常州(茨城)の下館侯(石川近江守(おうみのかみ))は下館城附属の1万3千石と河内国(かわちのくに)(大坂府)に7千石、合わせて2万石を領有していた。天明年間(1781~88)の飢饉以来、戸数人口が非常に減って、収納の減少もまたこれに準じていた。上下の災難や困難がはなはだしくて一藩を助ける方法もないという有様だった。負債が3万余両となり、1年の租税でその利息を償うに足らなかった。いろいろな方法を尽したがこの災難や苦労を除いて永安の道を立てることができなかった。上下非常にこれを憂えていた。天保9年(1838)になってついに一藩を助ける道がなくなった。領民の悩み苦しみもまた推して知るべきである。そのところに先生が桜町3村を再復した功績や民を慈しみ恵む仁の方法を聞いて、郡奉行(こおりぶぎょう)の衣笠(きぬがさ)兵太夫(へいだゆう)に命じて桜町に行かせて、上下の憂いを除いて永安をもたらす道を実施するよう依頼させた。
 衣笠兵太夫は慈仁・実直な性質で非常に人望があった。国家(下館藩)を憂えることが深かったから君がこの大事を命じた。衣笠兵太夫は君命をうけたまわって桜町に来て先生に会見することを求めた(天保8年(1837)10月)。先生は事務が多忙だからとこれを断られた。再三求めたが会うことができず、下館に帰って申し上げた。「そもそも賢人に逢うことを求めても会うことができないのが古今の常です。貴い身分のものが賎しい身分の者に下るのはその賢を貴ぶからです。今、君命をうけたまわってかの地に行っても二宮は固辞して逢いません。その賢はますます明白というべきです。再三行って君が敬い、礼をもって信義を通じるのでなければ会うことができますまい。ましてや国事を依頼することを受けましょうか。私はふたたびかの地に行って君意が切実であることを述べるだけです。」と。君は言われた。「その通りだ。これは私の誠不誠にある。お前は再三行って信義を通じてくれ。」
そこで衣笠は再び桜町に行って(天保9年(1838)9月)しきりに求めて止まなかった。先生はやむを得ず面会された。衣笠は非常に喜んで言った。「主家は連年困難に迫られ借金は数万両に及んで元利を償却する方法がありません。年がたつに随って借金は増していき、すでに一藩を助けることができなくなりました。この困難を除かなければ、ついに災害が並びいたって国が亡んだと同然になりましょう。君臣ともにいろいろな方法を思いわずらっていますが、凡人の考えの及ぶ所ではありません。私の君はこのために寝食を安らかにせず、先生の高徳と仁術の良法を聞いてしきりによろこび慕って、尊い教えを受けこの艱難を除いて、ひとたび上下を安らかにし忠孝の道を尽すことを願って、私に命じて国家再興の事を先生に依頼させました。願わくは先生、下館藩の上下の困苦をあわれんで、再復し安らかに暮せる良法を授けてくださり、私の君の心を安らかにしてくださいますようお願いします。」と言った。先生は言われた。
「私はこの3村に行政官としてこの民を恵み育てるに、なお力が足らないで君命を辱しめることを恐れています。どうしてほかの諸侯の依頼を受けて、その艱苦を除く余力がありましょうか。かって小田原先君は私にこの地の再興を委任されました。これを3年辞退しましたが、命令を下されることいよいよ切実でした。私はやむを得ずこの地に来てこの事を行いました。先君は小田原領内を再興しようとしてしばしば私に質問されました。私は言いました。『小田原の上下の勢いは四季でいうと秋に当ります。そもそも秋というものは百穀が皆熟して1年中でこの時が豊かであるとします。小田原の以前からの艱難が少し免れて民の艱苦を知らない。納税を重くして目の前の遊び楽しみを好んで国の本(百姓)を薄くしてその末葉(武士)を厚くすることを主としている。これを病者にたとえると逆上の病のようです。一身の気が頭上に登って両足は冷えて寒く、気血が下に回らないでついに重病になることでしょう。これを治そうとすれば上気をくだし、両足を温暖にして血気が全身に循環させなければその病は治ることはありません。そうであるのに下部が冷えることを憂いとしないで逆上することを幸いとするならば、ついに一身を失うという害を生ずることでしょう。今、民が艱難の上収穫した米穀を分度外に納めさせて、これを一藩の喜びとするならば、どうしてこの病気と異なりましょうか。危い道に身を置いて安泰だとしているのです。この憂いを除かなければ不朽の平安を得ることは難しいでしょう。そもそも治平の道とはどのようなものでしょうか。上を損して下を益し、大きな仁を下して民を恵み育て国民を豊かにすれば、逆上の憂いが去って、国の本は固くなって上下とも安らかになることでしょう。しかしながら一藩にどうして民を憂い自ら艱難に安んじようとする心があるでしょうか。ですから道は善であり美であっても、現在の人情では行うことは難しいのです。自然に艱苦の時が来るならば、また行われる時もありましょうか。強いて秋の時節に臨んで春の陽光の道を施そうとすれば、物事は成就しないで憂いを生じることでしょう。良法があってもその時でないことをどういたしましょうか。』と申し上げました。
そもそも衰貧の起る所には必ず根源があります。その本を考察しないでいたずらに目の前の憂いを除こうと欲する。このために力を尽してますますその憂いが倍増するというのが世間一般のことです。今、下館侯は天下の一諸侯としてその禄は2万石を領有しています。そして衰貧が極まることを免れなければ小禄小給の者が誰一人この世に立つことができましょうか。諸侯でこの憂いに及ぶのはほかでもありません。下は百姓を安らかにすることを諸侯の任とします。そしてその任務を怠って安らかにすることができないだけではありません。下民が汗水たらして辛苦した米穀を、度を過ぎた贅沢の用にあてて、民の父母である道を忘れたためではありませんか。そこで領民は年々に困窮して農力を失い、衰貧に陥って租税が減少してついに上下の艱難となるのです。さらにその本を反省しないで坐して、商人から借金しその不足を補うことを計画し、天分の分限を省みて節度を立てようとする行いがなく、借金というものが国家を亡ぼす敵(かたき)であることを知らないために往々にして衰極にいたるのです。一度その本源を明らかにして仁政を行うのでなければ、どうして国の衰廃を挙げて永安の地を踏むことができましょうか。」と。
衣笠兵太夫はこれを聞いて非常に感動してさらに歎いて言った。
「ああ、先生の教え導きは誠に至っているというべきです。そもそも小田原先君は賢君で仁義の道を行われることを世は賞賛したところです。しかしながら小田原の時勢が既に秋に当って、仁政が行われがたいと先生が申し上げて、賢公は大きな志を懐きながら空しく過ごされたということであれば、その時でなければ聖人であってもどうにも行うことができないということです。この君があってこの臣がある。そしてなお行われない。今、下館の時候は何というべきでしょう。春・夏でもなく秋でもない、さらにこれをたとえるならば厳寒の時というべきでしょう。どうしてこの憂いを除く事ができましょう。たとえ衰廃が極ったといっても、人の力の及ぶ所ではありません。」と大きくため息してまさに退出しようとした。先生は言われた。
「そうではありません。小田原は秋の時候であるために、人はその目の前の利を利として仁道を行うことが難しいのです。下館は既に極寒に至っている。陰が極まる時には一陽来復しないではいられません。上下が艱難に苦しんでいる。ここで春陽の道を行うというのであればその時が来ているということではありませんか。」衣笠はたちまち喜んで言った。
「先生、下館が再盛する道がなくはないとわれる。それはどういうことでしょうか。」
先生は言われた。
「万物は一つとしてその一つ所に止まることはありません。四季が循環するようなものです。人は富む時には必ず奢りに移り、奢る時には貧しきに移り、貧が極まる時には富におもむく、これが自然の道ではありませんか。今、下館の貧困は極まっています。どうして再盛の道を生じないということがありましょうか。しかしながら君臣が共に心力を尽して一致する誠心が立たなければ大きな事業を成就することはできません。」と言われた。
衣笠は非常に感激して下館に帰って、先生の言葉を君に告げた。君も深く歎賞して群臣に告げた。群臣もまたその確かな言葉に感動した。これが下館仕法の始めである。


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