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報徳記巻之七【6】相馬侯勧農を諭す

報徳記  巻之七 

【6】相馬侯躬から領民に勧農の道を諭す

相馬侯(そうまこう)天保某(それ)年父君益胤君(ますたねくん)の世を継ぎ、爾来(じらい)大いに国家の衰弱百姓の困苦を憂ひ、専ら父君(ふくん)の志(こゝろざし)を継ぎ、国弊(こくへい)を矯(た)め領民の艱難を救(すく)はんことを以て心思(しんし)を労(らう)し、衣(い)は綿衣(めんい)を用(もち)ゐ食は味(あじは)ひを重ねず、諸人に先立ち艱難を厭(いと)はず、江都(かうと)に在(あ)つては力を公務に尽し、国に在りては春秋(しゆんしう)必ず自ら領邑(りやういふ)を巡歩し百姓の疾苦(しつく)を問ひ、大雨(たいう)暴風雪中(せつちゆう)といへども駕(が)を用ゐず、躬(み)親(みづか)ら籍田(せきでん)を耕やし民の艱難を試み、民間の老人を賞して父老を尊敬せんことを教へ、力田(りきでん)のものを賞して勧農(くわんのう)の道を教へ、幼若(えうじやく)を導くに孝悌(かうてい)を以てし、貧民を安撫(あんぶ)して其の業(げふ)を励ましめ邑々(むらむら)の盛衰人気(にんき)の善悪を直見(ちょくけん)し、諭(さと)すに二宮の良法を以てし玉ふ。
領民君(きみ)の仁心深くして民を憐み玉ふことの厚きに感じ、汚風(をふう)を革(あらた)め家業を励み、君の憂労(いうらう)を安んじ奉らんとす。

是を以て弥々(いよいよ)先生の道広く行はれ、大いに風化(ふうくわ)することを得たり。
且(かつ)忠臣を挙げ政(せい)を任じ、能(よ)く臣下の諌(いさ)めを納(い)れ、善言を求めて以て速かに之(これ)を行ひ、臣下過(あやま)ちありといへども、教諭(けうゆ)を加へ改心せしむるを以て先とし人を廃棄せず、屡々(しばしば)先生を招き礼を厚くして教へを請ひ、其の論説を聞き大いに悦び、益々(ますます)其の道を施行(しかう)し、群臣に仕法の良善なることを諭(さと)し、仕法に力を用ゐる臣下を召(め)して屡々(しばしば)其の労を慰(ゐ)し厚く賞譽(しやうよ)を下し玉ふ。
是(これ)を以て諸臣感激し再興の道を成就し、君意を安んぜんことを以て今日の専務とせり。
美名他邦(たはう)に響き賢君を以て称するに至れり。
其の初め幼若(えうじやく)の時に当り、先君甚だ之を愛して膝下(しつか)に養育し玉ふ。
草野大夫顔色(がんしよく)を正し諌(いさ)めて曰く、
君(きみ)豊丸君(とよまるぎみ)を愛し玉はゞ、必ず艱難の地に於(おい)て養育し玉ふべし。
古(いにしへ)より人君(じんくん)幼(えう)にして深宮(しんきゆう)に居(を)り婦人の手に長(ちやう)じ玉ふもの、往々闇愚(あんぐ)にして嘗(かつ)て下民の艱苦を知らず。
奢侈(しやし)に流れ放肆(ほうし)に陥り、遂(つひ)に国家(こくか)の衰廃に赴(おもむ)くこと珍しからず。
今国家の衰弱百姓の艱難は、君(きみ)の明らかに知り玉ふところなり。
此(こ)の君をして艱苦に長じ賢明ならしめば、父君(ふくん)の善政を地に墜(おと)さず、一藩を憐み百姓を撫育(ぶいく)し、国家(こくか)再興の政(せい)成就すべし。
若し愛(あい)に泥(なず)み婦人(ふじん)の手に長(ちやう)ぜしめ玉はゞ、庸君(ようくん)にして艱苦を厭(いと)ひ、臣下の言を用ゐず、稼穡(かしょく)の艱難は何(なに)ものなることを弁(わきま)へ玉はざるに至らんか。
然らば君(きみ)一世の丹誠を以て国事(こくじ)を憂労(いうらう)し玉ふことも一時に廃し永(なが)く再盛を断ぜん。
誠に君の不幸而已(のみ)にあらずして一国上下(しやうか)の大患(たいくわん)なり。
夫(そ)れ生まれながら賢聖なるは億万中といへども得難し。
仮令(たとひ)性質賢なりといへども艱難を経ざる時は其の美質(びしつ)顕はれずして、仁恕(じんじよ)の心薄し。
況や其の次をや。
是れ古人(こじん)切磋琢磨(さつさたくま)の功を重んずる所以(ゆゑん)なり。
臣幼君(えうくん)をして、上(かみ)忠孝を尽し下(しも)百姓を恵み玉ふの賢君ならしめんことを願ふ而已(のみ)。
君それ之を慮(おもんぱか)れ。

先君感賞(かんしやう)して曰(いわ)く、
汝(なんぢ)の言(げん)誠に国家を憂ひ予(よ)が父子(ふし)を愛するの忠言といふべし。
故に今直(たゞ)に此(こ)の子を以て汝(なんぢ)に委(まか)せん。
進退養育の道余(よ)敢(あへ)て言はず。
汝(なんぢ)が意(い)に任ぜよ
と命ず。

是(これ)に於(おい)て大夫(たいふ)謹(つゝし)みて命を受け、直ちに破れたる小屋(こや)を修復し、幼君(えうくん)をして此(これ)に居(を)らしめ、婦人は悉く退け、質直(しつちょく)誠実のものを選びて巵従(こじゆう)となし、教ふるに仁義を以てし導くに忠孝を以てし、朝(あさ)は未明より文学を勧(すゝ)め武道を講じ、衣(い)は綿衣(めんい)を以て常とし、食は二味(み)を重ねず。
悉く艱難を以(もつ)て養育心を尽せり。
是(これ)を以て其(そ)の長(ちやう)となり玉ふに至りて能(よ)く艱難に堪へ、下情(かじやう)に達し、父君(ふくん)の志(し)を継ぎ国家(こくか)再興の大業を開き、譽(ほま)れ遠近に及ぶものは其の質(しつ)甚だ美なりといへども草野大夫(たいふ)忠心の力なり。
曽(かつ)て先生此の事を聞き歎賞して曰く、
夫(そ)れ諌(いさめ)めを納(い)れ愛(あい)を割(さ)くことは人情の難(かたん)ずる所なり。
然るに先君断然として諌(いさ)めに随ひ、愛子(あいし)を以て艱難の地に養はしむ。
且(かつ)諫言は臣の難(かた)んずる所なり。
草野屡々(しばしば)諌言(かんげん)し両君をして仁政を行はしむ。
君臣素(もと)より此の如くにして国家(こくか)再興せざる者はあらず。
今我が仕法の彼の国に流行(りうかう)すること、実に一朝一夕の故にあらず
 と。


(原文漢文)
高慶曰く
草野大夫の君に事る要を得たる者と謂ふ可し。
古自り忠義の士拮据國に勤め人主驕恣放縦諌め行はれず
言聴かれず忠良廢黜し奸邪事を用るに國事日に非に百姓離畔す。
知者有りと雖も之を如何ともす未だ之を如何ともする者比々是れ也。
大夫夙に國家の衰を擧んと欲し是に於て進てトウ言を以て幼主をして艱難の中に安んじ儉を尚び用を節するを知らしめ位を立て嗣ぐに及びて沛然として膏澤四境に浹ねし。
傳に曰く、
一たび君を正して國定ると。
大夫焉有り。


報徳記現代語訳 巻の7 
 【6】相馬侯躬から領民に勧農の道を諭す

 相馬充胤(みつたね)侯は、天保6年(1839)父君益胤(ますたね)公の世を継いで、以来非常に国家の衰弱や百姓の困苦を憂えて、専ら父君の志を継ぎ、国の弊害を直し領民の艱難を救うことに心思を労し、衣服は木綿の着物を用い、食事のおかずは二品に及ばず、諸人に先立って艱難を厭うことがなかった。江戸にあっては力を公務に尽し、国にあっては春と秋には必ず自ら領村を歩いて巡り、百姓の悩み苦しみを聞いた。大雨・暴風・雪の中でも駕籠(かご)を用いず、自ら籍田(せきでん:宗廟の祭祀に供える穀物を植えるため、君主が自ら耕作する田)を耕やして民の艱難を試し、民の間の老人をほうびを与えて父老を尊敬することを教え、田をよく耕す者にほうびを与えて農業を勧める道を教え、幼い者、若者を孝悌の道で導き、貧民を安らかに恵んでその仕事を励まし村々の盛衰やその地方の気風の善悪を直接見聞し、二宮の良法をもって諭された。領民は君主の仁心が深く民を憐まれることが厚いことに感動して、悪い風俗をあらためて家業を励んで、君主の憂労を安らかにしようとした。そこでいよいよ尊徳先生の道が広く行われ、非常に人々が教化された。
さらに忠臣を挙用して政治を任せ、よく臣下の諌めをうけいれ、善言を求めてすぐにこれを行い、臣下に過ちがあっても、教諭を加えて改心させることを先として人を廃棄せず、しばしば尊徳先生を江戸藩邸に招いて礼を厚くして教えを求めた。その論説を聞いて非常に喜んで、ますますその道を行い、群臣に仕法が良善であることをさとし、仕法に力を用いる臣下をまねいてしばしば慰労して厚くほうびを下された。そこで諸臣は感激して再興の道を成就して、君主の心を安らかにすることを今日専念すべき務めとした。美名は他藩に響いて賢君であると賞賛されるようになった。
その初め幼若の時に当って、先君益胤(ますたね)公は大変甚だこれを愛し親元に養育されていた。草野家老は威儀を正して諌めて言った。「殿が豊丸君を愛されるならば、必ず艱難の地で養育すべきです。古来君主が幼ない頃、宮殿の奥深い所にいて、婦人の手によって成長した者は、往々道理に暗い愚か者となってかって人民の艱難辛苦を知りません。度を超えてぜいたくにふけり勝手気ままな生活に陥って、ついに国家の衰廃におもむくことは珍しくありません。今、国家の衰弱、百姓の艱難は、殿が明らかに知られるところです。この君を艱難辛苦のなかで成長させ賢明とならせれば、父君の善政を地に墜すことなく、一藩を憐んで百姓を恵み育て、国家を再興させる政治を成就させることでしょう。もし愛にとらわれて婦人の手で成長されれば、凡庸な君主となって艱難辛苦を厭い、臣下の忠言を用いず、農業の苦労はどういうものか分らないようになることでしょう。そうであれば殿が一世の心をこめて国事を憂い苦労されたことも中廃してしまい永く再盛を断つこととなりましょう。誠に殿の不幸だけでなく一国上下の大きな患いとなります。そもそも生まれながら聖賢である者は億万人中でも得ることが難しいものです。たとえその性質が賢であっても艱難を経ない時にはその美質は顕われることなく、仁恕の心は薄いものです。ましてその次においてはなおさらです。これが古人が切磋琢磨の功を重んじる理由です。臣は幼君が、上(かみ)には忠孝を尽し、下(しも)には百姓を恵まれる賢君となられることを願うだけです。殿どうかこれをお考えください。」
先君益胤(ますたね)公は感動し賞賛して言われた。「お前の言葉は誠に国家を憂い予が父子を愛するもので忠言というべきだ。だから今、すぐにこの子をお前にゆだねよう。進退養育の道は余はあえて言うまい。お前の思うところにまかせよう。」と命じられた。
ここに家老は謹んで命を受けて、すぐに破れた小屋を修復し、幼君をこれに居らせて、婦人はことごとく退けて、性質が直であり誠実の者を選んで従者とし、仁義を教え忠孝をもって導き、朝は明けないうちから文学を勧め武道を講じ、衣服は木綿の着物を常とし、食時はおかずを重ねなかった。すべて艱難によって養育することに心を尽した。これによって成長されてからよく艱難に堪え、人民の実情をよく知り、父君の志を継いで国家再興の大業を開いて、褒め称える声が遠近に及んだのは、その性質が大変美質なだけではなく、草野家老の忠心の力でもある。かって尊徳先生はこの事を聞いて歎賞して言われた。
「そもそも諌めをいれ愛を割くことは人情として難しい所である。そうであるのに先君が断然と諌めに随って、愛する子を艱難の地に養わせる。さらに諫言は臣として難しい所である。草野はしばしば諌言して両君に仁政を行わせた。君臣がもともとこのようであれば国家が再興しないものはない。今、私の仕法が彼の国に流行することは、実に一朝一夕の理由によるのではない。」と。

「補注 報徳記」(佐々井典比古訳注)

著者(富田高慶)は思う。
草野家老が君に仕えた生き方は、要を得たものと言うべきである。
古来、忠義の士が苦心して国事に勤めても、君主がわがまま放縦で、諌めも忠言も聞き入れられず、やがて忠良の臣は廃せられ、奸邪の臣が政権を握るに至って、国事は日々に非道に陥り、百姓は離反し、知者があってもどうにもしようがなくなる例が実に多い。
家老は早くから国家の衰微を興そうと志していた。
ここにおいて進んで直言し、幼主が艱難のうちに安んじ、倹約節用の尊きを知るように仕向けた。
果たしてこの君が立って位を継ぐに及び、仁沢は慈雨の降り注ぐように四境にあまねく行き渡った。
古語に「一たび君を正して国定まる」とあるが、この言葉を実行した者に草野家老がある。


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